#5
「諦めるには、まだ早い」
目を閉じ、熱狂した群衆の喧騒と、緑空教室で子供達が笑う幻聴に耳を傾けていたそんな中。凛とした声がそれらを掻き分けてハッキリと聞こえ、俺は反射的に空を見上げた。
緑色の空から、小さな影が落ちてくる。ソイツはフードで頭をすっぽりと覆い、高く振りかぶった両手には長細い何かが握られていた。アレは刀・・、日本刀?
影は落下の勢いそのままに刀を振り下ろし、今まさに俺の足元の薪に火を点けようとしていた執行人の太い腕を肘から切断。死刑台の上に大音量を響かせながら着地した。
更にソイツは切り離されて空中に浮いた執行人の腕を群衆の中央に向かって蹴り飛ばし、松明を持ったままの腕が一人の男の裾を焦がしながら石畳の上に転がる。その場に居合わせた誰もが何が起きたのかを理解するよりも早く、影は執行人の胸板を袈裟斬りに切り裂いていた。
執行人が血飛沫を吹き上げながら倒れ、死刑台の上から転がり落ちる。それを頭から被った中年の女性が甲高い悲鳴を上げると、止まっていた時間が再び動き出した。
群衆は突然の闖入者の凶行に大混乱に陥り、警備の兵士達が一斉に死刑台へと殺到する。フード姿の影は一閃、俺を柱に縛り付けていた麻縄を両断し顎で合図をした。付いて来い、という事らしい。
助けられた・・のだろうか?
コイツは一体何者だ?何が目的で俺を・・?
いいや、今はそんな事どうでもいい。一度は死を経験した『転生者』でも、やっぱり死ぬのは嫌だ。コイツの、コイツが言ったのかは分からないが、まさしくその通りだ。
諦めるには、まだ早い。
こうなったら、トコトン抗ってやる。
俺はすぐさまフードの影の後を追い、ソイツが兵士達を蹴散らしながら作る道をひたすらに駆けていく。影の剣技は素人目に見ても鮮やかで、迫り来る兵士の波をスピードを落とす事無く薙ぎ払っていくその様は驚嘆に値した。剣豪もかくやというその身のこなしに、自然と俺は魅せられていく。こんなにも強い奴を見たのは初めてだった。
兵士達はフードの圧倒的な強さの前に膝を折っていったが、遂に奴が立ちはだかる。
仮面の指揮官。まさにソイツが巻き上がった土埃の中から突如として現れ、フード姿の疾走を鍔迫り合いによって停止させた。響き渡る金属音、そして刃の接触面から散る火花。二人が対峙した瞬間に生まれた極限の空間が、俺を含めた周囲の全員を一瞬にして固まらせる。
仮面は交差した刀身越しにフード姿を睨めつけ、変わらず冷徹な眼差しだったが、不思議と僅かな感情がそこに乗っているように思われた。
二人は同じタイミングで剣を振り払い間合いを取る。しかして次の瞬間、10メートル以上あったはずの距離が一瞬にして詰められ、一撃一撃が確実に相手の急所を狙った剣撃は互いに間一髪で避けられていく。時代劇のチャンバラなんてモンじゃない。本物の剣士同士の命の遣り取りがそこにはあった。
そしてそういった、限界まで研ぎ澄まされた〝何か〟とは不思議な魅力を纏うものだ。フードと仮面の一進一退の攻防に俺の目は釘付けとなる。片や正体不明の日本刀使い、片や皆の仇である冷徹なる指揮官。しかしてそのどちらの優雅な戦い振りにも、憧れに近い感情が湧き上がってしまっている事に俺は少しだけ戸惑った。
しばらくの間その激戦に見とれていたが、周りの兵士達がじりじりと距離を詰めている事に気が付いた。フードの相手は仮面が担っている。今の内に俺を殺ってしまおうという魂胆らしい。
俺は傍に転がっていた兵士の死体から剣を奪い取り、近付く兵士達に向けて構える。
「意外と重いな・・。クソ」
両手でしっかりと柄を握っても、剣先はプルプルと震えて安定しない。へっぴり腰のその立ち姿は怯えている様にも見えて、いつ兵士達が自分に襲い掛かって来るのかと思うと気が気でなかった。ああ、畜生。こんな事なら前世で剣道でも習っとくんだった。それが実戦で役に立つかは分からないが、多少なりともマシだったに違いない。
殺意に満ちた眼差しに囲まれ、鼻筋を流れる冷や汗を拭う事も忘れて立ち竦む。仮面の指揮官と間合いを取ったフード姿が背中合わせに俺の後ろに立ち、俺は情けない声でその横顔に問い掛けた。
「お・・おい、どうす・・」
そこまで言いかけて、フード姿のその口に小さな筒がくわえられているのに気付く。
笛・・?吹いている様に見えても音は聞こえないが・・犬笛の類か?
ぐるりと周囲を囲まれた状況の中、そのはばたきは真上から聞こえてきた。思い起こせばこのフード姿は上空から突如として飛来したのだ。何か空を飛べる乗り物があるという事か。それも生き物・・?
