6,嵐の前
◇
「ああ……」
深夜。それこそ、日づけが変わるか変わらないかという時刻。
シドー国ジャミヤ地方のとある居酒屋にて。
ルーク・キミラは溜め息を一つついた。
その様子を、対面に座るクラザ・ストーラは眉をひそめて見つめた。
「……どうした」
長年の付き合いで、ルークが愚痴を聞いてもらいたいのだと瞬時に察したクラザは、これ以上ルークが面倒臭くなる前に質問した。
もちろんクラザとしては、面倒な話は御免なのだが、こうなってはもう諦めるしかない。
それに、愚痴ならば今のクラザにもある。おそらくは、ルークと同じ不満が。
「どうして今年になって、定期戦を二日に分けたんだろうねぇ」
――ああやっぱりそのことか、とクラザは内心で呟く。
ルークが口にした愚痴は、やはり、クラザも覚えた不満だった。
二人だけではない、おそらく今回定期戦の警備として抜擢された者たちの多くが、クラザたちと同じことを思っているはずだ。
以前、定期戦が襲撃されかかった経緯から、安全委員は定期戦の警備を強化している。
さすがに襲撃を受けた三年前と同等レベルの警備体制ではないが、それでも充分に堅固な守りだと自負できる。
だが、この毎年の警備は、安全委員の者たちの精神を大きく削る重労働だった。
酒の入ったタンブラーを煽ったクラザは、溜め息一つ、襲撃を受けた当時のことを思い返した。
大勢の犠牲の上に、安全委員は襲撃者撃退、襲撃を未然に防いだ、という一応の成功を収めた。
……しかしクラザから言わせれば、あんな結果は成功というには程遠い。
大敗北――とまで自嘲したりはしないが、あれはもう、敗北したも同然と言える。
戦力が違った。
まず、その時点での問題だった。
こちらも、そしておそらくはあちら――ヘルヘイムも、全戦力を展開したわけはあるまい。
だが、あちらの底の知れなさは、痛いほどに察することができた。
片目のヨミ、そしてヘルヘイムのボスと目されるベルスと対峙したクラザやルークならば、ことさらに、自分たちの無力さを理解してしまった。
タンブラーの中で、角氷がカランと音を立てた。
奴らがいかに手を抜いていたのか、クラザにはわかる。
こちらが全力で応戦したにもかかわらず、おそらく、相手の方は全開状態ですらなかった。
――戦力が違う。
――俺たちは、奴らと同じ土俵には、立てていない。
クラザは、つくづく痛感するのだった。
タンブラーを口に運び、中身を飲み干す。
テーブルの上に置くと、角氷が軽い音を立てた。
三年前のあの戦いの傷は、今なお安全委員の中に根強く残っている。
クラザもルークも、毎年警備に入っているが、定期戦中での彼らの集中力と言ったらない。
あの日の惨敗を経験した者たち、伝聞で知っている者たちでも、定期戦が終わるまでは神経を張り詰めさせている。
襲撃の翌年の警備では、この陽気なルークでさえ、ノイローゼで寝込んだほどだ。
クラザ自身、体調不良を訴えるほどのストレスを溜めてしまった。
そんな定期戦が、今年は二日間もある。
安全委員の皆が不満を抱くのも、無理はなかった。
唯一の救いは、一日における定期戦がそこまで長時間ではないことか。
「俺たちは、上に言われたとおりにやるだけだ」
クラザは、タンブラーに新たな酒を注いだ。
琥珀色の液体が、氷を伝って満たされていく。
酒だけではそろそろ寂しいと感じ、魚の塩焼きと刺身を注文した。
「それでもねえ、僕らにかかる負担って、半端ないよ?」
「……泣き言言うな。安全委員てのはそういうことする組織だろうが」
「そりゃ、そうだけどさ……」
言葉を詰まらせたルークは、コップをぐびりと煽る。
ルークの性格上、弱音を吐くことなどほとんどとしてない。あったとしても、彼の場合それはジョークのネタとして、あくまでも茶目っ気のある台詞を吐く時ぐらいだ。
こうしてストレートに愚痴ることなど、クラザがよく知るルークの姿ではない。
――やはり、三年前の定期戦以来、自分たち安全委員はこの定期戦の警護にかなりの気を張り過ぎているらしい。
「どうしたもんかな」
力なく、ルークが漏らす。
クラザも、心情で言えばルークと同じだった。
この先もしばらく、自分たちは今後も毎年定期戦が開催される度にあのトラウマを抱えていかなければならないのだろうか?
