そして誰もいなくなった《其の弐》
「瑛庚様……。さすがに今日、ここにいらっしゃるのはどうかと思います」
私の部屋の長椅子の上でくつろぐ瑛庚様を前に、思わず本音を呟いてしまった。
「確かに既に第五子目のご誕生で、感動は薄いのかもしれませんが、さすがに……さすがに今日ばかりは紅花様の側にいて差し上げるか、誰のところにもお渡りになられないのが筋ではないでしょうか」
今日は紅花様のお子様誕生を祝う宴が開かれた。もちろん宮女である私は仕事に追われていたこともあって招待すらされていないし、仕事がなかったとしても招待されるような関係でも身分でもない。ただ林杏は一日中、駆り出されていたらしく深夜を回った今もまだ部屋には戻ってきていない。
「あまり実感が沸かないのだよ」
瑛庚様のとんでもない言い分に思わずカチンときてしまう。確かに男性は子供を産むという行為をしないため、突然目の前に赤子を突き付けられた状態だろう。だが『実感が沸かない』という言葉は、宮女の前であっても口にするべきではないと思う。
「瑛庚様……それはあまりにも……」
「怒らないで怒らないで。言葉が足りなかったよね。今回紅花のお産はちょっと変わっていてさ……。出身部族の伝統的な方法で出産したいって言い出して――。なんでも水中で産むらしくてね。宮医すらも締め出された状態で出産だったんだよね」
紅花様は北方の少数民族の族長の娘だ。話にしか聞いたことはないが、着る物、食べる物など色々な文化の違いがあるらしい。現に後宮に入られた時、私が織った帯を「こんな帯は嫌だ」と泣いて投げつけられた程だ。
文化の違いだけではなく、そのキツイ性格もまた彼女の人生を生きにくくしているに違いない。
「実は、今日初めて赤子と対面したんだ」
一般男性ではないので出産直後に赤子と対面しないのは当たり前だが、二週間後の式典で初めて顔を合わすというのも不思議な話だ。
「だからといって……」
「子供の誕生」よりも「文化の違い」に困惑していると分かり、反論する言葉に力が入らなくなってくる。
「蓮香は優しいな……」
そう言って突如手を引かれ、そのまま瑛庚様の隣に座らされる。ほぼ抱きしめられるような距離感に、胸は張り裂けんばかりにドキドキと音を鳴らす。
「だ……ダメです……」
近くなったことにより強くなる瑛庚様の香りにクラクラさせられ、やはり抵抗する言葉に力が入らない。いつの間にか背中に回された手がさらに二人の距離をさらに縮める。『口づけされる……』と覚悟を決めた瞬間、遠くからつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
その声を合図にするように私は瑛庚様の胸を精一杯押して離れた。
「な、何かあったみたいです」
「だな」
その声には先ほどまでの柔らかい雰囲気はなく、皇帝としての彼に戻っているのが伝わってきた。あまりの切り替えの早さに、感心すると同時にもの悲しさも覚えるから不思議だ。少しすると肩で息をした林杏が部屋の中に
「失礼いたします!!」
と駆け込んできた。そして
「大変です!! 紅花様付きの宮女が井戸に転落されて亡くなられました!!」
ととんでもない事実を伝えた。
林杏の話によるとこうだ。
宴会が終わり、宮女らが残り物で勝手に二次会を開いていたらしい。すると井戸のあたりから悲鳴と共に壺が割れる音がしたので、行ってみると中には紅花様付きの宮女が浮かんでいたという。
最初は転落しただけかと助けようとしたらしいが、運悪く井戸に落ちる途中でどこかに頭を打ったらしく絶命していたのだとか。
「このような時に……」
林杏の報告を受けて、瑛庚様は苦虫をつぶすような声でそういう。
「その井戸は紅花の部屋から一番近い井戸だな……」
「さようでございます」
そう言われて彼の苦悩の理由がようやく理解できた。
紅花様の部族では八卦を何よりも大切にするらしい。後宮に入られた時も「家相が悪い」と大騒ぎして部屋を変えるよう嘆願されたほどだ。(最終的に専門の局によって、後宮全体で見た時に家相はいいということを伝えられ納得していた)今回の事件を受けて、生まれたばかりのお子様のために部屋を移転したいと言い出しかねないだろう。





