9月14日(2)
翌朝、私は大学へ向かう前に、もう一度マンションの周囲の地面を隈なく捜索してみた。事情を知らない人が見たら、さぞかし奇異な姿に見えたことだろう。落とした洗濯物を探している、とか。
地面のコンクリートの上、近くの植え込みの裏、小さな物陰まで。しかし、死体はおろか、血の一滴すらも見つけることができなかった。
やっぱりあれはただの幻覚だったのだろうか。いや、そんなはずは……。
大学で講義を受けている間も無意識のうちに昨夜のことを考えてしまい、内容が全く頭に入ってこない。
「どうしたの? 真紀。今日、なんか元気ないよ」
大学からの帰り道、一緒に入った喫茶店で、瞬は砂糖がたっぷり入ったエスプレッソを飲みながら言った。基本的に甘党の彼。
「ううん、なんでもない」
「本当?」
彼の奥二重の瞳が私の目を捉える。瞬の眼差しはいつもマシュマロのように優しくて、わたあめのように掴みどころがない。彼が大量の糖分を必要とするのは、きっと視線のメンテナンスに消費されているからだと私は思っている。
「うん。どうして?」
「今日は少し無口だから」
「う~ん、ちょっと疲れたのかも」
「そっか」
それっきり、会話は途切れた。
瞬はあまり自分から話を始めるタイプではない。だから、私が黙り込んでしまうと、そこからなかなか会話が続かなくなる。
喧嘩になった場合(理由は大体私がつまらないことに腹を立てるせい)、いつも私だけが子供みたいにプリプリ怒っているのだけれど、彼は平静そのものだ。私だって一応、今年成人を迎えた大人の女だから、次第に怒ってみせるのが馬鹿らしくなってくる。彼は、そんな私を例のわたあめのような柔らかい視線で絡めとりながら、私の方から謝るのをじっと待っているのだ。ちなみに、彼に非がある場合はすぐに向こうから謝ってくるので、喧嘩まで発展することはあまりない。私の方が11ヵ月年上なのに、年下の彼にだいぶ甘やかされているというわけ。
そういえば、最近は特に喧嘩をしているわけでもないのに、会話が途切れることが多くなったような気がする。付き合い始めの頃は随分沈黙を恐れていたのだけれど、いざこうなってみると、案外気にならないものなんだ、いや、気にならなくなったんだ、と思う。これは安定期か、はたまた倦怠期か。
今日の場合、私がさっき『疲れている』なんて言ってしまったから……無理に話を継ごうとしないのは、彼なりの気遣いだと思いたいけど、どうだろう?
喫茶店を出た私達は、そのまま私のマンションまで歩いた。相変わらず会話は弾まなかったけれど、腕だけはしっかり組んだままで。どんなに暑い日でも煙たがられたことはない。
エントランス正面、ピロティの上部に輝く『アーバンシティ青葉』の文字。今日もまたいつものように、マンションの前に立って、去りゆく瞬の背中を見送る。その姿が路地の向こうに消えて、完全に見えなくなるまで。
部屋で一人になると、また言いようのない寂しさに押し潰されそうになる。
さっきまでの気分をドライアイスで包んで保存しておけたらいいのに。そうすればきっと、冷たくて気持ちいいし、一石二鳥のはず。そんなどうしようもないことまで考えてしまう。本当に、これは病気かもしれない。
音のない部屋。
またピアノでも鳴らしてみようか、と思ったけれど、ピアノの前に立った途端、昨夜の出来事が脳裏に蘇る。
ベランダから覗く血みどろの……。
恐る恐る掃き出し窓の方を見る。
異変は何もなかった。
当たり前じゃん。昨日のあれは、ただの見間違い、幻覚だったんだ。ちょっと気にしすぎじゃないか、私。
目の周りを指先で軽くマッサージして緊張を解し、大きく深呼吸をする。人間は、息を吸い込むときに最も無防備になるらしい。
それは、吸い込んだ空気をすっかり吐き終え、新たに空気を吸い込もうとした、ちょうどそのタイミングだった。