予想通り、恐らくその犬笛に誘われて大きな影が一直線にこちらへ向かって飛んで来る。シルエットは翼の生えた大型の獣のようだ。ペガサス?グリフォンか?ともかく、ここから逃がしてくれるのならば何でもいい。
翼を持った獣が吼える・・!
「にゃーん」
「・・・」
でっかい猫でした。しかも鼻の低い、潰れた顔の種類のやつ。茶トラ模様の。
「行くよ!!」
フード姿が俺の腕を掴んで走り出す。
「女・・の子っ?!」
フードの発した声のその若さと細さに驚きながら、引っ張られるがままに羽根付き猫に向かって駆け出した。巨大な空飛ぶニャンコにも驚かされたが、まさかあの仮面と互角の戦いを繰り広げた人物が少女だったとは。改めて見れば鞘を背負った目の前の背中はかなり小さく、背も俺より頭一つ分低い。そしてやはり、あの凛とした声はこの娘のもので間違いなかったようだった。
「逃がすか!」
仮面の指揮官の号令が飛び、意図を察した兵士達が追い縋る。俺は真後ろに迫った兵士の顔面に剣を投げつけ、裸足で石畳を駆ける冷たい痛みに必死に歯を食いしばった。
刀を鞘に仕舞ったフード姿が、地上スレスレを高速で滑空する猫の襟首の毛をひしと掴む。その細腕のどこにそんな怪力が宿っているのか、彼女は放り投げる様にして俺を猫の背に乗せ、自身もそこへ飛び乗った。
「しっかり掴まって!舌を噛まないでね!」
猫に跨ったフードが言い、俺は一瞬躊躇った後その華奢な腰にギュッと腕を回した。まさか自分がおっぱいを当てる側になろうたぁね。前世に於いても当てられた記憶は無いが。
ふてくされた様な愉快な顔の猫はあっと言う間に高度を上げ、それを見上げる兵士達が弓をつがえるよりも早く俺達はその射程外へと達する。眼下に望む『オットーヘイデン』の壁に囲まれた街並みは段々と小さくなっていき、気付けば俺達は雲と同じ高さの空を飛んでいた。
緑色の空が視界一杯に広がり、遥か遠くの山々が悠然と佇んでいる。普通なら、感嘆の溜息の一つも漏れる雄大な光景だ。だが今が普通でない事は、言わなくても分かるよな。
「もう、大丈夫」
フードの少女が半分だけ振り返り、俺の顔を覗き込む。至近距離で見るフードの下のその瞳は、吸い込まれそうな紫色で美しかった。
「『転生者』、助けられて良かったよ」
彼女のセリフに、自分でも自分の表情が曇った事が分かった。この世界は、決して天国の様な場所ではない。善意も悪意も平等に存在する、人間によって営まれる人間の世界だ。
処刑の運命から救い出してくれたとは言え、果たしてこの少女も信頼して良い人物なのだろうか。
「・・訊きたい事が山程ある」
「だろうね。取り敢えず、適当な場所に降りようか」
少女が軽く首筋の毛を撫でると、猫はそれを合図にゆっくりと高度を下げていく。生い茂った赤い森に降り立った俺達は改めてお互いを正面から見据え、彼女は訝しげな視線を向ける俺を軽くあしらう様に、被っていたフードを脱いでその顔を露わにした。
長い銀髪がスラリと流れ、整った目元は意志の強さを感じさせる。つんと尖った鼻と唇は小さく重力に逆らい、マントの下の胸は・・可哀想だからノーコメントだ。
ともかく、彼女はその戦闘能力からは予想だにしない程の美少女だった。
「自己紹介。あたしの名前は、『リコリヌ』。この子は『ドラッヘ』」
香箱座りの巨大な猫が、欠伸混じりにアオ、と鳴いた。リコって呼んでと右の手のひらを差し出してきた彼女の手に自分の手を合わせ、軽いハイタッチの様なこの世界での握手をしながら俺も同じく名前と愛称で名乗る。
「で、本題だが・・」
「・・うん」
リコは一つ息を吐き、おもむろに懐から何かを取り出した。それは木漏れ日に反射して黒く輝き、鉄の冷たさを一直線に俺へと向けている。
拳銃だった。有名な漫画の大泥棒が手にしていたことで人気になった、古い銃だ。その銃口が、俺の胸の中央へとピタリと狙いを定めていた。
「マジかよ・・」
結局、この少女も油断ならない相手だったと言う事か。
俺は血の気の引いた顔で、しかしせめてもの抵抗としてリコの紫色の瞳を睨みつける。ついさっき仮面の指揮官との死闘を見せつけられたばかりだ。彼女と戦って勝てる見込みは全くと言っていい程無いだろう。
だが、諦めるにはまだ早い。
そうとも。俺はあの処刑台の上でアンタに助けられ、そして最後の最後まで足掻く事に決めたんだ。その瞬間まで何が起こるか分からないところも、前世の世界と同じならばな。
さて、何とか隙を見付ける事は出来ないものか・・。
微風に赤い色の草木がサワサワと揺れ、既に傾き始めた陽の光にドラッヘが縦長に目を細める。そして・・。
俺がゴクリと唾を飲み込んだその瞬間、リコは静かに拳銃の引き金を引いた。