14,再来する災厄たち(4)
少女は、背後に一瞬で現れたリュウトの存在に気づいていた。
音速で少女に肉薄したリュウトは、その速度を緩めることもなく、音速のまま少女の背中に貫手を放とうとしていた。
右の手刀が、少女の背に届き――、
青い閃光が瞬き、リュウトの姿が跡形もなく霧散した。
「――――!?」
驚いたのは、むしろ少女の方だった。
ぎょっとして背後を振り返る。
そこにいたはずの少年の姿を探して、改めてその現実を認識する。
間違いなく、少女を攻撃しようとしてきたリュウト。
少女の想定では、リュウトの貫手は少女の背を貫くには至らず、おそらくは弾き返すはずだったのだが。
「……ああ、なるほど」
しかし、少女の思考は非常に落ち着いていた。
すぐさまに、リュウト消失の真相を推測し、真実を悟る。
(――最初から、逃げの一手だったわけね)
溜め息を一つ吐き出す少女の表情には、諦念の思いが見て取れる。
何のことはなかった。
詰まる話、少年がやったのは攻撃ではなく、ただの囮だったわけだ。
いったいいつの間に、錬気の鎧の中から抜け出ていたのか。
先ほどまで、少女がリュウトと思っていたのは、彼が纏っていた錬気の鎧だ。
リュウトの形をした、殻の鎧。もとより彼の超速が錬気の操術速度に依存している以上、中身が消えたとしても音速を維持することはできるわけだ。
――――――――――――――いや。
ふと、そこで違和感を感じた。
中身がなくなったのであれば、実質肉体にかかる負担はなくなる。
そうなれば、もっと長時間、少女をこの場に留めておくことができたはずである。
では、いったい何故にリュウトの殻は、攻撃に転じたりなどしたのか……?
(あの少年は、まだ近くにいる……?)
素早く周囲に目を向けてみるが、リュウトの姿はどこにも見当たらない。
仮にも少女との逃走劇を繰り広げた少年だ。ここで見つかるほど、抜けてもいるまい。
このままどこにいるかも知れぬ少年を探すか、本来の計画に戻るか。
少女の中で、一瞬の葛藤があった。
しかし。
――考えてみても仕方がない。
そもそもどうして、少年は仕掛けてくるものと決めつけていたのか。
少女と対峙してから、リュウトは常に少女から逃げていた。
ならば、先のやりとりもまた、逃げ出すための布石ととれたはずである。
……仕方がない。
過ぎたことはもう気にすることはせず、少女は本来の計画へ戻ることにした。
踵を返したところで――、
「…………おや?」
目の前に、長身の男が立ちはだかった。
男の手には、柄の両端に極太の槍身が取り付けられた獲物が握られている。
少女は一泊の間を置いて、男に向き直る。
「……ああ、君は」
その顔を見ても、少女には男が誰なのかがわからなかった。
興味がなかった、というわけでもない。
見覚えがあった。どこかで一度だけ、見たことがあるような……。
そんな既視感があった。
そして、少女の記憶のピースはかちりと嵌まった。
目の前の、二メートルに届くかというほどの長身の男とは、三年前に一度会っている。
「ふむ」
緊張の抜けた声音で、少女は鼻を鳴らす。
リュウトと違って、この男――ルークには、欠片も興味を抱けなかった。
戦闘力の面で言えば、ルークはリュウトよりも強いだろう。それは少女にもすぐさまわかる力量差だ。
逸脱してはいるもののまだ学生に過ぎない少年と、長年にわたり数々の死線を潜り抜けてきた戦士とでは、滲み出る地力に差がありすぎるのだ。
けれど、少女がリュウトに着目したのはそこではないのだ。
単純な戦闘力では、少女の関心を惹くことはできない。
故に、たとえ目の前でルークが臨戦態勢に入ろうとも、少女には鬱陶しいという感情くらいしか芽生えなかった。
リュウトのように興味惹かれる者ではない。
その気になれば、一瞬で片をつけられるほどの実力差もある。
だが、少女はその役目を別の者に託すことにした。
少女が懐から、黒い塊を複数取り出す。
拳大ほどの大きさの、どこか機械的な印象のある塊である。
そして――それらはつい先刻、リュウトが訓練室で倒した化物が残した黒塊と同じ系統のものだった。
◇
ルームの目の前の少女――ヨミが、黒い塊を放った。
その一つ一つに甚大な魔力が込められているのを感じ、ルークはそれらが爆弾の類と考えた。しかし直後に自身の推測を打ち消す。
それが何なのか、ルークは知っていたからだ。
カチリ、という小さな音が聞こえる。
次の瞬間、黒い塊すべてからどす黒い魔力が溢れ出し、それがそれぞれの塊を起点にして人型を形成する。
長身痩躯、単身痩躯。大別して二種類の体格をした異形の化物たちが、合計で十体出現した。
(――ゴブリン!?)
