命思力:第八章の次話投稿
「影丸とわたしは幼なじみだ。年齢も同じで、ふたりといない親友だった。わたしたちが居た物質的宇宙はここよりも50年ほど歴史が進んでいた」
「この物質的宇宙の50年先までの歴史をあなたは知っちゅうということですか」
「正確に言えば、この物質的宇宙が辿るかもしれない巨視的な歴史を、だがね。現時点までにかぎって言えば、二つの物質的宇宙はほぼ似た歴史を歩んできている。分かってもらえると思うが、これから先どのような歴史をこの物質的宇宙が辿るかについては教えられない。ただ、話を進めるうえで、わたしたちが居た、この物質的宇宙も至るかもしれない50年後の日本は淪落した国だった、とだけ言っておこう」
夢幻が未来の歴史を話さないのは当然のルールだ。断言はできないが、二つの物質的宇宙が巨視的な部分で同じ歴史を歩む可能性は高いのだから。
「そのころわたしたちは五十代半ばの年齢だった。二人とも『記憶の覚醒』に至り、命思力が使えるようになっていた」
「記憶とは、どんな?」
「物質的宇宙、そして命思力についての記憶だ。例えば、闇の鷹は命思力を使うことができる。しかし、自分がどうしてそのような力を使えるかについては知らない。命思力の励起に関係する『想起の機能』は残っているが、記憶の覚醒には至っていないからだ。昨日の闇の鷹との闘いで君は命思力を励起し、使用する方法を会得した。闇の鷹とのときは瞬間的に励起したに過ぎなかったが、今日の私との闘いで君は命思力を励起し、使用する方法を習得した。君の命思力は異質で、わたしには想像できないほど強くなる可能性を秘めている。だが、いまはまだよちよち歩きを始めたばかりの段階であることを自覚していたほうが良い。それと、君が心配するかもしれないから教えておこう。相撲をとるとき、君は相撲の練習で習得した技術のすべてを発揮することに集中している。そのような意識の下では命思力を励起することはできない。これについては心配しなくていい」
紀代彦は安心した。それが確かに気になっていたのだ。相撲の試合で命思力を使って勝ったとして、何が嬉しかろう。
「わたしたちは淪落した国を救うために命思力を使おうと考えた。国の淪落ーーそれは政治の淪落、政治関係者の魂の落下であるのだがーーに心を痛め、正しい道に引き戻そうと活動していた人たちと力を合わせてわたしたちは闘った。闘いの内容についても話せない。とにかく内戦と呼んでもおかしくないほどの激しい闘いだった。諸外国からの関与もあり、希望が潰えたかとあきらめる寸前まで追い込まれたこともあった。それでも最後にわたしたちは勝利を手にし、淪落した国を救うことができた。その闘いの過程でわたしと影丸の記憶はより鮮明になり、命思力は強さを増した。物質的宇宙で倫理に従った行動を積極的にとることで命はより高いエネルギーを得ることができるというわたしたちの研究・考察の正しさが実証できたのだ」どのような場合でも人は正しい生き方をしなければいけないのだ、と夢幻は厳格な口調で付け加えた。
「影丸とわたしは話し合った。この物質的宇宙にこのままとどまるか、それとも別の物質的宇宙に行くか。前に話したように、《無の世界》から物質的宇宙へ行く命は、まず思考の再活動のためにエネルギーを消費し、次に隧道をつくるためにエネルギーを消費し、そして物質的宇宙に存在するのに必要な肉体を得るためにエネルギーを消費する。これらのエネルギーの消費により、記憶を維持させておくだけのエネルギーを命は失ってしまう。人が、いま居る物質的宇宙に来るよりも前の記憶を喪失しているのはこのためだ。君は心理学などで使われるデジャ・ビュ、あるいは既視感、既視体験という言葉を聞いたことがあるだろう」
「はい、本で読みました。初めてきた場所なのに見覚えがあるとか、初めて会った人なのに以前に会ったことがあるような気がするとか、そんながでしょう」
「そうだ。それは、いま居る物質的宇宙に来るまでの記憶が一時的に目覚めて、対面している光景と重なるからだ。影丸とわたしにどうして記憶の覚醒が起きたのかは分からない。だが、このままいま居る物質的宇宙にとどまって、命が通常辿る永遠自己保存の道を選んだならば、次の物質的宇宙に行ったときには、記憶は命の奥深くに眠り落ちているだろう。そして、新しい物質的宇宙で再び記憶の覚醒が起きるという保証はない。淪落した国を救う過程でより鮮明になった記憶と、強さを増した命思力を使って研究を続けたわたしたちは、ある方法を使えば記憶を失うことなく別の物質的宇宙へ行くことができることを発見した。わたしたちはその方法で別の物質的宇宙へ旅立つことを決心したのだ」
