従五品の機織り宮女
時は遡ること一年前。
その日、私は窓辺に置かれた機織り機の前で手を動かしていた。午後のあたたかな日差しを頬に受け、機織り機の音を聞くのは何よりも好きな時間だ。そんな至福の時間を
「だから、黙って作ればいいのよ!!!」
という金切り声に近い声が打ち破る。
「あんたじゃ、話にならない!!!! 機織り宮女を出しなさいよ!! 皇后様がご所望されているのよ!」
その怒声の大きさに私は耐えられず、椅子から立ち上がり入口へ向かう。行く先が見えるわけではないが、慣れ親しんだ部屋だ。誰に手を引いてもらわないでも動き回ることはできるが、私に気付いた侍女の林杏は慌てて駆け寄った。
「蓮香様、どうぞお戻りになっていて下さいませ」
「お客様は私がお話しないと、ご納得されないようよ?」
相手の宮女の顔を伺い知ることはできないが、高まった体温で強くなった香水の香り、小刻みに聞こえる衣擦れの音から、とんでもなく興奮しているのは伝わってくる。
「そうよ!従五品の分際で勿体ぶって!さっさと出てくればいいのよ」
後宮専属の機織り宮女である私の身分は決して高くなく、どちらかというと皇后様付きの宮女の方が身分が高い。
「皇后様付きの宮女様ですね」
「な、なんで分かるのよ」
言い当てられ相手が怯む様子が、その声から伝わってくる。
「さきほどこの者に仰っていたではございませんか。『皇后様がご所望だ』と」
「聞こえていたの?」
彼女が驚くのも無理はない。確かに私は部屋の奥にいて、普通ならば入口で林杏が交わされている言葉は聞こえない距離にいた。
「聞こえましたので、慌てて出て参りました。それで皇后様からのご依頼というのは……」
「これを明日までに作って欲しいとのことよ!!」
押し付けるようにして渡された紙の表裏を触り小さくため息をつく。なぜこんなに簡単にバレる嘘をこの人はつくのだろうか……。
「こちらは皇后様からのご依頼ではございませんね」
「な、なんで分かるのよ!!!!」
彼女の声がここに来て一番大きくなる。図星だったのだろう。
「ご存知かと思われますが、私は式典を司る尚儀局の機織り宮女です。皇帝陛下、皇后様、礼部長官様からのご依頼しか承っておりません」
後宮内での衣類を調達する部署(尚服局)は別に存在する。ただ帯が欲しいならば私ではなく他の部署へ行くのが筋なのだ。
「だ、だから皇后様からの……」
「もし皇后様からのご依頼でしたら、このような用紙は使われません。そもそも作画された物をそのまま使って織るわけではないんです。専門の職人によって方眼状に区切られた設計図なるものが作成されます」
そしてその設計図は私が触れば指先だけで構図が分かるよう凹凸が付けられている。だが先程宮女から渡された紙には、絵の具の凹凸はあっても設計図のそれはなかった。
「何かの手違いではございませんでしょうか」
ここで彼女をさらに追い詰め、罪に問うことは簡単だ。だが、もし皇后様付きの宮女だった場合、後宮最大勢力である皇后様を敵に回すこととなる。
「林杏、奥の棚の上から二番目の引き出しにある帯を持ってきてちょうだい?」
「蓮香様……あれは……」
「いいのよ。持ってきてちょうだい?」
林杏の足は苛立つように小さく床を叩くが私が笑顔を向けると素早く部屋の奥へと向かった。
「お急ぎのようですので、ご用意頂いた作画とは異なりますが帯をご用意致しますのでお待ち下さいませ」
「し、仕方ないわね。それでいいから出しなさい!!」
上手く私を騙せたと思ったのだろう彼女の声が少し明るくなる。
「蓮香様……こちらになります」
林杏はそう言うと、私の手首を掴み帯の上にのせる。「ありがとう」と伝え、素早くその帯に手の平を這わした。その凹凸から百合と蝶が描かれた目的の帯だと判明する。
「皇后様の清らかな美しさを思い作らせて頂いたものでございます。何時かお役に立てるかと用意しておりました」
「準備がいいじゃない。これなら皇后様もお喜びよ!」
林杏の腕から奪い取るように乱暴に帯を掴むと礼の言葉一つ残さず、宮女はカツカツという足音と共にその場を去っていった。この粗野な言動……皇后様付きの宮女という事実も怪しくなってきた。
そんな嵐のような来訪者が立ち去ると、林杏は苛立ちを隠せないようにズカズカと私より先に部屋の中へ帰っていく。
「なんで盗人に餌を上げるような真似をするんですか!!」
「そんなこと?」
てっきり先程の宮女の態度の悪さを怒っているのかと思っていた。
「そんなことじゃありませんよ!!あれに味をしめて又来るかも知れないじゃないですか?!」
確かに後宮に召し上げられた直後は、彼女のような帯を作らせようとする宮女でこの部屋が溢れかえった。彼女達に金がないわけではない。買おうと思えば好きなだけ帯は買えるだろう。ただ私が織る帯は儀礼専用の帯ということもあり、市販のものとは使う糸も絵柄も異なる。
そのため宮女達は自分達の仕える后妃によりよい帯を用意し、皇帝の目に触れるよう画策しているのだ。
「でも誰も二度は来ないでしょ」
「そ、そうですけど……」
「だって同じ柄の帯を渡されたら、後宮では使えないものね」
あの手の無礼な来客者には必ず百合と蝶の絵柄の帯を渡しているのだ。誰でも「清らかな美しさ」と形容されたら否定はしないし、その文言を誰も疑おうとはしない。私は先程の失礼すぎる宮女がその事実に気付き怒りの声を上げる様子を想像し思わずニヤリと微笑む。
唐の時代の後宮システムを参考にしていますが、ざっくりとした歴史観でお楽しみいただけると幸いです。
【本作の後宮システム】
正一品:皇后
従一品:貴妃、徳妃、淑妃、賢妃
正二品、従二品:従一位に続く后妃
正三品、従三品:祭礼接客や宴会、寝所、衣服などを担当する后妃
正四品、従四品:その他の后妃
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宮女
正五品、従五品:尚官局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局
※蓮香は尚儀局の宮女
正六品、従六品:尚官局など六つの局にそれぞれ配属されている宮女
※林杏はこの局の宮女
唐時代の後宮のシステムとは色々違うのですが分かりやすいようにアレンジしています。このシステムを理解されていなくても読めるようになっています。