その昔、戦争がまだ頻発していた時代だ。
各国はこぞって魔獣という生物兵器の開発研究を進めていた。ゴブリンとは、そんな魔獣の中でも人型に設計された魔獣である。
痩せぎすの体格とは反比例して頑強で強靭な筋肉と骨子は、さらに強力な対魔法性の皮膚に覆われている。まさに、人を狩るためだけに造られた殺戮マシーンだ。
ちなみに、ゴブリンを含むすべての魔獣に関する情報は、現在非公開情報として扱われている。
十体のゴブリンは、すぐさまにヨミへ向き直り、指示を仰ぐように姿勢を低くしてヨミを見つめた。
ルークは冷静に、起動したゴブリンたちの戦力の把握に努めることにした。
十体のゴブリンの内、三体が二メートルを超えるほどのドーラ級、それ以外はすべて子供ほどの背丈しかない小柄なバンス級だ。
(トロル級はさすがにいないな……)
ゴブリンは、その体格によってさらに三種類に分けられる。
小柄なバンス級。
長身のドーラ級。
そしてドーラ級すらも遥かに超える巨人トロル級だ。
基本的には身長が大きい級ほど発揮する能力も高くなる傾向にあるが、その分起動するのにかかる魔力も大きくなってしまう。
だが起動さえさせてしてしまえば、核に貯蔵してある魔力が尽きるまで破壊と殺戮を執行する。
少女の細い手が、つ、と持ち上げられる。
ゆっくりと、ルークを指さす。
少女の指の先を追ったゴブリンたちが、一斉に攻撃対象を視界に収めた瞬間だった。
「――やれ」
たった一言、攻撃を指示する言葉が、ヨミの口から紡がれる。
『 ――――――――――――――――――!! 』
鼓膜を破らんばかりの大音量が、試合場にいる全員の耳を襲う。
びりびりと大気が振動し、ただの咆哮だけで吹き飛ばされてしまいそうだ。
「くっ」
ゴブリンたちが、猛然とルークへと突進する。
一匹一匹が尋常ならざる戦闘力を誇り、特にドーラ級のゴブリンは一騎当千の怪物だ。
都合十体による命の蹂躙が、ルークの前に迫っていた。
だが、それで諦めてしまうルークではない。
魔獣とは、機械技術と魔法技術によって誕生した人造生物ではあるが、その定義はあくまでも生物なのだ。
いかにゴブリンであろうとも、例えば生命活動に支障をきたすほどの損傷を受ければ、核に残っている魔力量にかかわらずその活動を停止させてしまう。
ルークの渾身の一撃は、いち早くルークへ肉薄してきたバンス級一体の首を跳ね飛ばした。
頭部を失った小柄な化物が、魔力の残滓となって散っていく。
それに一瞥もくれることなく、ルークは次なる行動に移っていた。
目の前の少女に向かって、地を蹴る。
彼我の実力差は歴然としている。だが、それが尻込みする理由にはならない。
身体強化をしているとは言え、それでも彼女が従えるゴブリンには及ばないだろう。
だが、それでもルークが長ずる要素はある。
例えば、経験。
生物として造られながら、ゴブリンには生物としてなくてはならない機能がオミットされている。戦闘兵器としての側面を持つ魔獣には、感情という機能がない。
故に、過去にあった戦闘から経験を蓄積させていくこともできない。
よってゴブリン含める魔獣の戦闘力は、例外を除けば変動しない。
……もっとも、魔獣の戦闘力はそもそもが規格外な領域なのだが。
目の前に立ち塞がってくるゴブリンはすべて無視し、ルークの目標はヨミただ一人である。
少女のその細い首筋めがけて、極太の槍身を薙ぎ払う。
その一撃を、ヨミは身を反らして難なく躱す。
「――――っ」
大振りに振ってしまったルークの胴が、無防備に晒される。
黒衣の少女が、緩慢な動作でルークへと手を伸ばした。
いくらルークと実力差があると言っても、ゆったりした動き。
(――舐めるな!)
