シーン9
目を開けると、LED電球の明るい自分の部屋の中で、ノートの上に突っ伏していた。
どうやら、少し寝ていたようだ。
そのことに危機感がないなぁ。と自嘲して、カレンダーを見る。
印をつけられたセンター試験の日まで、あと数日。
こんな状況で居眠りできるなんて、よっぽど僕は試験に受かる自信があるらしい。
まあ、それもそうか。
塾の先生との面談では、僕の志望する大学へ入るのは余裕だから、もう少し志望校を上のものにするのはどうかという話まで出ていた。
それもこれも、有香と有希のことを考えたくないから勉強で頭を一杯にしたおかげというのが情けなく思うけど。
油断は禁物ではあるものの、少しくらい気を抜いてもいいだろう。
ガスヒーターで暖かくなっている部屋は、冬だというのに暖かすぎて僕の眠気を誘ってくる。
「少し散歩するか」
まだ寝るわけにはいかない僕は、そんなひとりごとを呟いて立ち上がった。
人も車も滅多に通らない、それ以外に特筆することのなく、あるのはただ等間隔に設置された街灯だけ。
そんな何の変哲もない道も、さすがにこの時間では暗くて、街灯がない場所の地面なんてほとんど見えないほどだ。
こんなことで怪我をしてしまうのも嫌なので、転ばないように気をつけつつ僕は歩いていく。
目的地なんてない。
適当に数十分ほど歩いたら家に戻るつもりだ。
しかし、最近はラストスパートということで睡眠時間を削っていたのが悪かったのか、ひどく眠い。
何度もあくびを噛みころしながら歩いていると、ふと、街灯の下に何か落ちているのが見えた。
「あー」
思わずそんなうめき声に似た声が口から洩れてしまう。
ぼうっと歩いていたらいつもの街灯の下まで来てしまった。
もう来ないなんて言ったのになあ。
しかし、来てしまったものはしょうがない。なんて、誰に言うわけでもない言い訳を心の中で呟きながらその街灯が照らす光の中へと入る。
少し悩みつつも、そこにある座るのにちょうどいいくらいの高さの塀に腰かけて、本を……って、読書もやめたんだっけ。持ってきてないや。
手持ち無沙汰な僕は、足元の花を見る。
実はあれからも何回かこの街灯の下を通りすぎることはあったが、有希の姿を見かけることはなかった。
しかし、この花束を見る限り、幽霊探しはまだやっているかわからないけど、ここには来ているようだ。まあ、このすぐ目の前があいつの家だし、仏壇にお花を供えるようなものか?
ポケットから携帯を出して、時間を確認する。午前一時ちょっとすぎ。
「よし、ラストチャンスだ」
本当は、すぐに家に帰って勉強しなければいけないのに、僕は立ち上がらなかった。
最後に一時間だけ、幽霊探しをしてみようと思ったのだ。
有希と一緒の幽霊探しをやめてから、すでに一年近くの時間が過ぎている。今さら現れるとは思わないが、ただ単に勉強に疲れて少しサボりたいだけだ。
何もせずにぼうっとしていると、脳から疲れが取れていく気がする。
向かいの家はもう明かりが灯ってない。
有希はもう寝たのだろうか。
まあ、あの頃もこんな時間までは幽霊探しをしていなかったしな。
そういえば、幽霊が出やすい時間帯というのを何かの本で読んだ気がする。丑三つ時の午前一時から三時まで。ちょうどじゃないか。
これは期待できるな。いや、しないけど。
あー、やばい。本当に眠くなってきた。
寒いからこんなところで寝るのは危ないのだけど、もう立つ気力もなかった。
そこで、何か暖かいものが僕に触れる。
「こんなところで寝ていると、風邪を引くよ?」
柔らかい声。
その心配するような有香の声に、僕は頷きながらも動かなかった。
「宏文くん、眠いの?」
その呼び方を久しぶりに聞いた気がする。
おかしいな。毎日のように聞いているはずなのに。
よくわからない怖さに突き動かされて、僕は有香の体に手を回す。
「宏文くん……?」
少し驚かせてしまったようだが、離さない。離したくない。
「もう、赤ちゃんみたい」
ニコニコと笑う有香に、僕も笑顔だ。
有香がそばにいて、笑っている。それだけで僕は幸せだった。
頭の上に載せられた有香の手が、ゆっくりと僕の頭を撫でる。
もっと有香と話をしたいのに、それが心地よすぎてだんだんと瞼が重くなっていく。
目を開けると、目の前に有香が立っていた。
「こんなところで寝ていると、風邪を引くよ?」
いつの間にか遠ざかっていた彼女を引き寄せようと手を伸ばす。
その手を、有香は恐る恐るといった感じで握って、僕に言う。
「ヒロ、眠いの?」
目が覚めた。
目の前にいるのは有香じゃなかった。
「有希、悪い……」
頭を振って眠気を覚ます。
体が冷え切ってしまっていて、上手く動かない。
「今何時だ?」
ポケットから携帯を出して確認する前に有希が言う。
