9月16日(2)
次の日、大学でのスケジュールを一通り消化し終えた私は、一人でマンションに帰ってきた。今日は瞬が家庭教師のバイトのため、一緒に帰って来られない。
「おや、今日はお早いお帰りですね。お一人ですか」
エントランスに、田中さんの場違いなほど明るい声が響く。
「はい、彼は今日アルバイトなので……」
「それは心細いですな。まあ、何かございましたら、遠慮なさらず私のところへご連絡ください」
「ありがとうございます」
いつもよりだいぶ早い時間に帰ってきたのだが、エントランスにもエレベーターにも人の気配がない。この間、聞き込みをして確かめたばかりだというのに、私以外の住人が本当にいるのかどうか、不安に思えてきた。最上階は当然のように無音。
自室に戻ると、窓から差し込む夕陽が、部屋全体を朱色に染め上げていた。空には雲一つ浮かんでいない。きっと今夜も見事な月が見られるだろう。
日本の神道に於いて、朱色は魔を祓う聖なる色と考えられている。燃え盛る太陽が少しずつ水平線の向こうに沈み、昼と夜の隙間、逢魔が刻を経て、街は夜の帳に包まれる。夜が更けるに従って、ぽつりぽつりと小さな窓が輝きはじめ、眼下にはいつしか、星空を鏡に映したような夜景が広がっていた。道に沿って流れる車のヘッドライトが、夜景と夜空の境界線を示している。そして、それら全てを睥睨するように、ぎらぎらと光る月。今宵は満月だ。
私は、なにか、もう吹っ切れたような気持ちになっていた。
昨晩あれが現れた時、瞬は目の前にいたにも関わらず、その姿を見ることができなかった。やはり、あれは不審者などではなかったのだ。目的は私。私が自分で解決しなければならない問題。
昨日まではあれほど恐ろしかったのに、どうしたことだろう。この大きな心境の変化に、自分でも戸惑いを覚えていた。もしかしたら、今朝から、ちょっとした躁状態になっているのかもしれない。
夜が更けるのを待って、私はピアノに向かった。最初にあれが現れた時と同じ状況を作れば、こちらから呼び出すこともできるのではないか、と考えたのだ。闇にはもっと深い闇を……蛍光灯は点けず、昨夜と同じ小さなアロマキャンドルに火を灯す。ベートーベンもきっと、こんな頼りない灯火の下でこの曲を作ったのだろう。ピアノソナタ14番、『月光』。
お膳立ては整った。
さあ、来るなら来い。
精神を指先に集中させ、ダンパーペダルに足をかける。
ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、ミ、ラ、レ、ファ、ラ、レ、ファ、ソ、シ、ファ、ソ、ド、ミ、ソ、ド、レ、ファ、シ、レ……
第一楽章、その物悲しい旋律が、空虚な夜の静寂を満たしていく。これまであまり興味を持ってこなかった曲だけれど、メランコリックな夜にはとてもよく似合うかもしれない。
演奏を始めた頃から、私は微かに異変を感じ始めていた。ベランダから向けられる視線。その気配がだんだん強まっていく。だが、不思議と恐怖は感じなかった。まるで月光ソナタの旋律と同調しているかのような、それは静かな気配だった。
第一楽章の演奏を終え、私は鍵盤から窓の外へと視線を移す。
あれは確かにそこにいた。体の表面を覆うどす黒い血が、月光を浴びててらてらと光っている。冷静にその姿を観察してみると、敵意のようなものは全く感じられない。ピアノの旋律に耳を傾けながら、ただそこに立ち尽くしているだけのようにすら見える。
私は意を決して、椅子から立ち上がり、ゆっくりと掃き出し窓の方へ近付いていった。一歩、二歩……距離を詰めても、それは微動だにせずこちらを見つめるばかり。今にも転がり落ちそうなむき出しの目玉、腐敗してどす黒く変色した皮膚。よく見ると、手足が明らかにおかしな方向に曲がっている。その痛々しい姿を目の当たりにして、私の中に芽生えた感情は、『可哀想』だった。
だが、次の瞬間、それは突如としてふわりと宙に舞い上がった。私は慌てて窓のクレセント錠を開け、ベランダに飛び出して、今度こそ見失わないよう、その行方を目で追う。
すると、これまで手摺を飛び越えて落下していたはずのそれは、そのまま頭上に舞い上がり、吸い込まれるように屋上へと上っていったのだ。
屋上……? でも、あそこには鍵が……。
昨日も一昨日も、屋上へと続く扉には鍵がかかっていて、足を踏み入れることはできなかった。
だが、屋上に行かなければ、あれの正体を掴むことができない……私の勘がそう告げている。
迷っている暇はない。考えるより先に足が動いていた。
全速力で階段を駆け上がり、屋上へと通じるドアの前に立つ。昨日までは開かなかったドア。ノブを捻ってみると、意外にも、鍵はかかっていない。鍵が開いているのだから、今夜は現実の不審者がいる可能性もあった。しかし、それに気付いたのはもっと後のこと、私は一刻も早くあれの正体を知りたい、その一心で扉を開け放った。
