シーン5
今日も街灯は、僕らをその光で上から照らしていた。
ラストまで一気に読み終わってしまった本を閉じて、コーヒーを一口飲む。
口の中に広がっていく苦さと、ナッツともカラメルとも何とも形容しがたいいい香り。そして、暖かいコーヒーが胃に落ちていく感覚。
それらをひとしきり味わって、ようやく僕は本という一つの世界から現実に戻ってきた気がした。
もう一冊読もうかな。とは思うが、読み終わった本の余韻がまだ残っているうちは新しい本を開く気にはなれない。
ただ、コーヒーの暖かさを少しずつ胃の中に落とし込んでいく。
「はい」
そして、差し出されたクッキーを口に入れる。
少し甘さを抑え込まれたそれは、僕の淹れてきたコーヒーによく合う。
至福の時間。というのは何も大げさなものではなく、ただ一杯のコーヒーと美味しいお菓子があればいい。なんていうのは僕の友人の話であったが、案外それは正しかったんだな。と、すっと理解できた。
「ねえ、ヒロ」
それは、彼女の実に一時間ぶりの一言だった。
「どうした?」
作戦を始めて以来、僕と有希は挨拶以外の話をしゃべるようになった。
有香とは関係ない話を有希とする。最初は違和感を持っていたそれも、今となってはないと落ち着かないほどには僕たちの間に馴染んでいる。
しかし、今日の話題は有香の話から始まった。
「ヒロってさ、お姉ちゃんと……」
そこで有希は言いよどむ。
顔色を伺うような視線。
傷ついていないか、傷つけていないか。互いに互いを確認しあって、僕は頷いた。
「お姉ちゃんと、デートしたことある?」
「もちろん、あるよ」
懐かしい。と言うほどには昔ではないけど、もう取り戻せないくらいには過去のことを僕は思い出しながら有希の質問に答える。
「参考までに、どこに行ったの?」
「本屋とか、図書館とか」
「それ、本当にデートだったの……?」
有希はそう言って呆れる。
たしかに色気がないと僕も思うけど、僕も有香も本が好きだし、互いに読んだ本の内容を語り合うのが何より楽しかったから、他の場所に行く必要性を感じなかったのだ。
しかし有希にそう言われてしまっては引き下がれないわけで、僕は有香とデートらしいデートをした記憶を掘り起こしてみる。
「映画! 映画とか行ったぞ! しかも見たのは恋愛もの!」
結構な駄作で、そのあと喫茶店で思いっきりこき下ろしあったけど。
本当に酷かった。
ヒロインだと思ってたキャラクターがラスト前に振られて、主人公が別の女の子に告白しようとするのだけど、逆恨みした……というかあれは順当な恨みだと思うけど、ヒロインだと思ってたキャラクターの妨害を乗り越えて別の女の子と付き合うとかいう変な話。
最後のほうなんて、有香は笑いを堪えるのに必死だったし、僕は完全に爆笑していた。
「もうこれ、恋愛じゃなくてコメディだよね」
なんて言って、思い出し笑いをした有香は可愛かったなあ。
「映画かあ」
その有希の一言で、思い出にふけっていた僕は現実に戻される。
「私、映画って苦手だなあ。途中で寝ちゃうと話についていけなくなっちゃうから」
「いや、そもそも寝るなよ」
映画見るのだってただじゃないんだから。
「だって、じっとしてると眠くならない?」
「ならない」
そもそも先の展開を予想したり、登場人物の心情を推察したりするのだから、ただじっとしているわけじゃない。
しかし、有希は僕の返答を気に入らなかったようで、顔をぷいとそむけながら言った。
「とにかく、デートするからそれ以外の場所を考えてきて」
また無茶ぶりな。とは思うが、有希の願いはなるべく叶えてあげたいと思っている僕は、しぶしぶ頷く。
「今度の休み、暇でしょ?」
「明後日じゃないか……」
今からデートコースを考えろと言われてもなぁ。有香と違って、図書館や本屋なんかじゃな有希は納得しないだろうし……。
「期待しているからね」
先ほどまでの不機嫌さはどこへ行ったのだろうか。そう言う有希の顔は期待で一杯な笑顔だった。
その笑顔に、僕はもうちょっと先にしようと言う言葉を引っ込める。
それっきりまた携帯いじりに戻ってしまった有希の横で、僕は引っ込めた言葉の代わりに頭をフル回転させてデートプランを考え始めるのだった。
次の更新は明日。