「決心をするについて迷いはなかったがですか? 例えば、ご家族との別れとか」
「わたしたちにとってそれが一番の難題だった。ただ、それについては個人的範疇に属するもので、わたし自身触れるのは辛いし、影丸について語るのは信義にもとるだろう。わたしたちは断腸の思いで決断した、とそれだけを察してもらえればいい」そこで夢幻は笑顔を浮かべて、君は優しいな、と言った。
「わたしたちがこの宇宙に渡ってきた方法を第一に問うのが普通だが、君はわたしたちの心情に思いを致してくれた。他者への大いなるやさしさがなければ、そのような心の働きはできない」君はいい男だ、と夢幻は重ねて言った。褒められるほどのことではないと紀代彦は思ったが、言葉にはしなかった。
「わたしたちがこの物質的宇宙に渡ってきた方法は後でするとして、影丸とわたしが袂を分かつことになった命題から話すことにしよう。『原始宇宙以外の物質的宇宙は命によって創造された』。このことを《真》として思考をスタートさせたわたしたちは、次のような命題に行き当たった。『命が物質的宇宙を創造できるなら、命は物質的宇宙を破壊することもできるのではないだろうか』。物質的宇宙の創造および破壊はひとつの命だけでできるのか、それとも複数の命が協力しなければできないのか、の答はまだわたしたちは得てはいない。ただ、そのような力を持てる命はごく少数であろうと推測している。物質的宇宙と同じように、命も一つひとつ違っている。そうでなければ命が複数存在する意味はない。命と命の間には差異がある。わたしたちの意見が一致したのはここまでだった」夢幻の声が沈んだ。
「君は命思力が肉体に及ぼす作用についてはもちろんまだ気づいていない」
「はい」
「わたしたち命はもともと《無の世界》で生まれた、物質を持たない存在だ。命が物質的宇宙に存在するためには物質化しなければならない。命思力を使えない命も肉体という物質を創造することで物質的宇宙に存在することができる。肉体は命が自ら創造したものなのだ。当然ながら肉体に関してはすべてを理解している。命の多くがそれを忘れているのは記憶が眠っているためだ。命思力の働きにはいくつかあるが、相手の肉体の構造に刺激を与えて変化させるのもそのひとつだ。肉体を構成している分子、原始、素粒子などの運動を変化させる。あるいは有機物の分子性結晶を組みかえて、通常は起こらない反応を生じさせる、などだ。君の喧嘩相手が君の攻撃を受けて身体に痺れを感じそれ以上闘えなくなるのは、君の命思力によって痺れという症状が発生するように肉体の構造を変えられたからだ。ただし、これは命思力を使えない者に対してのことで、命思力が使えるものどうしが闘うときは《無の世界》で互いの意志を直接攻撃し合うことになる。命思力を使うことに慣れてくると、命思力の強さを調節する余裕が生まれる。また、一定のレベルを越える層まで命思力を励起すると、肉体を包んでいる空間が歪んでくる。この、命思力を使える使えない、あるいは命思力の強い弱いの違いをわたしは個々の命が有する特性であり、個性だと考えた。だが、影丸はそれは位階の顕現だと主張した。命は平等ではなく、命と命の間には厳然たる位階があり、支配する命と支配される命が存在することを示すものだと影丸は考えたのだ」
紀代彦の中の蠢きがまた激しくなった。
「影丸が主張するところはこうだ。『他の命を治める少数の命と、その命に服従するべき多くの命がある。物質的宇宙を創造し破壊できる力を持つ命には、他の命を統治することが宿命づけられている。わたしたちが記憶の覚醒に至ったのは物質的宇宙を創造し、破壊する力を手に入れて、他の命の上に立つべき宿命にあるからだ』。影丸の考えは間違っているとわたしは反論した。影丸の言っていることは奴隷制度である。命は他の命を奴隷にし、また奴隷にされるために存在しない、と」
(この蠢きは、記憶が覚醒しようとしているのか?)