目の前に突き出される細く白い手を、ルークは首を逸らして避け、反撃を喰らわせようとして、
そこで、少女の手が手刀の形になっていることに気づいた。
少女の手刀を起点に、黒いオーラが刃めいた形状を形成する。
あ――っと思い暇もなく、少女の手刀はルークの首を一閃した。
◇
黒い気刃が、ルークの首を切り裂く。
茶色の坊主のような頭は跳ね飛ばされ、鮮血がスプリンクラーのように噴き出していく。
会場中にいた人々が悲鳴を上げ、首なしの死体と化した大男は糸が切れた操り人形のように仰向けに倒れていく。
そんな未来を少女は予想し、そして直後に違和感を覚えた。
ルークを殺した時の感触が、ない。
間違いなく首を切り飛ばしたはずの巨躯は、未だ五体満足のままであった。
数歩よろめき、後ずさるルーク。
その反応を見るに、彼も自分の死を予感したに違いない。
少女の脳内で思考の渦がうねり、生じた疑問への解を導きだす。
「……安全フィールドの効果か」
少女たちがいるのは、定期戦の試合場のただ中だ。
試合場全域に張られた魔法の効果で、即死レベルの攻撃はすべて無効化される。
先ほどルークがゴブリンの一体を屠ることができたのは、ゴブリン自体が厳密には生物として定義されていないからだろうか。
ともあれとして、この場所に限り、少女は誰一人として他の生命を殺すことができない。
だが、この魔法にも、抜け道はあるのだ。
例えば、無効化できるのは、あくまでも物理的な攻撃に限られるということだ。
少女が一歩、前に出る。
開いていたルークとの間合いをゼロにして、その首筋に掴みかかる。
先ほどとは比べるべくもないほどの速度。ルークがそれを、避けれるはずもなかった。
少女の細い指が、ルークの首をがっしりと掴む。
そしてそれだけで、この戦いに終止符は打たれた。
足の力が抜け、だらりと四肢を垂らすルーク。
その太い首を、少女は無造作に離した。
締め上げたわけではない。
少女はただ、、ルークの首を掴んだだけだ。
それは、呪いのようにルークの精神を蝕み、結果、ルークを戦闘不能に追い込んだ。
どれだけ微量であったとしても、錬気を持っている限り、少女の負の感情からは逃れられない。
死人も同然にくずおれたルークには一瞥もくれず、少女は観客席の方を見上げた。
――ふと、その背後に声をかける者がいた。
「ベルス」
鈴が鳴るように透き通る、高い声。
その声質は、あろうことか、少女の声と同質であった。
「――ヨミか」
肩越しに振り返る少女――ベルスに、いつの間にか現れた眼帯の少女――ヨミが苦笑する。
二人の姿は、非常に酷似している。
背丈も、服装も、顔立ちも。
決定的に違うのは、ヨミは左目を眼帯で覆っているのに対して、ベルスは眼帯を装着していないという点だろうか。
「あなたがその姿になるのは、久ぶりね」
「……まあ、な」
ヨミの言葉に、ベルスは小さく首肯する。
……“その姿”、と聞いて思い出すのは、もう五百年も昔のことだ。
大昔に行われた非人道的な人体実験の結果、唯一の成功例として生まれたのがヨミである。ならばベルスは、早期に廃棄された数多くの失敗作の内の一つになる。
皮肉な話ではある。
失敗作であるはずのベルスの能力は、今や成功例であるはずのヨミを上回っているのだから。
ベルスはふっと息を吐くと、片手を掲げてゴブリンたちに新たな指示を出す。
「散れ。ヘルヘイム以外の人間がいれば、手段を問わずに殺せ」
応じる声はなかった。
ベルスが喋り終わるのと同時に、九つの黒い化物たちは疾風のごとき超速であちこちへ散開した。
先導として放っていた三体のドーラ級と合計して十二体、いや、一体はリュウトたちによって戦闘不能になってしまったので十一体(魔獣としての性能レベルを満たしていない失敗作も含めればもっとある)。
それだけで戦争ができそうなほどの戦力であるが、今回はさらに、ベルス含めるヘルヘイムの幹部たちの多くが参戦している。
