開かずの間の住人≪前編≫
「蓮香様!! 助けて下さいませ!」
林杏の泣き声に私は小さくため息をつく。林杏は決して悪い子ではない。裕福な商家の娘で後宮に入る前ならば、私よりいい生活を送ってきたであろう人物だ。
男ばかりの兄弟の末っ子ということで、花よ蝶よと可愛がられてきたらしく、よく言えば素直、悪く言うと直情的だ。ただ1200人の女が集まる後宮で過ごすには少し苦労が多そうな性格をしており、よくこうして私に泣きついてくる。
「どうしたの?」
だが、そんな彼女が持ってきてくれる騒動は機織り宮女の私には適度な余暇でもあった。
「今日、昼間に書庫で本を借りてきたんですけど返すのを忘れてしまったんです」
後宮には宮女専用の書庫があり、自由に借りることができる。後宮の書庫の中では特別蔵書数が多いというわけではないが、人気の小説などもいち早く貸し出しされることから非常に人気が高い。
「人気作品を借りてしまったので、今日返さないと次回から新作が、借りられなくなっちゃうんですよ」
なかなか陰湿なやり方だが、この輪に入り約束事を守るならば早い段階で新作が読めるという点で魅力的な規則体系だ。
「返してきたらいいじゃない」
特に大きな問題ではないことに私は内心落胆する。寝ることを知らない後宮。既に夜中を過ぎているが書庫は勿論、開いている。林杏のいう『その日』は日が昇る前のことを指し、時間ならば問題なく存在するのだ。
「返すって! もう夜中ですよ!! 開かずの間の前を通らなきゃ行けないんですよ?!」
「開かずの間って……」
返却に行けない理由に私は思わず吹き出す。
「笑わないで下さいよ!! 開かずの間には本当に出るんですよ?!」
「前皇后・蓉儀様の霊がでしょ?」
開かずの間に前皇后が幽閉されており、幽霊がでるという逸話は後宮の中では有名だ。だが、あくまでも噂話で、そんな子供じみた噂話を林杏が信じていたことに思わず吹き出しそうになる。
この数年、宦官と宮女の不義は度々噂されており後宮内の警備は強化されている。無用の混乱を避けるためにも夜中に後宮内を出歩くなという訓戒的な逸話に違いない。
「ご存知じゃないですか!! 自分に御子ができなかったから、貴妃様の皇子を暗殺しようとした蓉儀様の霊ですよ? 書庫に行くにはその蓉儀様が幽閉されていた『開かずの間』の前を通らなきゃいけないんですよ!?」
出ない方が不思議だと言わんばかりの彼女の主張に私は、そうね、とあえて反論しない。
「夜中になると蓉儀様の霊が現れて『陛下~~陛下~~』ってすすり泣くんです。この前、友達の友達の宮女が見たんですよ!」
林杏本人が見ていないのにここまで怖がれることが不思議で仕方ない。
「ねぇ、林杏、それって変じゃない?」
「何がですか?」
「だって蓉儀様は幽閉されていたのよね?なんで部屋から出てくるのよ」
「それは幽霊だからですよ!」
当たり前の質問をするなと叱責するような林杏の主張に私は首を傾げる。
「本当に先帝に会いたかったら、開かずの間の前になんているかしら?」
幽閉されていた時ならいざ知らず、幽霊になれたのなら心置き無く想い人の所に行くはずだ。さ迷うならば皇帝陛下の寝所が妥当だろう。
「そ、それは先帝が崩御されたことをご存知ないんですよ」
「そうね。蓉儀様が亡くなられたのは二十年前……だものね。皇帝が即位したことをご存知ないのも不思議ではないけど……ねぇ、林杏今から行ってみない?」
私の隠そうとしない好奇心に、林杏が喉の奥で「うぇ――」と小さく唸ったのが聞こえた。
林杏に手を引かれながら、静まり返った廊下を歩くと、コツンコツンとり軽快な二つの足音が響く。何だかんだと言って、林杏もまた深夜に出歩くというこの状況を楽しんでいるのだろう。
「でも本当に幽霊がいたらどうするんですか?」
「どうもしないわよ。成仏して頂くにしても探されている『陛下』は崩御されているからね」
単に先帝に恨み言を言いたいならば、亡くなられた二十年前に解決していそうな問題だ。しかし、この霊が出現すると言われ始めたのは、ここ最近の話だ。
「蓮香様は見えないからいいですけど……」
「ちょっと聞こえているわよ」
失言が多いのも林杏の悪い癖だ。確かに私には目の前の景色は見えないが、その光景を想像することができる。時には目が見える人には見えないものが、見えることだってある。今が正にそうだ。
足に響く音から大理石の床。等間隔に並ぶ大きな柱。黴臭い香り。三人分の衣が擦れる音……。
私は慌てて大きな柱の影に林杏を押し込むようにして一緒に隠れた。
衣が擦れる音が増えたのだ。
「で、出ましたか????」
「幽霊に歩く音があるならばね」
林杏が柱から顔を覗かせると一瞬で元の体勢に戻る。
「い、い、い、いました!!!蓉儀様の霊です!」
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中編を本日6時に更新予定です。