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9月15日(6)

 ピコン


 瞬のスマホがLINEの軽快な通知音を発する。彼は、さっとスマホを取り出して素早く返信した。

「誰?」

 交遊関係の狭い瞬のスマホが鳴ることは滅多にない。

「ああ、永井先輩。大した用じゃない」

 永井先輩とは、監獄島の事件の際、足を怪我して参加できなかったあの人のことだ。サークルが解散して、当時のメンバーとは連絡をとることさえほとんどなくなってしまったが、瞬と永井先輩は未だに交流があるらしい。



「いやあ、屋上も隅から隅まで確認してみたんですけどね、不審者がいたような形跡は見つけられませんでしたよ」

「そうでしたか……わざわざお手数をおかけしてしまって、申し訳ありません」

「いえいえ、そんな。これが私の仕事ですから。実際、不審者が屋上に潜んでいたというケースもあるんですよ。私もしばらくの間はこまめに屋上を見て回ろうと思っておりますので、ご安心を……といっても、なかなか難しいかもしれませんけど」

 大学の講義を終え、夕食も済ませてマンションに戻ると、まるで私の帰りを待っていたかのように、田中さんのほうから声をかけてきた。それは吉報とは言い難い内容だったが、予想通りだったとは言える。どちらかといえば、悪い意味で。

「ところでそちらは、西野園さんのボーイフレンドでいらっしゃいます?」

 田中さんの目がちらりと、私の後に立っている瞬の方を見る。

「ええ、実は……今夜は、一緒に居てもらえることになったんです」

「そうですか、そうですか。それは心強いですな。どうぞ、ごゆるりと、お休みになってください」

 田中さんは慇懃に頭を下げた。この人がこんなに早く話を切り上げるなんて、滅多にない、というか、初めてのことかもしれない。きっと私が彼氏を連れているから、気を使ってくれたのだろう。そんなに気が利くのなら、私が先を急いでいる時にこそ空気を読んでもらいたいのだが……。


「今のが、例の管理人?」

「うん……今日は瞬が一緒だからすぐに解放してくれたけど、いつもはおしゃべりがすごく長いの」

「ふむ。あんまり、犯人って感じはしないな……」

 小声で囁き交わしながら、二人でエレベーターに乗り込む。


 初めて瞬を私の部屋に入れる。


 どういう会話の流れからこうなったのか。どちらからともなく、だったような気もするけれど、私の方から誘ったようにも思える。瞬のほうから言い出すとはあまり思えないから、きっとそうなんだろう。つまり、それまでの経緯が頭からすっぽり抜け落ちてしまうほど、緊張しているということ。

 本当はベランダの怪なんて全く気にしなくてもいい状況下で誘いたかったけれど……いや、やっぱり、言い出せなかっただろう。つまり、私は、この状況を利用していることになるのだろうか。いつの間にこれほどずる賢くなってしまったのかしら……。


 体がふわりと浮き上がる感覚。浮遊感。まるで今の私の気分のように。なんとなく浮ついた気分。ちゃんと自分の足で立てているだろうか。なるべく自分を客観的に見ようとしている自分がいた。


 エレベーターの扉が開き、見慣れた白い廊下が目の前に広がる。今、このフロアには私達しかいない。私のパンプスと瞬のスニーカー、二つの足音が、フロア全体を満たしていた静寂の表面張力を破る。互いに共鳴し、反響しながら。まるでこの階だけが、現世から隔離された異空間であるかのような錯覚。


 鍵を開ける。扉を開く。部屋は当然のように真っ暗だった。すぐに手元のスイッチを操作して、明かりをつける。LEDの白い光が、がらんとした広いリビングを隅々まで照らし出した。

「おお……小雨から聞いてはいたけど、本当に広いんだね」

 瞬が感嘆の声を漏らす。

「瞬、蛍光灯の明かり苦手でしょう? 一応、蝋燭もあるよ。アロマキャンドルでよければ」

 私は小物入れから小さなアロマキャンドルを取り出して、瞬に手渡した。

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 瞬は、ポケットから取り出した洒落たデザインのジッポライターで、小さなアロマキャンドルに火を灯す。かすかに甘い香りが漂い始めたのを確認してから、私はもう一度玄関に戻り、蛍光灯のスイッチを切った。


 ついさっきまで蛍光灯の明かりを反射して白く輝いていたリビングが、たちまち元の暗闇に還る。その中で、アロマキャンドルが置いてあるテーブルの周辺だけが、柔らかい光に包まれていた。

「うわ、やっぱり部屋が広いから、この蝋燭一つだけだと暗すぎるね」

 瞬が辺りを見回しながら言った。私は、足元に注意しながらリビングの瞬のところへと急ぐ。


 彼が言った通り、キャンドルの明かりは思っていたより弱い。リビングの一角、入り口から見て左手前側の隅にL字型に配置したソファと、その前にある背の低い丸テーブル、そして、テーブルの上に置かれた小さなアロマキャンドル。光が届く範囲は、せいぜいリビングの半分ぐらい、面積にして1/4ほどだった。