むろん、感傷とは時間をかけて風化していく。
この傷跡が、未来永劫、安全委員の者たちを蝕み続けることはないはずだ。
いつかは、このトラウマを知らない世代と交代することになる。それが、喜ばしいことかどうかは別として。
クラザは、四杯目となる酒を注いだ。
クラザの分の酒瓶は、それで空となってしまった。
運ばれてきた肴をつまみながら、クラザは喉の奥へ酒を流し込んだ。
あまりに飲みすぎれば、明日に響くのはわかっていたが……。
そこまで考えて、クラザは思わぬところに定期戦を二日に分断した欠点があったことを発見して、溜め息を漏らす。
酒に逃げることもままならないとは……。それが、胸を張って言えることかどうかは別として。
クラザは、四杯目を飲み干した。
後に残ったのは、まだ食べかけの刺身とまだ手をつけていない塩焼き、そしてルークの分に注文した(本人はまったく手をつけていないが)鶏肉の炭火焼きと、ルークが飲んでいる酒。
「この酒、貰ってもいいか?」
「えあ? ……ああ、うん。いいよ」
ルークの了承を得て、クラザはタンブラーの中へ、酒瓶を開けた。
先ほどとは違う、透明な液体が注がれていく。
飲んでみると、やはり先ほど自分が飲んでいたものとは違う味わい。
「……何が起ころうと、俺たちは俺たちの仕事をこなすだけだ」
淡々と、クラザはそう言うのだった。
「うん、そうだよね……」
応えるルークの声も、沈んだ響きがあった。
「話は変わるが、ルーク、新しく武器を申請したって」
「もう知ってるの。まだ十日もたってないのに」
ルークの声音には、感心するような響きがあった。
「今まで使ってきた槍では駄目なのか?」
「ニグルは、長く使ってきたけど、やっぱり少し違和感が残るんだよね。前からガード博士に言ってて、つい最近、やっと承諾してくれたんだ。『私の作品は気に入らんのか』って、かなり怒ってたよ」
「そうか。今までのやつは、どうするつもりなんだ?」
「それが問題なんだよね。ニグルはまだ壊れたわけじゃないし、相性イマイチなりにも九年ぐらいは一緒にやってきたからさ。変に愛着沸いちゃうんだよねー」
困ったもんだよ、とルークは笑った。
「時期を見はからって乗り換えたいもんだね」
「新しい方はもう受け取ったのか?」
「うん? ああ、一昨日、完成したのを貰ったばかりさ。型番はCK2型・タイプS、だったかな。カタナ系の形らしい。ニグルよりは、ましに合うと思うんだけど」
「刀術は剣術とはまるで違うと思うが……」
クラザは、首筋の後ろをカリカリ掻きながら、そう言う。
しかし、本人がいいと言うのなら、それでいいのだろう。
その時――、
「見つけました!」
高い、鋭い声が、二人の鼓膜を震わせた。
視線を向ければ、居酒屋の入り口に、紺のスーツを着た女性が立っている。
安全委員内ではルークの補佐役を務める、リミアン・ハルトイヤーである。
「あ、やあ」
ルークが片手を上げる。
「やあ、じゃありません。行先ぐらい事前に報告してください、部長」
クラザもルークも部長ではあったが、この場合リミアンが言った部長がどちらを指しているかは、言わずともわかることだった。
「なあ、クラザ」
「……なんだ?」
「最後の一杯に、うんと強いやついかない?」
ルークは、お猪口を持つようなジェスチャーをする。
「部長。今の発言、とても無視できないのですが」
驚くほどに静かな声音で言いながら、リミアンがこちらに向かってくる。
リミアンのその逆に落ち着いた態度から発散される圧力に、ルークの額には冷汗が一筋垂れていた。
「それは、明日を無事に終えられたら、だ」
溜め息交じりに、クラザはルークの誘いを却下するのだった。
◇
同時刻。
同じジャミヤ地方内のどこか。
「揃ったか」
黒の外套に身を包んだ黒髪黒瞳の少年は、静かな声で確認を取るようにそう言った。
「……ああ」
答える声は、少年の近くから。
少年と同様、黒の外套姿で、黒髪黒瞳の青年だった。
服装、背丈、容姿ともに似通っている二人は、もはや、兄弟、従兄弟、親戚にしか見えない。しかし、それぞれが浮かべている表情、その雰囲気が、少年と青年の二人を明確に分けていた。
少年の顔に浮かんでいるのは、不敵そうな微笑、余裕、冷静、そんな表情だ。
対する青年は、無表情を一貫している。
言葉に起こせばそれだけの違い。
しかし、もし二人が同じ表情をしていても、二人を見間違えるようなことにはならないだろう。
単純に、二人の顔立ちがまったく同じなわけではないというのもある。
しかし、二人を分かつ要素は、何も外堀の特徴だけではないのだ。
と、そこへ第三者の声がかかった。
「はい。全員、揃っています」
茶髪のパーマの、青年であった。
非常に細い線のような目は、二人を見据えていた。
「トレント」
少年が、静かに呟く。
「魔獣、獣人、どちらも不足ありません」
「そうか、間に合って何よりだ」
「それと、カリンさんとアレックスさん、ヘーラックさん、そして『片目のヨミ』さんも、既に準備できています」