ピンポーン
玄関のチャイムの音が、静まりかえった室内に響き渡る。気を静めようとしている最中だった私は、突然の訪問者にびくりと震え上がった。ああ、もう、間が悪い……。まあ、向こうは私の事情なんて知らないわけだから、相手を責めてもしようがないけれど。
しかし、こんな時間に誰だろう? 通販の配達がこれぐらいの時間にやってくることはあるが、今は何も注文していないはず。大学に入ってからできた親友を一人、何度か部屋に招いたことはあるが、彼女にしても、いきなり押し掛けてくるような子ではない。それ以外にこの部屋を訪れるような友人は皆無だ。
瞬が引き返してきたのかも、と少し期待したけれど、瞬はまだこのマンションに足を踏み入れたことがない。エントランスで田中さんに止められるはずだし、私の部屋に来る前に確認の電話が入るはず。セキュリティは割としっかりしているのだ。
いったい誰だろう。
私は急いでインターホンの映像を確認する。カメラ付きのインターホンなんて今時珍しくないかもしれないが、実家にいた時は全て使用人がやってくれていたので、引っ越してきた当初はこれだけでも新鮮に感じられたものだ。
画質の粗い小さな画面を覗き込むと、そこに立っていたのは、グレーのスーツに身を包んだ、ショートカットに銀縁眼鏡の女性……え、えっ?
お母さん???
うわわわわわわ!
ある意味、得体の知れないお化けなんかよりずっと恐ろしい存在だ。
なんでお母さんがここに?
インターホンの前でしばらく呆然としていると、待ちかねたのか、チャイムの音がピンポーンともう一度、急かすように鳴り響いた。と、とりあえず開けなくちゃ。
私は急いで鍵を外し、玄関の扉を開けた。
「ああ、やっぱりいるんじゃない。久しぶり、真紀。どう? 元気にしてた?」
久しぶりに見る母の顔は、心なしか、私の記憶の中にいる母よりも優しく見えた。外行きのスーツをきっちり着込んでいるにもかかわらず。
「え、お母さん? どうしてここに?」
扉の前であたふたしていたことを悟られないよう、さもたった今母の姿を認めたという体に振る舞う。
「ちょっとこっちで講演の仕事があってね。せっかくだから、ついでに寄ってみたの。……なんだか、少し痩せたんじゃない?」
どうしてこんな部屋の真ん中にピアノ置いてるの? もう少し隅に寄せたらスペースが広く使えるでしょう。
冷蔵庫が空っぽ。外食ばかりしてるんじゃない? たまには自炊もしてみなさい。
ちょっと、服買いすぎなんじゃない? カードの請求見てびっくりしたわよ、もう。
部屋に入って早々、母のマシンガン小言が始まった。いや、服の件は本当に耳の痛い話なんだけど。瞬と一緒に買い物に行くと、彼はいつも『かわいいよ』と言ってくれるから、ついつい買いすぎてしまうのだ。これについては、本当に申し訳なく思っている。私も何かバイトをして自分の小遣いぐらいは稼がなきゃ、と常々思ってはいるのだが、なかなかどうして、腰が重くて……。
「ああ、だめね、久しぶりに会うのにこんなお説教ばかりじゃ。晩御飯はもう済ませた?」
「ううん、これから考えようと思ってたところ」
「よかった。そんなことだろうと思って、途中でスーパーに寄って買い物してきたの」
母はそう言って、白いビニール袋を差し出した。すぐにお説教が始まったから、今の今までその存在に気付かなかった。
「買い物? お母さんが?」
「何そんなに驚いてるの? 今日の晩御飯は私が作ってあげるから、待ってなさい」
トントントン。台所から、打楽器となった包丁とまな板の小気味良い音が聞こえてくる。鍋も包丁もまな板も、仕事をするのはバレンタインにチョコを作って以来だ。あの時に一通り買い揃えておいてよかったと、密かに胸を撫で下ろす。もし調理器具すら用意していなかったら、もっとこっぴどく叱られていたに違いない。