 暗がりの中、灯火に照らされた瞬の姿がぼんやりと浮かび上がる。このまま百物語が始まってしまいそうな雰囲気だった。黒光りするグランドピアノの表面に橙色の小さな炎が映りこむ。リビングの反対側、ベランダのある方向はほぼ真っ暗で、窓から差し込む月明かりのほうがずっと明るいぐらいだ。

 怖いから、という理由で瞬に来てもらったはずなのに、何故わざわざ怪談話みたいな雰囲気を自ら作り出しているのだろう、とは思ったけれど、今夜はそれほど怖さを感じなかった。三日目で、心構えができているからだろうか……いや、やっぱりきっと瞬の存在が大きいのだろう。


 芳醇な薔薇の香りがあたりに立ち込める。お互いの表情をちゃんと読み取れる範囲が結構狭いということに気付く。私は瞬のすぐ隣に座った。

「こんなに暗いと、いざ不審者が現れても見えないんじゃないか……大丈夫かな」

「それならそれでいいよ。別に、見たいわけじゃないもの」

 瞬はなんとか自分の目であれの姿を確認したいらしく、ベランダの方向をじっと眺めている。せっかくこんなに近くにいるのに、全然こっちを見てもらえないのが少し寂しい。何か話をしよう。

「ねえ、瞬……」

「ん?」

「私の部屋、気に入った?」

「……ああ、もちろん。広いし、よく片づけてあるし、お嬢様のお部屋、って感じがする」

「広すぎるんだよ、私には。もともとそんなに荷物もないし、瞬にたくさん選んでもらった服も、部屋のクローゼットにすっぽり収まっちゃうし。部屋の真ん中にピアノを置いても、まだこんなに余裕があるんだもの……一人で住むには広すぎる」

「なるほど……贅沢な悩みだね」

「だからさ……この部屋で、瞬と一緒に暮らせたら楽しいだろうなって、よく想像するの」

「……えっ?」

 瞬が驚いてこちらを振り向く。ようやく私を見てくれた。

「……それは、同棲したいってこと?」

「そんな、真面目に受け取らないで。そうなったら寂しくないだろうなあって思ってるだけだから」

 とは言ったものの、まんざら冗談でもない。部屋ならまだ余裕があるし、うちから大学にも歩いて通えるし、条件は整っているはず。

 瞬は真顔で考え込んでいる。前向きな方向で考えてくれていればいいのだけれど……。その時、ベランダから


「キャッ!」


覗く視線。


 今夜もそこにいた。月明かりを受けて血みどろの体をてらてらと光らせながら、相変わらず直立不動のまま、こちらを凝視している。襲い掛かってくるわけでもなく、声を上げることすらなく、これはいったい何のためにここまでやってくるのだろう。そう考えるだけの余裕が、今夜はあった。

「え、現れたか?」

 瞬もすぐさまベランダの方を見る。

「……えっ、どこ?」

「ほら、そこ! ベランダに……」

 瞬はすっくと立ちあがり、ベランダへ駆け寄った。私の目にははっきりとそれが見えているのに、瞬にはその姿が視認できていない様子だ。暗さのためか、とも思ったが、窓の近くまで行ってもまだ見えていないらしいところを見ると、どうもそういう問題ではないように思えてくる。ということは……。

 やがて、その異形の存在は、窓の前で行きつ戻りつしている瞬を嘲笑うかのように再びふわりと舞い上がり、初めて遭遇した夜と同じように手摺を飛び越えて、そのまま落下していった。

「瞬! ほら、今! 落ちたよ!」

「え、落ちた?」

 瞬は慌てて掃き出し窓を開け、ベランダに出て周囲を確認した。それから、手摺から身を乗り出し下方を確認していたが、やはり何も発見はなかったらしい。

「だめだ……とりあえず、屋上に行ってみよう」

 瞬はそのまま玄関へと駆け出して行った。私も急いで彼の後を追う。


 階段を昇り、屋上へと続く扉の前に辿り着くと、既に瞬がドアノブを掴んでがたがたと鳴らしているところだった。

「なんか……この鍵、壊れかけてるのか、ちょっと力をこめれば開けられそうなんだけどな……」

 そう言いながら、頻りにノブを回したりドアを引いたり、力業で開けようとしているみたいだ。たしかに、瞬が思いきり引っ張るたびにドアもノブも数ミリ程度動いている。だが、あと一息というところで引き戻されるのだった。

「瞬、いいよ、ここは……扉を壊しちゃったら大変だし」

「でも、もしかしたらまだここにいるかもしれないんだろ?」

「何もないよ、きっと」


 それからさらに数分粘ってみたが、結局扉は開かなかった。瞬が額の汗を拭いながら言う。

「どうしよう、このままここで張り込んで出てくるのを待つか……」

「ううん。きっと誰も出てこない」

「でも、それじゃあ……」

「部屋に戻ろう? そばにいてほしい」

「……ああ、わかった」

 瞬は、開かない扉を恨めしそうに見ていたが、私が階段を下り始めると、黙って後についてきた。

「すごい汗……。先に、シャワー使っていいよ」

さて、この夜二人はどうなるのか、ですが、ホラーとしての本筋とはあまり関係がないので、次話だけは、平行して連載している『京谷小雨の日常』の方に投稿することになると思います。

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