中編
翌朝。私は再び出かけた。目的地はあの袋小路の家だった。何度思い返しても、三年間毎日通った道を間違えたとは信じられなかった。卒業後にあの家が建ったとしか考えられない。どうしてもそれを確かめたかった。
それから理由はもう一つ。
有名な神社の門前にある、老舗団子店の紙袋の取っ手を、私は思わず握り締めた。若い女性には流行のスイーツの方が良かったかもしれない。残念なことに私はそういう情報には全く疎かったのだ。
昨日の礼に菓子を渡して、できれば家が以前からあったかどうかを聞く。
矢庭に高なり出した胸を抑えようと、私は自身に向けて、ただそれだけのことだ、と繰り返した。心が静まる様子のないまま、私はまたあの袋小路に着いた。戸を叩こうかやめようか、しばらく立ち尽くしていると、彼女が顔を出した。
「あら、今日も通られますか」
彼女はもう一人通れる広さ分、戸を横に引いた。
「いえ…そういうわけではなくて」
緊張は限界に達し、私はとにかく団子の袋を差し出した。
「まあ…これを私に」
「ええ…やっぱり昨日は少し…無遠慮だった気がしまして、そのお詫びといいますか…お礼といいますか」
手提げ袋を渡すとき、彼女の白く冷たい指が私に触れた。その瞬間、自分の鼓動に体中が揺さぶられるのを感じて、私は気を失った。
図書室のにおいがする。風が心地いい。
閲覧用の大机。僕は彼女の斜め向かいに座っている。本を読むふりをして、ときどき彼女の様子を窺うと、彼女は頬杖をついて一点を見つめていた。
振り返る必要はなかった。彼女が誰を見ているのかは知っていた。
そして彼らの視線が、交わることがないことも。
私は革張りのソファに寝かされていた。壁には大きな本棚があり、窓が三分の一ほど開けられて、カーテンがはためいていた。
「大丈夫ですか」
彼女はそばにいてくれた。最後に見た笑顔と正反対の感情を湛えた目で、私を見ていた。
「ええ…」
大丈夫、と言いかけて、こうなっては隠しておくことの方が不誠実なのではという気持ちになった。
「実はいま治療中でして…幸い薬が効いて病気の進行は遅らせているのですが…医者の話では完治は無理だろうと」
意外にも彼女は驚きや困惑でなく、すべてを察していたかのような穏やかな表情で私を見つめた。
「とにかく、失礼しました…気分は良くなりましたので」
起き上がろうとしたが、脚がいうことをきかない。彼女は私の肩に手を乗せて、一つ首を横に振った。
「休んでいってください。私はかまいませんので」
それから立ち上がって、
「退屈でしたら棚の本を取りましょうか。父の蔵書ばかりですが」
少し恐縮するように彼女は言った。なるほど本はどれも古びており、ソファで寝そべって読むには装丁が立派すぎるものばかりだった。
「あれをお願いします」
手前に横になって置かれている文庫本を、私は指さした。彼女は嬉しそうにそれを手渡してくれた。
「これは父の作品です。気に入っていただければ良いのですが」
作者名は「五十嵐秋生」とあった。
「五十嵐…さん」
「『しゅうせい』と読みます。本名は『あきお』なのですが、そのまま音読みにして筆名にしたのです。私は娘の五十嵐美緒と申します」
彼女は頭を下げた。私も名乗りながら、父親と名字が同じということは、とわずかな希望を感じていた。
「台所の方におりますので。何かありましたら、声をかけてくださいね」
そう言い置いて、美緒は書斎を出た。
五十嵐の小説は、主人公がタイムスリップして亡き母親と再会するという内容だった。淡々とした語り口でさほど感銘は受けなかった。興味を引かれたのは、主人公が自己の体験を振り返り、タイムスリップに関する仮説を延々と独白する後半部だった。
「父は物理学者でした」
回復した私は、そのまま五十嵐邸で夕食をご馳走になった。そういえば書斎にあった他の本は学術書ばかりだった。
「若い頃は小説家に憧れていたようです。この本は夢のかけらのようなものです。それも前半だけで、途中から論文みたいになってしますけれど」
美緒は目を細めた。私が本を返そうとすると、
「よかったらお持ちください。私も部屋に、同じ物を一冊置いてありますから」
私は再びその本を受け取って、五十嵐邸を後にした。
外はすっかり日が暮れて、気温も下がっていた。私は駅へ急いだ。
五十嵐の研究に興味を持った私は、その後図書館に通い詰めて文献を探した。しかし、五十嵐秋生なる物理学者の本はどこにも見つからず、同様の研究書にも名前は出てこなかった。無名の学者か、もしかするとアマチュア研究家だったのかもしれない。そう思っていたある日のことだった。
ノーベル物理学賞候補となったある学者のエッセイに、恩師の知人に時間移動を研究している男がいた、という記述があったのだ。その名前は明かされていなかったが、その人物はある発見を小説に形を借りて公表した。そして、彼には美しい娘がいたと書かれていた。
「その娘さん(仮にM嬢としておく)は看護婦として働きながら、早くに亡くなった母の代わりに甲斐甲斐しく父親の面倒を見ていた……私の師はM嬢に恋心を抱いていたらしいが、その想いも虚しく、東京大空襲によってM嬢は亡くなり、同時にその父親の作品も失われてしまったのだった」
私は大急ぎで図書館を出て美緒の家に向かった。馬鹿げた想像だとは、自分でも分かり切っていた。しかし、はっきりとした確証が欲しかったのだ。あの家は実在し、彼女は幽霊や私の妄想などではないことを。私は例の角を曲がって袋小路を目指して急いだ。その道のりはいつもより長く感じた。そして。
美緒の家に着くことなく、私はそのまま別の通りに出てしまった。目の前には私の通っていた高校があった。それは、僕が三年間通い続けた道だった。