17,最悪の爪痕
◇
「…………は?」
ハヤテが頓狂な声を上げるのを、サムは呆然と聞いていた。
いったい、何が起こったのか……?
試合を観戦していたら、いつの間にやら試合場はパニックに陥り……そこからは、サムの記憶も漠然としている。
数秒の間を置いて、サムは自分たちが、試合場の外にいることに気がついた。まわりには何人か、人がいる。彼らもまた、サムたちと同様、この突然の事態に戸惑っているようだった。
その時、悲鳴の嵐を伴い、試合場の方から人々の波が押し寄せてきた。
彼らは彼らで、試合場で起こったパニックを引きずりながらここまで逃げてきたのだろう。
……そこまでぼんやりと考えて、ふと、サムは思った。
自分たちはいったい、どうやってここまで来たのだ?
「……これ、何だよ?」
呆けた声音で、ハヤテがそんな疑問をつぶやく。
だが、それはサムとて同じ思いだ。
試合場から押し寄せてきた人の波は、すぐさまサムたちを呑み込んだ。
流れに任せながらも、サムとハヤテは現状を把握しようと試みる。
「ハヤテ、観客席でのこと、何か覚えてるか?」
「覚えてるかって、おまえは何も覚えてないのかよ?」
「ああ。試合のことは覚えてるけど、なんか、よくわかんないうちに会場がパニックになって、それで……」
そこから先の記憶は、薄闇がかかったようにあやふやになっていた。
ただ、そうなる前に、観客席に混乱と恐怖が爆発したことは、鮮明に覚えていた。
黒い、怪物ども。奴らが突如、観客席に入ってきて、そして――一般客たちを片っ端から殺し出したのだ。
「おまえ、その途中でおかしくなった時のこと、覚えてないのかよ?」
「はあ? おかしく?」
「そうだよ。変な呪文ブツブツ唱えだして、不気味ったらなかったぜ。それで、あの変な男が急に現れて、そっからは俺も覚えてないな」
変な男……。
そういえば、黒い外套を羽織った男の後姿を見た――ような気がする。
だが、それ以上思い出そうとしても、記憶の蓋は開かない。
「てかこれ、どうなってんだよ?」
周囲のパニックに呑まれてはいないが、サムたちは結局、何がどうなっているのかさっぱり把握できなかった。
◇
すぐさま、リウジは上を見た。
予想があったわけではない。
だが、上方から押し潰すかのような不気味な圧力を感じた、ただそれだけだった。
そしてその予感は、杞憂ではなかった。
黒だ。
はるか上空に、泥沼のようにねっとりとした暗闇が――大きな黒い穴が開いていた。
(…………カワサキ先生と一緒にするなって?)
リウジの表情が、苦虫を噛み潰したようになる。
視線をベルスへ戻し、忌々しそうに舌打ちを漏らす。
(一緒だよ、お前は。先生と何も変わらない)
黒衣の少女は、狂的な赤い視線でリウジを睨んでいる。
彼女の赤色を睨み返しながら、ベルスは両目を細めた。
(まさか……“門”を開くとは。やっぱり、先生と何もかも同じじゃないか)
空を覆いつくさんばかりに大きくなり続けている“穴”をちらりと見上げ、リウジは強張った笑みを浮かべる。
あの穴の奥には、この世でもあの世でもない世界がただ広がっている――と言われる。
あの中に引きずり込まれたならば、二度とこっちに戻ってくることはできない。
魔法ではない。
あのようなおぞましい“門”は魔法で出現させることはできない。
リウジは、アレが何なのか知っている――いや、正確にはアレの本質を理解できているわけではない。リウジにとってあの“穴”は未知ではなく既知である――それだけのことだ。
かつて、もっとも尊敬した人物が、今のベルスと同じことをやってのけることができた。彼女(彼?)がやったことは、錬気を扱う技法の中でも禁術に相当するものだ……。
上空の黒い穴から、何かがじわじわとにじり出てくる。
見なくてもわかる。
それは、無数の真っ黒な腕だ。
ガリガリに細い腕。
ブクブクと膨らんだ腕。
途中で枝分かれした腕。
指が六本以上ある奇形の腕。
おおよそ人のものとは思えない腕が、獲物を求めて下界に出現する。
アレに、視界などという感覚はない。もとよりあれは、この世界の生物には当てはまらない。
“門”を開けたベルス本人が制御しなければ、アレは際限なく獲物を貪り、ベルスの虚無を満たすためだけにあっちに引きずり込もうとするのだ……。
獲物がどれだけ強大だろうと、膨大だろうと、別次元(未だ推測の域だが)の空間に引きずり込まれれば関係がない。
あれは正真正銘、最狂の錬気の闇である。
ベルスの口が、ニィ、と狂気の笑みを刻む。
突如、“穴”が、爆発した。
墨が入った風船の底に穴を開けたように、黒い腕が波のように降ってくる。
(あの野郎――!)