母が台所に立つ姿を見るのは、これが初めてではないだろうか。実家には使用人が数人いるし、シェフを招いて作ってもらうこともある。そのため、私も料理なんてしたことないし、母が料理をしているところも見たことがない。だから、てっきり母も私と同じように料理ができないものと思い込んでいたのだ。
でも、母の包丁捌きは危なげなく、手慣れたものだった。どこで習ったのだろう……。
出てきた料理は、肉じゃがとほうれん草のおひたし、豆腐と煮かぼちゃ、それから、スーパーで買ってきた惣菜のひじきの煮物。米がなかったのだが、それは母がコンビニで買ってきたらしいおにぎりで済ませることにした。
「考えてみれば、こういう母親らしいこと、今まであんまりしてやれなかったわね……」
二人で食卓を囲んで夕食を食べている最中、母がふと、感慨深げにそう漏らした。研究者である私の両親は、私が子供のころから家を空けることが多かった。だから、私には両親との思い出が極めて少ない。
初めて食べる母の手料理は、今まで食べたどのディナーよりも優しい味がした。
「……なんてね、最近はそんなことをよく考えるの。真紀がこっちで一人暮らしするようになって、小言を言う相手がいなくなったせいかしら。しみじみと色々考えてしまうのよね。どう? おいしい?」
「……うん」
「よかった。私も、料理なんてするのは久しぶりだわ。真紀も、料理のひとつぐらいは覚えないと、彼氏を呼んだときに困るわよ」
「まだ部屋には入れてないし」
「へえ、『まだ』ってことは、やっぱり彼氏がいるのね」
「……あっ……」
しまった……。母の手料理に気を取られて、つい口を滑らせてしまった。巧みな誘導尋問だ。
「ち、違うよ、これは言葉の綾っていうか……」
「母さんの誕生パーティーにもその子を連れて行ったの?」
母の追及はいつも厳しい。今回も逃がしてはくれないみたいだ。無駄な抵抗は逆効果。
母の母、つまり私にとっては母方の祖母にあたる、榊家の葉子お祖母様の誕生パーティーに出席するため、関東地方の山奥にある榊家の屋敷に瞬を伴って出掛けたのは、梅雨明け前の六月末のことだった。実家から付き添いとして使用人が付けられるはずだったのだが、私はそれを無視して、内緒で瞬を連れて行ってしまったのだ。
「……うん。なんでわかったの?」
「真紀が自分でキャリーケースを引いて歩くとは思えなかったから。それに、昔から兄貴は嘘が下手なのよ」
母の兄、得雄伯父さまが母にうまく話してくれたはずだったのだが、どうやらそれがまずかったらしい。……まあ、お母さんの手にかかったら、誰だって嘘が下手になってしまう。きっと、瞬の嘘だってたちまち見破ってしまうだろう。
「……ごめんなさい」
「それは、何に対しての謝罪? 無断で彼氏を連れて行ったこと? それとも、無断で彼氏を作ったこと?」
「両方、かな」
母は小さくため息をついた。
「いいわよ、今更。で、どんな子なの? 同じ大学の子?」
私はこくりと小さく頷く。
「まあ、兄貴はああ見えて人を見る目はある方だから、あなたの嘘に加担したってことは、その子も、そんなにダメな男ではないんでしょうけど……」
「優しいの。すごく」
「誰だって最初はそうよ……まあ、いいでしょう。この話は止め。そうそう、このおにぎり買ってきたコンビニでね、京谷さんの娘さんに会ってきたわよ」
「え、小雨に?」
京谷小雨……先程少し触れた、私の唯一の親友の名前だ。彼女はもともと実家のご近所さんで、当時は顔を知っているぐらいの間柄でしかなかった。小学校に上がる前の年に彼女の一家が東北に引っ越して以来ずっと没交渉だったのだが、私がこちらの大学に進学したことで、同じ大学に進学した彼女と偶然再会して、友達になったのだ。また、小雨は瞬の幼馴染でもあり、私と瞬が出会ったきっかけは小雨を介してのものだった。