被害を受ける側からすれば、絶望以外の何ものでもないだろう。
……ふと、思った。
自分はいったい、何がしたいのだろう――と。
心の中の自問は、しかし答えを出す前に中断される。
肌を刺すような強烈な殺意の波動を感じ、白い閃光に視界を焼かれる。
前方斜め上から熱を感じ、腕を交差して防御の構えを取る。
直後、すさまじい破壊の魔力が、ベルスの両腕を焼いた。
「――っぐ」
仄かな熱は、彼女の素肌を芯から炙っていく。
装甲術によって並みの攻撃では突破しえない錬気の鎧が削られ、ベルス本体にまでダメージを与えているのだ。
その勢いに、ベルスの身体は背後へ押し流されていく。
ベルスの両の足が地を踏ん張り、結果、地面を抉るほどの電車線が出来上がる。
破壊の奔流は、長くはなかった。
ほんの二、三秒。
だがその数秒で、ベルスは一メートル近く後退し、両腕は酷く爛れてしまっていた。
……よもや、装甲術の防御を突破しうる魔法力が発揮されるとは。
大きく吐息したベルスは、まるで他人行儀のような気分でそんなことを思った。
そして、ベルスの意識はすぐさま、自身を攻撃してきた敵へと向けられる。
真正面の、観客席を睥睨する。
先ほど散開したゴブリンたちの何体かは観客席の方へと向かったようで、観客たちはパニック状態だった。
――いた。
人が目まぐるしく逃げ惑う観客席の中で、席から立ち上がり、こちらに掌を向ける、黒髪の少女の姿があった。
学生服を身に纏った姿は、おそらくは、定期戦の三校のうちのいづれかの生徒ということなのだろう。
少女の背後には、火、水、風の三属性の魔力の塊が待機状態で展開されている。
(変質属性すべてを合成したのか……)
ベルスはすぐに、先の魔法の正体を看破する。
ベルスの視線の先で、三つの魔力が一つに纏まっていき――。
第二射が、来る――――!
だが、今度はどこから来るのかがわかっている。
そしてベルスの身体能力をもってすれば、ここから観客席までは一瞬で距離を詰められる。
腰を低くし、こちらに掌を向ける少女のもとへ跳躍しようとして――、
そこで、横から新たな魔法が飛来してくる。
飛んできたのは、先の魔法とは比べるべくもなく、威力の弱いものだった。しかし、ベルスのこめかみを正確無比に狙った魔力弾は、ベルスの気を逸らすには充分だった。
無論、装甲術の防御力をすれば、気に留める必要もないものだ。
だが、その魔弾に込められた殺気は、無視できるほどちゃちなものではなかった。
濃密な殺意の波動に、ベルスは反応する――反応、してしまう。
属性も何もつけられていない魔力の弾は、ベルスの装甲術の前にあっけなく散ってしまう。
しかし、その隙が致命的だった。
白い極光が、ベルスを呑み込まんと飛来する。
「――――――――――」
視界を埋め尽くす、眩い白。
火、水、風の三属性を合成して生み出される究極の破壊が、ベルスを捉えた。
もろに直撃を受けたベルスは、踏ん張ることもせずに十メートル以上もの距離を吹っ飛んでいく。
粉塵が舞い散り、土煙がもうもうと立ち込めていく。
……ダメージは、わずかながらにあった。
直撃する前、装甲術の防御力をさらに上げたのが幸いだったのか。
ベルスへの損傷は、胸部が焼け爛れるに止まった。
あるいは、生身で受けてさえいれば、試合場の魔法によって無効化できたかもしれないが。
そんな過去のいざこざを、ベルスは深く悩まない。
死んでさえいなければ、どれほどのダメージを負っていようと問題ではないのだ。
両の腕と胸に負った火傷が、瞬く間に治癒していく。
人間の領域を遥かに超えた超再生能力が、ベルスの肉体を修復していく。
――再生にかかったのは、ほんの数秒。
だが、その数秒の内に、ベルスを攻撃してきた件の少女の姿は消えていた。
舌打ち一つ、ベルスは今度は横方を睨む。先ほどベルスに不覚を取らせた、その直接的な元凶を探り出すために。