「わたしより一足早くこの物質的宇宙に渡ってきた影丸は『栄彊国愛党』に加わった。いま、この国の学園紛争・学生闘争を利用して国家権力を握ろうと裏面で暗躍する組織が三つある。『栄彊国愛党』、『ユートピア革命』、『幽明真実教』だ。栄彊国愛党は国家権力の中枢にいる者達と手を組んで莫大な利益を手中にしている巨額資産家たちによってつくられた秘密組織だ。栄彊国愛党の目的はこれら巨額資産家たちの利益を守るため、国家権力の中枢にいる者達のやり方に反抗したり、その座を奪おうと企てる人物や組織を潰すことだ。ユートピア革命はいま国家権力の座にいる者達からその座と権力を奪い取ろうと企てる政治集団と、この政治集団と手を組む巨額資産家たちがつくった組織だ。幽明真実教は外国に本部がある宗教団体を装う組織の日本支部で、目的は前の二つの組織と同じで、この国の国家権力と富を手に入れることだ。この中でいま最も勢力が強いのは栄彊国愛党だ。国家権力の中枢にいる者達からの有形無形の支援と、巨額資産家からの潤沢な資金援助を受けてひとり勝ちしている。表の実行部隊として学校法人帝憲学園グループなどがある」
「どれも感心できる組織ではないですね」
「まったくだ」夢幻はため息をついた。
「学生闘争を行っているセクトの中心的存在は『全学友』、全国学生友情連盟で、純粋に国を良くしたいと願う若者たちが自由意思で集まった、強制力のない組織だ。そのため人数は多いが、資金の面でも、武力の面でも前の三つの組織が操っているセクトに比べ力は劣る。理由は知らないが、闇の鷹はこの全学友を支援している」
紀代彦は考えた。影丸という人物が学園紛争・学生闘争に関わったのは物質的宇宙の創造と破壊についてのことが原因だろう。だが、その二つがどのように結びつくのかが分からない。紀代彦は学園紛争・学生闘争とは無縁な高校生活を送っているが、いま日本中に吹き荒れている学生たちのたぎりには、この国の政治と社会を変えるパワーがあるかもしれないとの感じは抱いている。だから、夢幻がいう秘密組織が学園紛争・学生闘争を利用してこの国の国家権力を握ろうと企てているという話は抵抗なく受け入れることができる。しかし、それが物質的宇宙の創造と破壊にどのような経路で以て関係するのか? あまりにもギャップがありすぎるように思うのだ。紀代彦がその疑問を口にすると、君の気持ちは分かると夢幻は頷き、目を閉じた。言葉を探している様子だ。
紀代彦は空を見上げた。樹木の間から見える初春の空にはまだ明るさが残っている。夕焼に染まる空と雲。命が創造したという物質的宇宙はじつに美しい。紀代彦はあらためてそう思った。
「ここで、わたしたちがこの物質的宇宙に渡ってきた方法について話してみよう。前にわたしは《無の世界》と物質的宇宙を繋ぐ隧道について話したが、これと似たものをある物質的宇宙と他の物質的宇宙との間にも創ることができる。命思力と物質的宇宙の存在エネルギーとを相互作用させることで、それを為し得る。では、どのような方法で相互作用させるかだが、物質的宇宙には《管理人》がいる」
「管理人?」
「そうだ。管理人だ。その管理人の協力を得て、必要な量の物質的宇宙の存在エネルギーを収斂してもらい、それと命思力とを相互作用させる。それによって生じたエネルギーで隧道をつくり、別の物質宇宙に移動することができる。この方法だと、《無の世界》から物質宇宙に移動するときのように、記憶を失わなくてもすむのだ。この方法を使うには、命自身の《記憶の覚醒》と強い命思力、そして管理人の協力が必要だ。この移動には制約があって、移動していく場所はいま居る物質的宇宙に生まれてきたときの場所に対応する場所で、移動して行く時代もいま居る物質的宇宙で生きた時代の範囲に限られる。但し、自分では選べない。おそらく物質的宇宙に共通する、個々の命が存在するのに最も適した時代の《場》があるのだろう。ここまではいいだろうか?」
「はい」
「重要なのはこの管理人だ。管理人は一人しかいないとわたしたちは考えている。それぞれの物質的宇宙に管理人の《住居》があり、管理人は物質的宇宙を往来している」
「無限に存在する物質的宇宙の管理人が、たったひとりですか?」
「そうとしか今のところ考えられない」
「つまり、物質的宇宙の存在エネルギーのすべては一人の管理人によって管理されていて、その管理人の協力を得て物質的宇宙の存在エネルギーを収斂してもらい、命がもっている命思力と相互作用させることで物質的宇宙の創造と破壊が可能になるかもしれないと、そういうことですか」
