18,最悪の爪痕(2)
◇
……白い部屋だった。
窓の外は、雲一つない快晴。
広い部屋には、俺一人しかいない。ここは、とある病院の個室だ。
「リュウトくん、調子どう?」
声とともに、ガラガラと部屋の扉が開けられる。
そこにいたのは、シドー着姿の可憐な少女だった。
「……カミネさんか」
微笑む彼女は、持っていたリンゴを俺に見せる。
お見舞い、というところか。
「もうすっかり元気みたいね」
ベッドに横にならずに窓際に立っている俺を見て、セイラはくすりと微笑う。
見舞いに来たのは、どうやらセイラ一人だけのようだ。
テラやリンはどうしたというのか。あいつらとの付き合いは、セイラよりよっぽど長いくせに……。薄情な奴らめ。
……定期戦があんなことになって、もう四日がたつ。
その間何があったのかと言えば、別段、何か大きな事件が起こったわけでもない。
重傷を負っていた俺は、即入院だ。ジビロンの病院へ移ったのは、つい二日前のことになる。
だが、状態は既に完治と言っても過言ではない。
何気なく、首筋に触れてみる。
動脈に届いていた傷口は、もう痕跡すら残さず治癒していた。いや、それはもう痕跡どころの話ではなく、初めから傷なんてなかったかのように綺麗さっぱり消えていたのだ。
しかし、この傷に関しては、いささか謎が残っていた。
俺が負った中でも最も大きかったこの傷は、何故か病院に運ばれた時点では既に塞がっていたらしい。まあそれでも、俺の全身はボロボロに痛んでいたわけだが。
不思議なこともあるものだ、と楽観することはできなかった。
俺はあの事件の時、途中で気を失ってしまったようだから、最後までの記憶はない。
……俺が気絶している間に、誰かが俺の首の傷を治療したのだ。
いったい誰が?
どうやって?
そして何故、首の傷だけを治して他は治してくれなかったのか……?
いや、最後のは完全に俺の我儘だが。致命的な傷が治っただけでも有難いというものだろう。
俺を見つけたのは、聞いた話ではセイラとのことだった。
そしてそのセイラも、俺を見つけた時点で首の傷はなかったと言う。見つけた場所というのも、俺の最後の記憶とは著しく離れた場所だったし。
つまり誰かが気絶している俺を見つけ、首の傷を治療して、人目につく場所にわざわざ置いた、というわけなのだが。
この件に関しては、疑問点が残る。
とはいえ、もはや過ぎ去った過去の出来事だ。
あの事件で、多くの人間の命が失われた。俺自身、人が殺されるところはあまり見ていないが、それでも死傷者は出た。
ソージックの生徒も、大多数、とまではいかなかったものの、それでも決して軽視できない数が……。
俺たちのクラスでは一人だけだが、他ではクラス全員の行方がわからないという状態もあるらしかった。
今回の事件で、定期戦は事実上、廃止となった。
毎年毎年、欠かさずに執り行われてきた行事が、来年以降からはもう行われないのだ。
それでも、もう、過去の出来事なのだ。
既に確定した事実を改変することは、とても困難な業であり、大きなリスクを伴う冒涜である。
……変な方向に考えを深めすぎた。
現実に意識を引き戻す。
セイラはベッド脇の椅子に腰かけ、早くもリンゴの皮を剥き始めている。銀に輝く果物ナイフの動きが、やけに俺の視線を引く。
「あと二、三日で退院できるって、担当医の人が言ってたわ」
「そう」
身体はもう本調子だというのに、ままならないものだな。
「血まみれの君を見つけた時は、さすがに肝を冷やしたわね」
「ご迷惑をおかけしたようで」
「いえいえ」
首の傷は治っていたらしいが、大量に溢れ出た血は戻っていなかった。シドー国の病院に搬送された時は、それはもう輸血輸血で大変だったとの話だ。
当の俺はその時意識不明だったから、当然のように覚えていないが。
まあ、あれだな。
生きててよかったってやつだ。
死んでも別によかったが、と一瞬でも考えてしまわないこともないが……。
「退院しても、安全委員から事情聴取があるわね」
「最近、あそこの人たちと関わることが多い気がするよ」
「あら、将来はあそこに就職するつもりでもあるの?」
「冗談。誰が殉職率トップの組織活動に参加したがるってのさ」
「それもそうね。君なら、よっぽどの状況でも死ななそうだけど」
軽口を叩き合いながら、ふと視線を窓の外へ移す。
雲一つとしてない、午後の快晴が広がっていた。
◆
空を覆わんばかりに大きく開いていた黒い穴は、時間の経過と共に小さくなっていった。
現在、セイラの姿は試合場のすぐ近くにあった。
上空の黒い穴は、発生時に比べれば目測で十分の一以下の大きさになっている。依然として万物を穴の中へ引きづりこもうとする黒い腕は出てくるが、今は一本か二本ほどしか出てきていない。
黒く長い腕は、試合場へと伸び下り、瓦礫を掴んで穴の中へと引き込んでいく。
時折、人型の塊を掴んでいくが、セイラの意識が揺れることはない。
「………………」
無言で、セイラは正面を睨む。
視線の先にあるのは、試合場への入り口の一つである。
彼女が今ここにいるのは、未だ行方の知れないリュウトを探すためであった。
なお、リンたちにさえ黙っての単独行動である。もし教員たちに知られでもしたら、大目玉を喰らうことは間違いないだろう。
そう考えると、セイラは何故、自分があの少年にこうまで関わりたがるのか、と自分で自分の行動に疑問を抱いてしまう。
リュウトと知り合ったのは、まだ半年ほど前の出来事なのだ。
リュウトと知り合う以前――レープ校に通っていた時期に、ここまで距離が縮まった同世代がいただろうか。
転校前と今を比較すれば、まわりの環境は、激変したと言っていい。
どうして、その変化を許容できたのか。
どうして、その変化を拒絶しなかったのか。
――単純に考えればそれは、今の状況がセイラにとった好ましかったからだ。
セイラにだって、当然、人としての欲望はある。居心地のよい方を好むのは、彼女にとっても普通の考えだ。
だが、ならば何が違うというのか。
何を基準にして、自分は今を良しとしているのか――?