「そうそう。たまたまホテルの近くのコンビニに寄ったら、レジ打ってるんだもの、びっくりしたわよ~」
確かに、それはものすごい偶然。
それから話題は学校生活へと移り、色々と話をしているうちに、晩御飯をすっかり平らげてしまった。
台所に立って洗い物をしている母の背中を眺めながら、もっと早く、こうしてじっくり話し合ってみたかったな、と思う。でも、その場合はきっと、私が家を出ることもなくて、都内の大学に進学して……つまり、瞬とも出会えていなかったかもしれない。全てのことには理由があって、どれもほんの少しずつずれているのだ。
そんな感傷に浸りながら、何気なく、本当に何気なく、私は掃き出し窓に目を向けた。
「きゃぁぁぁっ!」
私の悲鳴とほぼ同時に、台所の方からガシャン、と皿が割れる音が聞こえてきた。そちらの方も気にはなったが、私の目はベランダに釘付けになっていた。
立っていたのだ。今日も。
血みどろの人間が。
黒く爛れた肌。
今にもぽろりと落ちそうな目で、私をじっと見ている。やっぱり、昨日見たものは幻覚ではなかったのだ。
すぐにでも声を上げたかったけれど、歯の根が合わず、うまく言葉を発することができない。もしもこのまま、窓ガラスを叩き割って部屋に入って来たら……という恐ろしい想像が頭を掠める。
「ちょっと、何なの? 突然大声出して。びっくりしてお皿一枚割っちゃったじゃないの」
母が、台所から私の傍までやってきた。振り返ると、母は私を咎めるような口ぶりで、その表情には恐怖の色など微塵も浮かんでいない。あれの存在に気付いていないのだろうか。
「あ、ああ、あれ……」
私は震える指でベランダを指差す。
「何? 何もいないじゃないの。変質者でもいた?」
「……え?」
母の顔からベランダに視線を戻すと、既にあれの姿はなかった。影すらも消えていたのだ。
母は掃き出し窓を開け、ベランダへと出た。
「ほら、やっぱり何もない。一体どうしたっていうの?」
「今、確かに、そこに何かが……血だらけの、人間みたいなのがいたの」
「ええ? そんなまさか……」
母はベランダから下を覗き込み、次に屋上の方を見た。
「下には何もない。あるとすれば上か……この上って、屋上よね?」
「う、うん……」
「屋上に上がるには……階段?」
「そうだけど……きっと、鍵がかかってるよ」
「仮に不審者がいて、屋上に逃げたのなら、屋上に続くドアの鍵も開いているかもしれない。ちょっと行って見てみるわ」
母は躊躇わずに廊下へ出て行った。あの人の辞書に恐怖という二文字は載っていないらしい。部屋に一人残されるのが心細かった私は、慌てて母の後を追いかける。
母の後について階段を昇ると、屋上へと繋がる扉が見えてきた。母はすかさずノブを回し、鍵がかかっているかどうか確かめる。
「う~ん、鍵は閉まってるわね」
もし本当にあれ、もしくは変質者が屋上にいるのなら、ここを開けたら鉢合わせしてしまうわけなのだが、そんなことは母の頭には全く入っていないようだった。ちょっと不用心ではないかと思うけれど、今は母の気の強さが心強くもある。
そのまま、扉の前で十分程待ってみたが、屋上からなにかが姿を現すことはなかった。
「何かの見間違いじゃない? 疲れてるのよ。それに、ほら、こっちに来てから二回も妙な事件(※)に巻き込まれたから、神経質になってるんじゃない?」
母はそう言って私の肩を抱き、一緒に私の部屋へと戻る。
見間違い……もちろん、私もそう思いたかった。でも、二日連続で同じ見間違い、あるいは幻覚を目にするなんて、そんなこと……。
母はそれから一時間ぐらい一緒にいてくれたけれど、明日の準備があるから、とホテルに戻っていった。
一人でとても心細かったけれど、幸い、それ以降異変は起こらなかった。
(※)シリーズ過去作「アンダンテ」「監獄島の惨劇」参照