「……見つかっちゃった」
屋上の手摺りに寄りかかるようにして立つ人影。その声に、私は聞き覚えがあった。
可憐で、どこか寂し気な声。
月明かりの下に浮かぶ、セーラー服姿の少女。長い黒髪が夜風に靡いている。
「あなたは……三十階の……?」
それは紛れもなく、三十階、私の部屋の真下の住人。聞き込みに訪れた際に話をした女の子だった。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです……」
怪訝に思いながら近付いていくと、彼女はうっすらと苦笑いを浮かべていた。
「あなた、どうやってここに……? あの扉は、いつも鍵がかかっているはずじゃない?」
「あそこの鍵、ちょっと調子が悪いでしょう? コツがあるんです」
彼女はそう言うと、ポケットからくねくねと曲がった針金を出して見せた。これで開けた、ということだろうか。
「でも、こんなところでいったい何を……それより、何か妙なものがここにやってこなかった?」
「ああ、あの、黒いやつでしょう? それ……私が作った人形なんです」
「ええ……人形?」
聞き返す声が、思わず大きくなった。
「私……嫌なことがあって、死にたいなあと思ったりすると、時々、ここから人形を落とすんです。自分の死体に似せて作った人形……いえ、きっと自分が死んだらこうなるだろうって、想像してつくった人形を。そうやって、私の代わりに死んでもらうの」
身代わりの人形。代償行為、ということだろうか?
「最初はそのたびに拾いに戻っていたんだけど、ある時、拾いに行く前に他の住人に見つかってしまったことがあって……その時、ちょっとした騒ぎになってしまって、結局人形も回収できなかった。それからは、人形に糸をつけて、そのまま自分の階のベランダに落とすようにしているんです。でも、時々うまく落ちてくれない時があって……ええと……」
「西野園、です」
「そう、西野園さんの部屋のベランダに落ちてしまっていたんです。本当に、ごめんなさい……」
何度も何度も必死で頭を下げる彼女の姿に、私は怒る気も失せてしまった。
「もう、謝らなくていいから……でも、危ないわ。勝手に屋上に上がって、こんな……」
すると彼女は、妖しく輝く月を見上げながら、囁くようにか細い声で語り始めた。
「ごめんなさい……でも、私にとっては必要なことだったんです。もう、毎日毎日、死にたくて……」
「どうして……何か、学校で辛いことがあるのかしら?」
「全部です。何もかも。学校ではシカトされてるし、両親は私なんかより仕事が大事みたいだし、彼氏は私のことなんか全然わかってくれなくて、会うたびにセックスセックスってそればかり……。だったら勉強を頑張ろうと思ってやってみても、社会人になったらどうせまた人間関係で苦しむんだと思うと、途端にやる気が失せてしまって……もう、死んでしまいたい、自分を壊してしまいたい、この世から消えてなくなりたい、お前たちは人殺しなんだって、世の中全てに復讐してやりたい……そんな風に考えてしまう。でも、人形を落とすと、なんだか、自分の死体を客観視しているような気分になれるんです。なんだ、これだけのことか、って……死んでも何も変わらないって。私の死体が野次馬たちの好奇の目に曝されて、教室の机が一つ空いて、彼氏は新しい彼女を作って、それでおしまい。私が命がけで訴えても、世の中が変わるわけじゃない」
彼女の声が、少し震え始めた。
「そうしてようやく、死ななくてよかった、私は生きてるんだ、生きててよかったって、そう思えるの。涙が止まらなくなって……私はまだ死にたくなかったんだって」
彼女の横顔が幼い頃の自分の姿と重なって、私はほとんど無意識のうちに、目の前で泣いている少女を抱き締めていた。
「そうだよ。死んじゃだめ。私も死にたいと思ったことは何度もあるけど、死んだら終わりだもの」
「西野園さんみたいに綺麗な人でも?」
「うん、色々あるの」
彼女の艶やかな黒髪が、月明かりを浴びて淡い光を放っている。もしも私に妹がいたとしたら、きっと彼女によく似ているだろう。そんな想像が、一瞬。
「だからね、もし死んでしまいたくなるほど辛いことがあったら、いつでも私に相談して。すぐ上の階なんだから。あなたの訪問なら、いつでも大歓迎だよ」
「……ありがとう」
後始末があるから、と言う彼女を残して、私は一人で部屋に戻った。
去り際の、手を振りながら微笑む彼女の顔が、今でも脳裏にはっきりと焼き付いている。
『お姉さん、私の話を聞いてくれてありがとう』
この時の私はまだ、自分がこれまで目にしてきたものと、彼女がたった今話した内容との間に大きな乖離があることに、気付いていなかった。
実際の満月は9月17日だそうです。