甘い毒薬《其の壱》
陛下が私の部屋へお渡りになる際は、その日の午前中には皇帝付きの宮女か宦官らによって、あらかじめその来訪が知らされる。一般的に陛下がお渡りになられる場合、待つ方にもそれなりの準備が必要だからだろう。
ところがその日、瑛庚様は何の知らせもなく、かといって宦官に変装することもなくわが部屋へお渡りになられた。
「何も聞くな」
そう言うと彼の定位置になりつつある長椅子に、座り頭を抱えるようにして座った。浅い呼吸、彼にしては珍しく言葉数が少なかった。いつもならば少し離れた場所で彼と言葉を交わすが、この日は何故だか無性に近くで彼に言葉をかけたい……という想いが募った。
「お茶はいかがですか?」
私は林杏が入れてくれたお茶を持って、彼の隣に座るとようやく瑛庚様は顔を上げられた。おそらくこの部屋に来るまで、その心の動揺を悟られまいと必死で一日を過ごしていたに違いない。
「ここでは楽にしてくださいませね」
「ごめん」と短く礼を言い、お茶を受け取ると側にあった机に彼はそれを置き、振り向きざまに私を抱きしめた。先ほどの「ごめん」が何にかけられた言葉なのか分からず、私は思わず言葉を失う。
「新しく従二品の后妃となった蓉華が毒殺されたんだ……」
まるで子供のように私の肩の上で涙を流しながら、瑛庚様はそう吐き出した。
先日の毒蛇事件で、従二品の后妃が二人亡くなり、それを補てんする形で新たに二人の后妃が誕生した。一人は正三品の后妃様が繰り上がり、もう一人は従一品の徳妃様付きの宮女が抜擢された。
「蓉華様は徳妃様からのご推薦で従二品になられた方でございますよね?」
私は瑛庚様の背中をさすりながら、全てを吐き出せるように誘導する。
「よく知っているな」
少し驚いた様子で瑛庚様は顔を上げられたので
「宮女が従二品に取り立てられたと、後宮では噂になっておりました」
と笑顔で伝える。一時従二品からの大出世と彼女の話題で持ち切りになった時期もあった。
「后妃達が妊娠後もその様子を見に何度か渡っていたんだ」
そう言ってから慌てた様子で「夜を一緒に過ごすことはないんだよ?」と弁明する。
「後宮の主として素晴らしい行いでございますわ」
『蓮香以外のところに渡らない』と言っていたことを反古にしたことが発覚し、慌てているのだろうが私は笑顔で気にしていないことを伝える。あのような言葉を真に受けていたわけではないし、気にも留めていないと彼に伝えたかったのだ。
「その時、徳妃付きの宮女が笛を披露してくれて……。その腕が素晴らしいと褒めたら后妃に取り立ててくれないか、と徳妃に嘆願されて取り立てたんだ」
「瑛庚様が悲しまれているところを拝見いたしますと、犯人は既に捕まっているのでございますね」
「ああ……」
まるで苦い饅頭を吐き出すかのように瑛庚様はつぶやく。できるならば、この事実に触れたくないのだろう。
「犯人は徳妃とみられている。既に幽閉している」
「徳妃様が?!」
現在正二品までの后妃様方十人は全員、妊娠中だがその中でも三番目に妊娠した后妃である徳妃様。比較的陛下からの寵愛も厚い后妃として後宮では知られている。
「しかし今回は徳妃様からのご推薦があって、蓉華様は后妃になられたんですよね?」
皇帝の目に止まり、后妃付きの宮女が后妃として取り立てられることは、この国の歴史を振り返っても頻繁に起こっていることだ。そして嫉妬から后妃がその宮女に嫌がらせをする――というのもよくある話ではある。一方、自分の立場を強くするために自分付きの宮女を紹介する后妃も少なからず存在する。
そして今回の蓉華様の件は、あくまでも后妃が推薦したため取り立てられており、どちらかというと後者の意味合いが強いはずだ。徳妃様が恨むはずはない――と考えるのが普通だろう。
「その通りだ。徳妃から『是非に――』と言われたから、機嫌を取るために后妃に取り立てたつもりだったのだが――。私の思慮が足りないばかりにこのようなことに」
そう言って瑛庚様は私に回す腕に力をギュッと込める。まるで大きな人形になったかのような錯覚に陥る。最初はドキドキしたが、どうやらこれは愛情からくる抱擁ではないことが明らかだ。
「今、徳妃様は?」
「別室に幽閉している」
本来、犯罪者は後宮の牢へ収監されるのが一般的だが、徳妃様ほどの地位にあられ皇帝の子供を妊娠している后妃になると、そうもいかないらしい。
「お会いしてお話を聞くことはできないでしょうか」
「会ってくれるのか……」
その言葉の先には、「この事件を解決してくれるのか」という意味が込められているのを感じ、私は「勿論です」と彼に微笑んで見せた。解決できる糸口はまだ見つかっていなかったが、彼がこれ以上落ち込む姿を見たくなかったのだ。
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