内心で舌打ちして、リウジは上空を仰ぎ見る。
黒い腕の塊は、もうすぐそこまで落ちてきていた。
避けている暇はない。どころか、よそ見している余裕さえなかった。魔法も、おそらくは効くまい。
リウジに、あのおぞましい黒を止める手立てはないのだ。
「――――っち」
ついに、リウジは舌打ちした。
(仕方ないな……)
直後、リウジのいた場所を、黒腕の塊が押し潰した。
◇
「……逃げたか」
どこまでも淡々とした口調で、ベルスはそう吐き捨てた。
最後、間違いなく、“門”から吐き出された黒い腕は、男――リウジを呑み込んだ。
だがベルスは、あの男を葬ったなどとは思わない。
トレントが、怪訝そうな表情で口を開く。
「どこへ……追わないのですか?」
「さあな。だが、もう追うこともない」
そう切り捨てるベルスの身体が、黒い靄めいた煙に包まれていく。
黒衣の少女の姿が、靄の中に覆い尽される。
黒い靄が出たのは、ほんの数秒の間。
靄が晴れた時、そこには黒い外套に身を包んだ黒髪黒瞳の少年の姿があった。
「引き上げるぞ。後は“門”に任せておけばいい」
ベルスのその言葉に、その場にいた者たちは踵を返してベルスに続いていく。
「あら? あらあら? あらららら? 皆さまいったい、どうなさったのかしら?」
詠うような声が、その場にいた者の注意を引いた。
「……リオナ」
「ええ、ええ。どうなさいましたの、ベルス? 皆さん?」
まるで邪気のない声で、リオナは疑問の声を上げる。
彼女の後ろから、“死神”が現れる。
「……いや、なんでもない。引き上げるぞ」
「あらら? あらあらあら? 私、まだそんなに殺してませんことよ」
「ああ。すまないが、今回はここまでだ。後は、“アレ”に任せておけばいい」
上空に開いた黒い穴を見上げ、ベルスは吐き捨てた。
それ以上はもう言うことはない、とばかりにベルスはまた歩を進めた。
――つ、と。
ふいにその視線が、試合場への出入り口の一つに向いた。
そこに……リウジの姿が、あった。
「――――」
大柄な男を背負い、すぐそばにはへたりこんだ若い男の姿もある。
どうやって逃げおおせたのか。仕留めたと思っていたわけではないが、こうして現実を見るとやはり、疑問は出てくる。
ベルスの視線の先で、リウジはこちらを見ていた。
彼我の距離は、目測でも百メートル以上。
それだけの距離を挟んで、二人の視線が絡み合う。
……先に笑んだのは、はたしてどちらからだったのか。
二人の口には、穏やかとは程遠い、底冷えするほどの冷笑が浮かんでいた。
リウジの視線が、ベルスから逸れる。
膝をついている男を羽骨で捕まえると、そぐに出入り口の奥へと姿を消してしまう。
ベルスも、追う気はさらさらなかった。
ここまで彼(彼女?)の計画を引き回した存在であったが、別段、彼に対する恨みつらみはないのだ。
「……引き上げるぞ。魔獣と獣人はここに置いていけ」
彼のその言葉に、その場にいた者たちはその場を立ち去り始める。
「ところで、結局あの方はどなただったのでしょうか?」
アレックスが、ふと思い出したように疑問を出した。
あの男は名乗りこそすれ、最後までその正体が謎だった。
アレックスの問いに、ベルスは、
「――さあな」
とだけ答えるのだった。
◇
試合場についた途端、リックとクラザの視界は黒に染め上げられた。
「――――え」
圧倒的な、闇だった。
吸い込まれそうなほどの引力を感じる。
一目で、それが良くないモノであると確信した。
だが、その時にはもう、黒い腕の一つが二人の方へ迫っていた。
「――やばっ」
黒く、ドロドロとした黒腕に、リックは本能的な恐怖を感じる。しかし、もう遅い。
黒い腕は、リックの顔いっぱいに掌を広げ、リックを上空の穴へ引き上げんと掴みかかっていた。しかし――、
「――――っ!」
そこで、クラザが動いた。
満身創痍の状態で、彼は、リックを突き飛ばした。
「――――っあ?」
突き飛ばされたリックは、尻もちをつき、結果として黒い腕の脅威から逃れた。
だが同時に、その瞬間は見逃した。
一つ、たしかに言えるのは、リックの視界の中には、クラザの姿はどこにもいなかったということだけである。
「…………へ? あ? クラ、ザ……さん?」
呆然と、リックは目の前の黒を見つめる。
クラザはどこへ?