疑問はある。
解答にさらに疑問と思考を重ねて、根本的な理由は、何もわかっていない。
出口が一向に見つからない迷宮に、一人で挑んでいるような、悶々とした感情。
脱線ばかりで、結局答えは見つからないまま終わってしまいそうな気もするが……。
だが、今はそれよりも優先すべきことがある。
既にセイラの中で、リュウトの捜索は実行することであり、リュウトの発見は最優先達成目標であった。
……まあ、今ここでリュウトが行方不明、最悪死亡なんて事態になったら、彼の家に居候している身としていささか居心地が良くない、という打算的な事情も少しはあったりなかったりするのだが。
「――――」
苦笑いしかけた自分を戒め、セイラは意識を引き締めて視線のみで空を見る。
徐々に小さくなっていく、黒い穴。そしてそこから伸びてくる、黒い腕。
小さくなったとはいえ、油断はできない。
規模が小さくなっただけで、アレが内包している破壊の致命さは微塵も緩まらない。
黒い腕に捕まったが最後、地獄への門のようにぽっかりと開いているあの穴の中へ引きずり込まれてしまう。
あの奥がドコに繋がっているのかは、セイラでさえ知らない。
どんな堅固な守りも、強力な破壊も、アレの前では関係ない。
この世界ではないドコかへと、見境なくすべてを呑み込む。
まさに、地獄へ通ずる穴のようであった。
「…………はあ」
溜め息が漏れる。
まさか、この世界でも、アレを見ることになろうとは……。
「……まったく、誰が開けやがったんだよ」
一人、つぶやく。
引きつるような笑みは、今すぐにここから逃げ出したい衝動を抑え込んでいるからだ。
あの腕に捕まったら終わりだ。
自分のこれからの人生を、まだ知り合って間もない少年のために博打に賭ける感覚は、控えめに言ってもぞっとしない。
しかし、ここまで引き返してきたからには……。
「ま、最悪死体だけでも確認してやらないとな……」
投げやりにそう言って、セイラは入り口の扉を開けようとした。
両開きの扉は今はひしゃげており、殺戮の果てに殺された犠牲者たちの血でべっとりと汚れている。
いささか力を入れなければ、歪んだ扉は開かないだろう。
いっそ、魔法で蜂の巣にすれば簡単に取り去れるだろうか――などと考えて、セイラは一瞬でその場から跳び退った。
「――誰だ!」
前方、ひしゃげて歪んだ扉の奥から、こちらに近づいてくる小さな気配、足音。それを感じ取ったセイラは、すぐさまに臨戦体勢へと移行していた。
何者かとの距離は、扉を隔てて十メートルとない。
果たして、セイラの誰何に答える言葉は返ってこなかった。
代わりに、扉が勢いよく開け放たれる。ベコッ、と扉はさらに歪にくぼみ、片側は勢いよく外れ飛んでしまう。
友好的とは言えないその対応に、セイラは低く身構える。
だが、
「おおっと、敵じゃない敵じゃない。僕は君の敵ではないよ」
緊張感に欠ける、男の声があった。
眉を寄せながらも、セイラは油断なく男の姿を凝視する。
白髪交じりの黒い髪に、赤い瞳。顔の造りは童顔で、もしかすれば年齢は、まだ二十に届くか届かないか程度なのではないだろうか。
黒い外套を着た、全身黒づくめ。どことなく、誰かに似ているような……。
いや、今一番に重要なのは――、
「――リュウト!?」
男が背負っていた、黒髪の少年だ。
着ている運動着は血に染まり、顔色は蒼白を通り越して土気色だ。
眠っているような表情は、死相が浮かんでいる。
「知り合いか。なら、話は早い。後は頼むよ」
そう言うと、男はセイラへリュウトを託した。
肩を貸すようにしてリュウトを支えながらも、セイラは男を油断なく睥睨する。
もしかすれば、この男こそがリュウトを……。
「いや、僕は何もしてない。強いて言うなら、治療したくらいかな」
「……治療?」
ちらりとリュウトの様子を伺うが、今にも死にそうなこの少年は、とても治療を施されたとは思えない。
顔をしかめて男を睨むと、男は両手を上げて降参のジェスチャーをする。