「ご苦労」
トレントと呼ばれた青年の報告に、少年――ベルスはただ一言で答える。
「獣人、魔獣の方のメンテナンスは抜かりはないだろうな」
「ええ、すべて、問題ありません。全固体、不具合ありません。我々の指示にも、タイムラグなしに従うでしょう。改造型セクトピアンも同様です」
トレントは、自身のある声音で答えた。
ベルスは、視線を青年――“死神”へと戻す。
「どうかしたか、ベルス?」
「いいや。お前に、話がある」
ベルスがそう言った途端、トレントは無言で一礼してその場を去った。
かくして、その場にはベルスと“死神”のみが残った。
「で、なんだ?」
「今回はな、リオナも参加する」
“死神”の問いに、ベルスは簡潔にまとめられた話で応えた。
しかし、肝心の問いの答えになっているとは、言い難い。
「それが、なんだ?」
「お前、リオナを護衛してくれないか?」
「はあ?」
思わず、“死神”は訊き返してしまった。
「リオナを、護衛してくれ」
ベルスは、再び、依頼の言葉を口にする。
しかし“死神”には、何故自分に白羽の矢がたったのかがわからない。
そもそも、何故彼女を加える必要性があるのか……。
しかし、今さらそれを問うても結果はわかりきっていることだ。
故に、口にするのは別の言葉だ。
「……了解した」
「ああ、頼んだ」
ベルスは、静かにそう呟いた。
「こういう急変更は、今後なしにしてほしいものだ」
疲労感と共に溜め息を吐き出しながら、“死神”はそう愚痴る。
ベルスはふっとわずかに口角を上げて笑い、
「……ああ、そうだな」
と、小さく答えたのだった。
◆◆◆
――いったい私は、何人をこの手にかけたのだろうか?
わからない。
もう、数えることも億劫になった。
どうして?
何故?
こんなはずじゃなかった。
どうして私なんだ?
何故私がやらなきゃならなかったんだ?
最初に人を殺したときは、その感触がいつまでも残り続けていた。私が犯した罪は、一生消えずに私の中に残り続けていくと、そう思っていた。
血で穢れた、私の手。他人の命の火を消した時の、消えないあの感触。
それが、初めて殺人を犯してしまった時の感情だった。
変に言い訳しても、私が人を殺した事実は覆せない。
こんな経験、たしかに二度としたくない。
一度知ってしまえば、もう後には引き返せない。
手の感覚が、息をする肺が、なによりも脳が、片時も忘れさせてくれない。
そう思っていた。
それが、最悪の気分だと思っていた。
――なんて、幸せなことだったのか。
今の私に、それが自覚できるだろうか。
今の私は、命をなんだと感じているのだろうか。
わからない。
もう私には、何もわからない。
こんな結果を望んだことなんて、一度だってない。
永い苦悩の末、私は一つの答えを出した。
初めての殺人には、意味があった。
そう、人殺しには、意味がなきゃ駄目なんだ。
悪人だった。介錯だった。たくさんの人を救うためだった。理由なんてなんでもいい。とにかく殺人には意味が伴わなくてはならないのだ。
――けれど、本心ではわかってたんだろう。
いくら理由をつけて言い訳したところで、人を殺した事実は変わらない。
どんなに自分を正当化しようとしても、それが正しいなんてことになるわけじゃない。
わかってた。こんなのはただの現実逃避だ。
実際に私が犯した罪が清算されることはない。
でも、そんな御託はどうでもよかった。これは、他ならない、私の精神の話だった。人殺しの罪に、私が耐えられなかった。
だから、それが最低な自慰行為なのだとわかっていても、私は答えを出さずにはいられなかった。
不安はどうしたって付きまとってくる。
何度、自分の出した結論に詰まりそうになったことか、数えきれない。
――それでも、意味もなく人を殺したなんて事実があってはならない。
意味もない殺人なんて――殺戮なんて耐えられない。
そう考えることで、私は私の罪から目を逸らし続けた。
でも、私がすがったそんな自己満足は、いとも容易く砕け散った。
――どこで何を間違えてしまったのか。
――どうしてこんな結末を引き当ててしまったのか。
どれだけ遡ってみても、答えは見つからない。後悔の記憶だけが、私の中に残留し続けている。
ともすれば、最初からこうなる運命だったのではないかとさえ思える。
殺戮の果てに得た意味は、際限ない虚無だった。
私がこれから歩んでいく道に、救いなんてありはしない。
この身は朽ち果て、魂はどこまでも堕ちていく。
擦りきれきった私の中には、希望を求めようとする意志さえ、もう残ってはいない。
ただ破滅を待ち続ける私は、底知れない邪悪を抱えて生きていくしかできないのだ。
この結果を、私という存在は一生呪うことしかできないだろう。
でも、こんな考え、自分勝手だと自分でも思う。
――それでも私は、幸福な未来が欲しかった。
◆◆◆
――「私の心」最終章より抜粋――