「もう深夜の三時だよ」
二時間近くも居眠りしていたのか……。そりゃ体が冷え切ってしまうわけだ。
「はい、これ」
有希から暖かい缶コーヒーを差し出された。
「無糖が好きでしょ?」
「あ、ああ。けど寒いし早く帰りたいんだけど」
「ダメ。久しぶりに会ったんだから少し話をしようよ」
暖かい手が、僕の冷たい手を掴んで離そうとしない。
どうやら、逃がしてはくれそうにないみたいなので、僕は諦めて片手で缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「器用ね」
「そうか?」
ある程度の握力があればみんなできると思うけど。
「あー、その悪かったな」
とりあえず、僕は謝る。
あの遊園地でのこと。そして、あれ以来ここへ来なかったこと。
「ううん。私もヒロに会わないようにしていたから」
有希はそう言って笑う。
僕はどんな顔をしていいかわからず、ただ地面に視線を落とした。
「お姉ちゃん、いた?」
「今日も現れなかったよ。でも、夢は見た」
「そう」
なんとなく、有希が不機嫌になった気がした。
「やっぱり敵わないよね」
そして言う。
「私も死んで思い出になれば、お姉ちゃんみたいにヒロに大切に想ってくれたのかな?」
そう言う有希の顔が真剣で、思わず想像してしまう。
地面に横たわる有希の姿が頭に浮かんだ瞬間、まるでいきなり背中に氷水を入れられたかのようにぞっとした。
「実はね、幽霊探しって言うのはただの口実だったんだ」
未だに握ったままの手が、震えているのを感じる。
「お姉ちゃんが死んじゃって、本当はラッキーって思ったんだ……」
「嘘つけ」
僕は有希の手を強く握った。
「葬式で思いっきり泣いていたくせに。今さらそんな嘘がまかり通ると思ってんのかよ」
「本当だよ。たしかに悲しかったけど、そういう気持ちもあった」
「悲しかったなら、いいだろ」
僕は立ち上がる。
力の抜けていた有希の手から、僕の手が離れた。
「少なくとも、有香がいなくなった直後は悲しいほうが強かったんだろ」
「でも……」
「今は正直どっちでも……いや、悲しいほうが強いほうが問題だろ」
僕は急に恥ずかしくなって、頭を掻きながら有希に背を向ける。
それでも、どんなに恥ずかしくても、言葉にしなくちゃいけないことはわかっていた。
「有香がいなくなってしまったことに納得できずに、その幽霊を探し続けていた俺が言うのもあれだけどさ、いなくなってしまった人にこだわり続けるのはよくないことだと思う」
背後の有希はどんな顔をしているのだろうか。
まだ、変な風に自分を責めているのだろうか。
答えはすぐわかった。
暖かい感触が、背中にぶつかってきたからだ。
「私、ヒロのことが好き!」
『私、宏文くんのことが好きです』
背中から聞こえてくる有希の声が、あの日の有香の声と重なって聞こえる。
有香との大切な思い出を引きずって生きていくのか。
有希と、大切な思い出をまた作って生きていくのか。
そんなことを考えつつも、心はもう決まっていた。
「俺も……」
そこで僕は遠くから近づいてくる車のエンジン音に気づいた。
慌てて振り返る。有希はまだ気づいていない。
その音が、有香がいなくなった日を思い出す。
タイヤの擦れる音。何かがぶつかった音。運転手の怒鳴り声。
フラッシュバックしてくるように大音量で耳元で鳴りはじめたその音に、耳を塞いでしまいたくなる気持ちを僕は必死に抑える。
大丈夫。有香の時より早く気づけた。間に合う。大丈夫だ。落ち着け。ぼうっとしている場合じゃないだろう。
自分に必死に言い聞かせながら、僕は有希の方へ向き直り、そのまま抱き付きながら後ろに跳んで、街灯が照らしだす世界から出る。
街灯が照らす世界から、一瞬にして辺りが暗闇に包まれる。
そして、地面から数センチ離れている僕の足先を轟音とともに結構なスピードを出している車が通り過ぎていくのがかろうじて見えた。
よかった。そう思った瞬間、頭に衝撃を感じる。
有希を助けることに必死すぎて、受け身を取ることなんて考えていなかった。
地面にぶつけた頭が痛む。
「ヒロ……くん?」
横たわった僕の首筋まで、温かい液体が流れてくる。血かなにかだと思うが、確認する気力はない。
まあ、あんなスピードの車に轢かれるよりはましか。そんなことを瞼の裏の暗闇を見ながら考える。
有希が揺すっているのだろうか、体が揺れるのを感じて目を開けた。
掠れている視界の中、有希の顔が二つ並んでいた。
焦点があっていないのだろうか。いや、あれはたぶん……。
「今度は、間に合ったよ」
有香……。
ふっと、落ちていく感覚。
それに抗う暇もなく、その感覚に導かれるようにそのまま目を閉じた。
次の更新は明日。