後編
それから病状が進行し、私は入院した。緩和と延命のための措置だった。
五十嵐博士の仮説を読み解こうと猛勉強をした。数式の一つさえ理解できず、高校水準の数学のやり直しから始めなければならなかった。
物理学の基礎に進んだ頃、私の身体はいよいよ蝕まれていった。おそらくは時間切れだろう。薬の副作用もあって無気力になってきた私は、ついにそれを投げ出してしまった。それから気晴らしのつもりで、一、二度読んだきりの前半部を読んだ。
「昨年の秋。私はA…県の山奥に、地元の人間が『もみじ谷』と呼ぶ、紅葉の名所があることを知り、出かけていくことにした…」
その後主人公はタイムスリップする。紅い葉の渦に包まれて、時間を飛び越える男の姿を私は想像した。その顔に重なっているのは私だろうか。それとも、五十嵐博士か。
図書館で見たあの学者のエッセイの一節が、ふと心に浮かんだ。
「彼はある発見を小説に形を借りて公表した」
後半の仮説がただの目くらましだったとしたら。
私は無為に費やした時間の長さに、体中を掻きむしりたい気持ちになった。だが、まだ終わりではない。私は小説の前半部を読み返し、もみじ谷に符合する場所を探した。労せずして私は、今も「もみじ谷」と呼ばれている、紅葉の名所を発見したのだった。
数日後、私は意を決して病院を抜け出した。そして特急列車に乗って、もみじ谷へ向かった。駅からタクシーに乗ると、年かさの運転手は妙な顔をした。
「あそこは神隠しが起きるとかで、地元の人間も滅多に近づかないものでね。そりゃ確かにこの時期の紅葉は立派なものですけれどね」
私はタクシーを降り、ガードレールの切れ間から斜面を下って行った。電車とタクシーに揺られて、私の体は疲れ果てていた。文字通り最後の力を振り絞って、私は歩き続けた。もう戻れるとは思っていなかった。
谷底には一人通るのがやっとの狭い道が続いていた。両脇の斜面から紅葉の木がせり出し、トンネルのようになっていた。私は主人公と同じ方向へ歩き始めた。小説によれば、一時間も行かないうちにタイムスリップが起きるはずだった。
紅葉の木はどこまでも続き、私は意識が朦朧としてきた。視界がぼやけて、葉や枝の輪郭はあいまいになり、真っ赤なトンネルの中を私は歩き続けた。脚が痛み出し、喉がひどく乾いた。病気の私には、長時間の歩行はやはり無謀だったようだ。そして私はその場にしゃがみこんでしまった。
このままここで死ぬのだろう。あたりは静かで、もう天国に来たようだった。私は恐れてはいなかった。ただ一つ、美緒にもう会えないことだけが心残りだった。
「この期に及んでまだそんな図々しいことを」
男の声がした。顔を上げると、痩せて背の高い男が私を睨んでいた。
「あなたは…」
「私が誰かだと。馬鹿なことを。お前が会いに来た本人に決まっているだろう」
よく見れば、男は端正な顔立ちをしていた。悪意に満ちた眼は、どこか美緒を思い起こさせた。
「五十嵐…秋生博士」
「博士号は愚か者どもによって剝奪されたがな。そんなことはどうでもいい。今の私は奴らよりはるかに優れた存在となったのだから」
五十嵐は私の腕を掴み、引き起こそうとした。もう力の残っていない私は、そのまま仰向けに倒れた。
「ふん、もう質問するほどの体力も残っていないか。ならこちらから教えてやろう。お前の想像通り、私は時間を飛び超えてこの世界へやってきた。いま我々がいるのは「時のない空間」だ」
私は必死に意識を保って、五十嵐の言葉を聞いた。
「だが「時がない」とは見方を変えれば「永遠に時がある」とも言える。私はここで、思索と研究に十分過ぎるほどの時間を得た。そして、あらゆる物体を時間移動させる方法を発見したのだ」
そうだったのか。五十嵐は空襲の日、焼夷弾が落ちる直前の自宅を移動させたのだと私に説明した。
「まあ美緒の方もお前に興味を持っているようだがな。それに免じて、お前を未来へ送ってやろう。そんな病気などたちどころに直せるほど医学が進歩した時代へ」
私は五十嵐に訴えようとしたが、声が出なかった。「何を言っている」と不機嫌そうに、五十嵐は私の口元に耳を近づけた。
「会わせてください……美緒さん……に」
五十嵐はあざけるように笑った。死にかけている私の最後の願いを握りつぶすのがいかにも痛快だというように。
「許すものか。せっかくわしが命を助けてやろうとしたのに、それをふいにするとは何と愚かな。まあいい、そのまま野垂れ死ぬがいい」
五十嵐は去っていった。彼の言う通り、命が助かる機会を私は自分で捨ててしまった。その見返りは何もない。僕は目を閉じて、意識が薄れていくのを感じた。
「思索と研究に十分過ぎるほどの時間を得たのは、父だけではありません」
若い女の声がした。気がつくと僕は畳の上に寝かされていた。そこは五十嵐邸の居間で、枕元に美緒が座っていた。
「私もまた、永遠の時の中で力を得ました。けれどあなたの体はもう…」
美緒は私の頭をなでた。
「新しい体に生まれ変わらせたくとも、もはやあなたにはもう一度人間として生きる力は残されていないのです」
ならば一匹の蝶でも一輪の花でもいい。あなたのそばにいられるのなら。
「それがあなたの願いなのですね。分かりました」
美緒は立ち上がった。部屋を出るときに、私を振り返って一言、ありがとう、とあの微笑みを見せてくれたのだった。
空襲で焼け残った一角に、決してたどり着けない袋小路がある。
けれどもし、あの日のように、彼女が永遠を生きる寂しさから、打ちひしがれた誰かを慰めようと戸を開いたのなら。
その家の縁側で美しい娘が、膝の上でまどろむ一匹の黒い猫をなでながら、二人して語らっているのを見つけることだろう。