後宮に咲く蓮の花
「皇帝の名において宣言する。氾蓮香を皇后とする!」
その言葉に広間にいた多くの女性達が勢いよく後方で頭を下げていた私へ振り向いた。あ――だから、止めておけって言ったのに。私は小さくため息をつく。
「蓮香様。陛下がお呼びです」
隣にいた侍女の林杏は私の手を取ると、玉座の前に行けと誘導する。
「蓮香って、従五品の機織り宮女でしょ?」
「陛下が度々お渡りになっているのは聞いていたけど……」
「織物をするだけが特技だと思っていたわ。完全に騙されたわ」
ぶしつけな声がどこからともなく聞こえてくる。聞こえていないように囁いているつもりなのか、聞かせるつもりなのか……。
ただ彼女達の怒りも尤もだ。この後宮には順品があり、一品から始まり、従六品までの合計十二階級に分類されている。その中で下から三番目に品置する従五品の私が、皇后になるとは誰も思っていなかったのだろう。
後ろ盾となる有力貴族の親もなく専属の機織り宮女として後宮に入ってきただけだったのだから。
正直な話、私も皇后になるとは思っていなかった。
林杏は何も言わないがすすり泣いているのが伝わってくる。確かに彼女には後宮に来てから本当に迷惑ばかりかけてしまった。陛下が私の部屋へ来るようになってから、妬みから私に対する嫌がらせが続いた。その行為は最終的に侍女である林杏へも向かうこともあった。皇后になれて嬉しいことがあるとするならば、彼女を喜ばせることができることぐらいだろう。
「大丈夫か?」
玉座の前にたどり着くと、林杏に代わって皇帝自らが私の手を引いた。異例のことに広間のざわめきはさらに大きくなる。通常、皇帝は玉座から降りてはこないものだ。
「大丈夫でございます。陛下」
暗にさっさと戻れと伝えるが、皇帝は戻る様子はない。
「いいんだ。私がこうしたいのだから」
いや、全くよくないが……と思うが、皇帝の言葉に式典が継続される。
「さ、皇后の帯だ」
皇帝は私の腰に皇后の証である帯を器用に巻き付ける。正一品の皇后だけでなく貴妃、徳妃、淑妃、賢妃の従一品までの妃には就任の際、こうして皇帝が帯を巻くのが恒例となっている。そして、この帯は後宮専属機織り宮女である私が製作したものでもある。
「あぁ――蓮香には朱色がよく似合う」
ウットリとした皇帝の声に私はひざまずき、静かに「ありがとうございます」とお礼を伝える。するとどこからだろう
「どうせ見えないくせに」
というヤジが飛んできた。後宮に入る前から何度もかけられてきた言葉だ。それは事実だから反論する言葉もないし怒りも感じない。だが目の前の皇帝は誰よりも、その言葉を嫌った。
「誰が申した!!」
そして、その言葉を聞くと彼は烈火のごとく怒る。普段は温厚な彼の怒りに先ほどまで広間に広がっていたざわめきは止まり、静寂と肌が痛くなるほどの緊張感が広がった。
「皇后に対する侮辱は私に対するものだと思え。次にそのような言葉を申すものがおれば、その者の首を私が自ら切り落としに参るぞ」
ザザっと衣擦れの音がそこかしこから広がり、広間にいる多くの女性がひざまずいたのが分かる。この後宮において皇帝である彼の一言は何よりも重いものでもあるのだ。
「だから皇后になんてするべきじゃなかったんですよ」
皇帝の椅子の隣に置かれた皇后の椅子へ私を案内する彼に小さく呟く。皇帝のことは個人的には愛おしいとは思う。だが私は大好きな機織りができれば、それでよかったのだ。
「だって蓮香が皇后になれば、林杏が苛めはなくなるって……」
子供みたいな言い訳をする皇帝に、ビクリと小さく衣擦れした音が右後方から聞こえてくる。安い麻と薄い絹が擦れる音から、そこに林杏がいるのが手に取るように分かり、勢いよくその方向を睨みつけた。
「あ、林杏を怒らないでやって。勿論、虐められなくなるのはいいことだけど、それ以上に君以外の誰かを僕の隣になんて座らせたくなかったんだ」
そんなことを言われると反論する気が一気に無くなってしまう。知らず知らずのうちに私はこの皇帝を驚くほど愛おしいと思うようになっていたことに気付かされる。
「蓮香、一生大事にするからね」
小さく囁かれた言葉に私は、何度目かのため息を押し殺し頷く。
「ありがたきお言葉にございます」
この日、千年続く紫陽国の歴史上初めて盲目の皇后が誕生することになった。