突き飛ばされた瞬間はたしかにいた。
だが、今はどこにもあの大男の姿が見えない。
一人だけ逃げた――いや、そんなはずはない。
全身が悲鳴を上げるほどの重傷だったのだ。
あれでは一人で歩き回ることなど不可能だし、走るなどもってのほかだ。
第一に、クラザはそのような卑怯な真似をするような小心者ではない。
では、どこに――?
リックの思考がパニック寸前になる、その時だった。
「ふむ、危ないところだったな」
そんな、緊張感の欠片もない声が、リックの耳に届いた。
顔を上げると、そこには大男を抱えた男の姿があった。黒髪で赤い瞳、童顔で、もしかすると年はリックよりも下なのではないだろうか……?
「誰……?」
「ん?」
リックの声に、男はリックの存在に初めて気がついたようにリックを見た。
「ああ。すまない、気がつかなかった。さすがに僕でも、隅々まで気を張らせておくのは難しい。先生ならばできるのだろうが……」
男が発する言葉は、途中からリックの耳には聞こえなくなっていた。
リックの視線の先には、男が抱えている大男の頭頂部――限りなく短く刈り込んだ、リックにとっても見慣れた頭があったのだ。
「ルークさん!」
男が抱えていたのは、気絶したルークであった。
深刻な状態にあるのか、リックが大声を出しても、ルークはピクリとも反応しない。
「……彼はそっとしておいてやってくれ。今無理に起こしたとしても、錯乱するだけだろう」
淡々と、男はそうつぶやく。
その声音には、ルークに対する無関心ぶりがありありと見て取れた。
リックは警戒心を瞳に宿し、男を睥睨する。もしかすると、この男がルークを……。
「いや、僕は何もしていない。どちらかと言えば、助けた方なんだぜ。まあ、成り行きってもんだな」
リックの思考を読んだかのように、男は吐き捨てるようにそう言った。
その、自分の考えすべてを透かしたかのような男の言動に、リックは絶句するより他になかった。
男はそんなリックに構わず、試合場の方を睨む。
リックからは見えない位置だったが、男が見ていたのは試合場に立っている集団、そしてそこへ新たに加わる二人の男女であった。
白いローブに身を包み、布で包まれた何かを大事そうに抱えている女。
黒い外套に身を包んだ、無表情の青年。
「……ヘルヘイムには、使徒の王までいるのか。それに、第三世代のクローンカワサキまで……あの二人がもっと早く来てたら、詰みだったな」
ぶつぶつと男がつぶやく言葉は、しかしリックには理解できない内容だった。
男の視線に、集団の中の一人がこちらを向く。
先ほどの男女のうちの青年と出で立ちは似ているが、顔立ちは微妙に違う少年だった。
その瞬間、男と少年の口が、凍えるような冷笑を浮かべる。
百メートル以上の距離を挟み、両者の間には会話すらもなく、凍結したような時間だけが過ぎていく。
――――やがて、
その瞬間は訪れた。
突如、男の背中から出現する、赤黒い肉の触手。
ミミズめいた触手が一瞬のうちにリックの身体に巻きつき、次の瞬間にはリックの身体は宙に持ち上げられていた。
「――――――――ぁ」
声を上げる暇さえない。
一瞬で、男はその場から駆けだしたのだった。
◇
廊下を疾駆していたリウジは、ふいに視界に飛び込んだソレに足を止めた。
……人が一人、倒れていた。
運動着らしい動きやすそうな服装であったが、その服は、どす黒い血で塗れている。
うつ伏せに倒れ込んでいるため顔はわからないが、体格や髪の毛の短さから判断する限りは男だろう。
(……死体? いや、まだかすかに生きている……?)
服についている血の量とまったく動かない様子から、リウジは死体かと考えるが、直後にその考えを否定する。
倒れ込んでいる人物は動きこそしないが、かすかに生気を感じ取れたのだ。
よくよく観察すれば、その人物の首筋には凄絶な傷口があった。おそらく動脈にさえ届いているであろうほど、深い傷。
一目で、その人物の服にべっとりついている血がどこから出たものなのかがわかった。
――何故、生きている?
疑問に、リウジは身構えてしまった。
恐る恐る、伸ばした羽骨で、充分に距離を取りながら倒れている人物を仰向けに返す。
「――――」
仰向けにしたことで露わになる、倒れていた人物の顔。それは、十代半ばほどの少年のものだった。
死人のように蒼白になった顔色。
リウジが外見だけで判断していれば、間違いなくこの少年は死んでいると思っていたことだろう。
首の左側を横に走っている、大きな傷。
鋭利な刃物で、ざっくり切り裂かれたようにぱっくり開いているのに、血はほとんど出ていない。
だが、古傷という感じにも見えない。
(……傷が、塞がりかけているのか?)