その、行動とは裏腹の余裕しゃくしゃくな表情は、からかわれているようでセイラはなんとも気分がよろしくない。
「……で、あんた誰?」
セイラの声音は、なお一層冷酷な響きを帯びている。
対して、男の余裕の態度も崩れない。
「ふむ、そういえば、自己紹介はしていなかったな」
男は「おほん」と咳払いを一つして、きちりと姿勢を正す。
「態度を改めまして、リウジ・サカイという者です」
頭を軽く下げて挨拶する男――リウジ。
その名前の響きに、ふと、セイラは顔をしかめた。
「……リュウジ?」
「いいえ。発音は少し似てるかもしれませんが、僕の名はリウジです」
微笑を浮かべて、リウジはセイラのつぶやきに訂正を入れる。その口調は丁寧で、先程のものとは少し、違うようにも感じる。
だが、セイラは眉をひそめたままだ。
「紛らわしい名前だ」
「……かもしれませんが、僕個人としては割と気に入っている名前なんですよね」
にべもなく切り捨てるようなセイラの言葉に、リウジの言葉は苦笑するような響きを孕んだものだった。
どことなく、すべてを見透かされているような……リウジの声の調子を聞いていると、セイラはそんな気分になる。
このリウジという男、なんとも気味が悪い。
表情を曇らせるセイラに、リウジは苦笑いを漏らす。
――と、その時だった。
リウジの背後から、黒い人影が躍り出た。
黒い、痩せぎすの痩躯。
ここを襲撃してきた怪物、ゴブリンである。ゴブリンはその一瞬で、手刀をリウジへ突き出していた。
それはまさに、目にも留まらぬ速さだった。
常人ならば、対処することもできずに即殺されるだろう。
セイラ自身、その動きを捉えることはできても、身体がついていかなかっただろう。
だが、リウジは――、
「残党か。まだいたとは……」
ゴブリンの先制攻撃は、リウジに届くことはなかった。
ゴブリンの手がリウジの顔を抉るより先に、リウジが背面から出した羽骨が、ゴブリンの胴体を刺し貫いていたからだ。
『 』
セイラの目の前で、ゴブリンの身体が霧散していく。
リウジはさりとて慌てた様子もなく、
「……時間です。これ以上はこの世に留まれない。彼の傷を治すのに、随分と魔力を使ってしまいましたからね」
まるで何事もなかったように、セイラにそう言ったのだ。
「この世? あんた、幽霊か何かだって言うのか?」
「うーん……まあ、そんなところでしょうね。本体の記憶がベースになった霊みたいなものですし」
首を捻りながら、リウジはそんなことをつぶやく。
リウジの言葉をすべて理解できたわけではなかったが、セイラは続けて問いを投げたりはしなかった。
セイラの淡白な反応に、リウジは苦笑して空を見上げた。
空に開いていた“穴”は、まだそこにある。だが、自然消滅するのはもう時間の問題だろう。
「……カワサキ先生以外で“門”を開ける奴がいるとは、この世界も末だな」
静かにつぶやいた声音には、いったいどのような感情が込められていたのか。
リウジはふっと表情を崩し、口許に人差し指を立ててセイラに言った。
「僕のことは、どうか誰にも言わないでください」
「……何故?」
「単純な話ですよ。僕はもうじき消える。僕の存在を証明することはできない。僕の存在を主張するのは、あまり賢明とは言えないでしょう」
セイラの問いに、リウジは余裕の表情で応える。
だが、よくよく見ればその身体は徐々に薄れていっており、さながらまさに、幽霊に見えないこともなかった。
「ああそれと、いい加減、口調を直した方がいいと思います」
「……ああ?」
「冗談ですよ。怖や怖や」
不機嫌そうなセイラの唸り声ににっこり笑い、その瞬間、リウジの姿は完全に霧散する。
後に残るのはセイラと瀕死状態のリュウトだけだ。
最後まで、セイラは男が何者かわからなかった。だが――、
「あのイカれた本の作者か」
最後に、そんなどうでもいいことを思い出したのだった。
第三章/了
予定より二話ほど長くなってしまいましたが、今回の章はこれで終了です。