「その通りだ」
「では、その管理人というのは?」
「この物質的宇宙のこのあたりでは《鬼女百合》と呼ばれているようだね」
紀代彦は目を閉じた。それが理由だったのだ。影丸という人物が学園闘争に関わったのは。
「管理人である鬼女百合の、この物質的宇宙での《住居》はここに在るがですね」
「そうだ。ここはたしか高知県の山里、吾北村柳野といったと思う。わたしがこの物質的宇宙に渡ってきたときに着いたのはこの山里だった。前に出発した影丸もそうだったはずだ。この《泉の広場》もーー君はそう名付けていたねーーわたしが着いた《命の広場》ーーこれはわたしが名付けたーーも、この山里の中に《場》をもつ異次元の世界だ。国分川沿いにある『紀貫之の森』はこの異次元と人々が暮らしている物質的宇宙とを繋ぐ『出入り口』だ」
この森は人を産む、のこれが正体か。
「わたしがこの物質的宇宙へ渡ってくるとき、収斂したエネルギーとわたしの命思力を相互作用させたのは鬼女百合で、わたしはその方法を知らないのだ。影丸もそうだっただろう。その方法を影丸はなんとか知りたいと思っている。それには管理人の近くにいることが一番の良策だ、そのための手段として影丸は学園紛争・学生闘争に関わることにしたのだ。栄彊国愛党のなかで重要な地位に就けば本当の目的を隠して国家権力を利用することができる」
「どうしてそんな手間のかかることをするがですか、その影丸という人は。この物質的宇宙に渡ってきたときに、そのままここに留まって調査したらよかったじゃないですか」
「わたしもそうだが、影丸もそのときはそれに気づかなかったのだ。この物質的宇宙へ渡って来た興奮で、さすがの彼も冷静な判断ができなかったのだろう。後で考察して、いまわたしが話したのと同じ結論に達したのだ」
「それで、帝憲学園高校高知校というわけですか」
「帝憲学園高校を使って高知県の高校を支配し、それを手蔓に高知県全体を支配する。高知県で自分が活動しやすい状況をつくろうという計画なのだろうね」
「あなたと影丸という人は、ここへ来る前に住んでいた物質的宇宙で日本を事実上征服したがですよね。だったら影丸という人はこの物質的宇宙でもなぜ同じ方法をとらんがですか?」
「征服という表現は正確とは言い難いが…、主な理由は二つある。一つは、今度は私が影丸の敵に回るかもしれないということだ。影丸とわたしの命思力の強さはほぼ互角だ。もう一つは、この物質的宇宙には命思力を使える命が、わたしたちが以前に居た物質的宇宙よりもはるかに多く住んでいるということだ。それも強い命思力を使える命が。そのことをわたしたちは感じることができるのだよ。いかに影丸が強くても、彼ひとりの力でこの国を思い通りにすることは不可能に近い。前に居た物質的宇宙でわたしたちが日本の社会を淪落から救うことができたのも、正しい心を持っていた多くの人たちと力をあわせて闘うことができたからだ。また、軽々に動くことで物質的宇宙に関する秘密が公になるという恐れもある。わたしたち以外にも他の物質的宇宙から渡ってきた命はいるのだから」
「紀貫之の森には。人を産むという言い伝えがあるそうですね」
「そうだ。その命たちがまだこの物質的宇宙に留まっている可能性は高い。強い命思力を有し、記憶の覚醒に至っている命たちだ。ただ、わたしたちのような研究はしていないと思う」
「命思力と物質的宇宙の創造と破壊についての関連は知らないと?」
「何といっても私たちの研究は推測がほとんどで、思考実験の枠を脱しないものだから。それに君もさっき言ったように、一般常識とあまりにもかけ離れた荒唐無稽な思考だからということもある。逆に言えば、それだからこそ影丸は秘密を知られないように紀貫之の森と、この山里の調査に関して用心の上にも用心を重ねているのだろう」
「他の物質的宇宙から渡ってくる以外に、この山里に存在する異次元ーー泉の広場と命の広場ーーには、紀貫之の森からしか入れんがですね」
「命の広場は一つの物質的宇宙にひとつだけしかないと推測する。だが、紀貫之の森のような出入り口や、その出入り口と個別に繋がっている泉の広場が存在する《場》は他にもある。くり返しになるが、個々の命には存在するのに最も適した時代と場所があって、命はそれらと強くひきあっているのだろう。人種や文化のちがいもそこからきている。命と命の間にも相性というものがあって、相性がよい命どうしは強くひきあっていると考えられる。別々に旅立ったのに、影丸とわたしは同じ物質的宇宙の同じ場所、同じ時代に到着している」