重傷を負うも、なんとか魔法で治癒させた、というところだろうか――?
だがだとしても、このまま放置していればいずれは死んでしまうだろう。傷も完全には塞がっていないし、血が足りなすぎる。
(ん?)
その時、リウジはあることに気づいた。
今まさに、死へと歩み寄っていく少年。リウジはこの少年に会ったことはないはずだったが、どうにも既視感を拭えなかったのだ。
そして、
「――――――っ!?」
リウジの全身が、雷に打たれたかのように棒立ち状態になる。どさり、と音を立てて、ルークの身体が床に落ちる。続けて、リックも床に尻もちをついた。
「数奇な巡り合わせですね……先生」
リウジはルークたちには目もくれず、死人のような少年を見て、嗤った。
(まさしく、ウロボロスの輪が繋がったって感じだな)
◇
パニックに陥った人々の、意味のない叫び声。
そして、逃げる彼らを狩る異形の怪物ども。
試合場を出ても、件の騒動は変わらずに繰り広げられていた。
長身痩躯と単身痩躯の黒い人型。犬やら猫やらの顔つきの毛深い人型。
それらは世界が戦争のただ中にあった時、各国がこぞって研究し開発した兵器だ。
忘れられた過去の技術が現代に蘇り、殺戮の限りを尽くしている。
殺戮の対象は一般人、学生……見境がない。
それこそが、兵器である彼らに与えられた“区別”の結果だった。
殺対象か否か――対象外の人間には無害であるが、対象である人間に対しては無類の暴虐を働く。
「…………」
誰もが言葉を失っていた。
自分たちに振りかかった災厄を、ただ茫然と見送るしかない。
それは、セイラたちとて同じだった。
一早く避難していたセイラたちは、ゴブリンや獣人の殺戮に会うこともなく、現在は比較的安全を確保できている場所にいた。そこは、試合場から五百メートル以上の距離をおいた場所であった。
試合場の方からは未だ人々が逃げてくる。当然、ゴブリンや獣人も徐々にこちらに迫ってきている。
「……急ごう」
言って、セイラは踵を返す。
ここにただ呆然といれば、いずれはまた魔獣や獣人の被害を受ける。
魔獣やら獣人の持つ破壊の脅威は、もう疑う余地もない。
ふと、セイラは昨日のことを思い出した。
――“獣人”という言葉に、まるでアレルギーか何かのように過剰反応した獣族の少年(名前は知らない)。
『――二度とその名を口にするな……』
なんとなく、彼の言っていた意味がわかったような気がする。
一瞬だけでもセイラが見た獣人は、おぞましい姿だった。たしかに、アレと同系列に見られたのでは、彼らのプライドは痛く傷つけられたことだろう。
まあ、だからと言って常に顔を合わせるわけでもない人間に対して罪悪感を感じるセイラではないが。
もとより、セイラの意識は別のことに向いていた。
ふと振り向いて、セイラは遠くの空を仰ぎ見る。
空を呑み込むほどに大きく空いた、黒い“穴”。
そして、そこから垂れ出る、まるで墨汁のような黒い何か。
「まずいな」
セイラの表情には、焦燥が浮かんでいた。
彼女のそのつぶやきに、リンやリーンもセイラと同じ方向を見上げ、表情を苦いものへと変える。
彼女らと合流していたテラも、同様に空に開いた穴を見る。
「ありゃいったい何だってんだよ……」
黒い穴。そうとしか言い表せない現象に、テラは言い知れぬ警戒を滲ませた声音で吐き捨てるように言った。
まさに、その瞬間であった。
穴から出てくる黒い何かが、一気に膨れ上がり、爆発したような勢いで試合場へと降り注いだ。
「……あれに捕まったら二度とこっちに戻ってこれない」
静かに、セイラは告げた。仮にアレに捕らえられた場合の末路を。自分たちに迫ってきている可能性を。
「…………立ち止まっては駄目」
言って、セイラは小走りに去る。
リンたちも、黙ってその後に続いた。
◇
そこにあるのは、恐怖とパニックの渦だった。
人々は逃げ惑い、逃げ遅れた者は一瞬のうちにゴブリンや獣人に蹂躙されていく。
そして、そんな危険な怪物たちでさえ見境なく襲っては呑み込んでいく、黒き穴から出てくる黒腕。
誰もが、自分たちの目の前に突きつけられた惨劇に恐怖し、絶望していた。
そして、混沌の惨状を作り上げた当の本人は、満たされない胸の内に虚無を抱えるのだった。