だが、先の少女と違い、見つけ出すことができない。
逃げ惑う観客の波を見分けるうち、ふとベルスは、莫大な魔力の渦を感じ取る。
そして、かすかに聞こえる。呪文を唱える誰かの小さな声が。
◇
渾身の攻撃が、成功した。
自身が持ち得るすべての魔力を動員した大火力は、禍々しいまでの装甲術を突破し、黒衣の少女を吹き払う。
ダメージを与えた――という成果に、しかしセイラは喜びもしない。
「うわぁ……」
セイラの隣では、その圧倒的な魔法力にリンが感嘆をつぶやき、
「……」
リーンはセイラと同じように、険しい表情で試合場の方を睨んでいる。
「……早く逃げよう」
やがて、セイラが小さくつぶやく。
視線の先には、巻き上がる土煙の中から悠然と立ち上がる黒衣の少女の姿があった。
◇
何が起こっているのか、サムにはとんと、理解できなかった。
それは、彼のすぐそばにいたハヤテも同様だ。
唐突に試合に二人の部外者が乱入してきて、次の瞬間には黒衣の少女が黒い怪物たちを呼び出して、さらに現れた巨漢の男が一瞬で倒れて……。
もはや、二人の意識を超えていた。
だが、こうしてあの黒い怪物が観客席にまで押し入って暴れ出している以上、四の五の考えずに非難するのが賢明だと言えよう。
しかし、席を離れ、出口に向かっていた二人の非難の足が、唐突に止まった。
――否。
止まったのは、サムの足だった。
立ち止まったサムにつられるように、ハヤテの足もそこで止まってしまう。
「――サム?」
ハヤテが訝しそうに声をかけるが、サムは呆としたまま試合場の方を見ていた。
その片手が、突然に視線の先へと向けられる。
サムが魔力弾を放ったのは、直後のことだった。
取り立てて速いというわけでもなく、大量の魔力が練られていたわけでもない。
けれど、サムがその魔弾を放つ瞬間、ハヤテはうなじの毛が逆立つほどぞっとした。
ハヤテが友人の変貌に声を出せずにいるうちに、当のサムは淡々と次の行動に移っていた。
いつの間にかその手に持っていた、黒の装丁の擦り切れきった古本。一目で、ハヤテは昨日のアレだと悟った。
昨日、観客席で見つけた、猟奇的な内容の不気味な本。
すぐさまその場に捨てたはずなのに、夜、何故かサムの鞄の中に紛れ込んでいたおぞましい異本。
アレがいったい、なんだというのか。
嫌な予感を覚えるハヤテの目の前で、サムは、呪文を唱えだした。
「――開錠。
――――開門」
強大な魔力がサムを中心に渦巻き、サムの呪文に反応する。
「――使徒の大王が生まれ変わり、リウジ・サカイが奉る。
――――我が骨子は塵より固まり、我が肉は鋼より鍛えられん。
――――――我が血は大海より注がれ、我が意思は、ここに残存せしめん」
黒い古本を、前に掲げる。
魔力の渦が、本へ収束していく。
何千年もの歳月を重ね、幾多にものぼる読者から少しずつ吸収してきた魔力が、解き放たれる。
サムが唱えている詠唱そのものに、魔法的な意味はまるでない。
それは、本にあらかじめ仕組まれていた細工を起動する合言葉に過ぎなかった。
サムが口ずさむ呪文が、本を起動し、大魔法を発動させているのだ。
「――我は我が目のために、我の肉を創り使う者なり。
――――今ここに、我は其の肉を招ずる。
――――――我が傀儡よ、求めに応じてその身を現せ」
目も眩むほどの閃光が、サムの前に発生する。
圧倒的な白が、周囲を呑み込み、一色に染め上げていく。
それと同時に、まわりに充満していた濃密な魔力の波動が、嘘のように静まり返っていく。
暴力的な魔力の渦はただ一転に集約し、発動された魔法によってそのすべてを費やされて消えていった。
この暴動を引き起こした当の本人は、よほど体力と魔力を奪われたのか、膝立ちになって肩で息をしていた。
まわりが色を取り戻し始めた時、その場に明確な変化が一つ。
それは、つい先刻までその場にはいなかった、黒髪の男の出現であった。