夢幻は紀代彦を見た。
「以上、大雑把だが、四年間君を悩ましてきた『わたしたち命が無限の数存在する物質的宇宙を永遠に彷徨し続けなければならない宿命にある不合理についての理由』と、それに対する答。それに加えて《無の世界》での命の誕生、命の永遠自己保存、命の本当の死、命思力、物質的宇宙の創造と破壊、命がする物質的宇宙間の移動、《管理人》のこと、いずれ君も会うことになるだろう影丸のこと、影丸が学園紛争・学生闘争に関わった理由。これらのことについてわたしは説明し終えたと思う。個別の疑問については、これからする体験から、君自身で答えを見つけ出してほしい」
「ありがとうございます。でも、どうして、今日初めて会ったばかりの僕にこんな重要な話をしてくれたがですか」
「君の命思力に異質なものをわたしは感じ、興味を持った。君は大きな使命をもって存在しているようにわたしには思われてならないのだ。否応なく君は物質的宇宙をめぐる争いに巻き込まれることになるだろう。その時にはわたしが話したことがきっと助けになると思う」
「あなたは闘わんがですか、以前居た物質的宇宙で闘ったように」
「わたしは闘いは好きではない。以前居た物質的宇宙で闘ったのは、あの国があまりにも酷い状況に陥っていて黙過することができなかったからだ。わたしは研究することが好きなのだ。だから、この物質的宇宙でもやむを得ないと判断したときには闘うが、できるなら研究に没頭したいと願っている。だからといって、君に闘いを押し付けているわけではない。君はそのような運命にあるのだと、確信めいたものが私をとらえてはなさないのだ」
紀代彦は返事ができなかった。夢幻から聞かされた話は普通では信じられない内容のものだ。だが、自分のなかに夢幻の話したことは本当だと信じる何かがある。(本当だと知っている?)。
紀代彦は泉の水を両手ですくい喉に流し込んだ。頭のつかえがすっきりとした。
広場を囲む樹木の一本に寄りかかるように立っている、女の姿が目に入った。
夢幻もその女に気が付いた。
「まさか、鬼女百合 ! 」
四年以上前の冬の夕暮れには朧げにしか見ることができなかった女の顔を、いま紀代彦ははっきりと網膜に映すことができた。
「天女のような美しさ」とは、このような美しさを指して言うのだろうか。
「魂が奪われる美しさ」とは、このような容姿を表現するためにつくられた言葉だろうか。
紀代彦が見たことのない生地で作られた、見たことのない色の、見たことのないデザインの衣を身にまとう鬼女百合は、とうていこの世のものとは思えなかった。年齢は推測すらできなかった。八歳と言われればそうかと思うし、二十歳と言われれば、そうかと納得するだろう。五十歳と言われても、六十歳と言われても、信じただろう。夢幻が鬼女百合と呼んだこの女性は年齢など全く関係のない、超越した美しさを有していた。
いつのまにか馥郁たる香りが広場に漂っていた。鬼女百合のための芳香だろうか。
夢幻も魂を抜かれたように鬼女百合を見つめている。
鬼女百合の視線は紀代彦に置かれていた。口元にうっすらと笑いを浮かべて、何かを読み取ろうとしているのか、いないのか、じっと紀代彦を見つめている。
どれだけの時間が過ぎただろう。突然踵を返して、鬼女百合は樹木の中に姿を消した。
鬼女百合の姿が消えた後もしばらくは、夢幻も紀代彦も金縛りにあったようにように体が動かなかった。
「ふう……」
ようやくというように、夢幻が大きく息を吐いた。
紀代彦は立ち上がろうとして、足が震えてよろけた。
「鬼女百合があんなに長い時間、姿を見せているとは」
「あなたは鬼女百合に会ったことがあるのでしょう、こちらに渡ってくるときに」
「一度だけ。だが、ほんのわずかの間だった。鬼女百合は君を見つめていた。わたしが思った通り、君には鬼女百合が関心を持つ、何か他の命とは違うものがあるのだろう。それが君にとって良いことなのか、それとも迷惑なことなのかは分からないが…。はっきりしたことは、君は影丸に狙われるということだ。鬼女百合が自ら姿を現すほどの何かを君は有しているということだから、影丸にとって君ほど恐ろしい存在はないだろう」