15,通り魔のメソッド
この話で第二章は終了です
◇
六月。
夜の八時を回る頃。
とある路地裏で、男が一人、疾駆していた。
男は黒色のローブを身にまとい、癖の強い茶髪をしていて、まだ若い青年だった。青年の名はトレント。わけあって、今現在疾駆中のようだった。
狭く、暗い、迷路のような路地裏を、トレントはすさまじい速度で駆け抜けていく。
その表情には、一切の焦りの気配はなく、充分に余裕を残していることが窺える。
「ふっ」
ほとんど速度を落とさずにT字路を右折し、トレントは闇の中へと進んでいく。
もう一時間はこのペースで走り続けているが、トレントの疾駆が止まる様子は見られない。
何故なら――、
トレントの背後から複数人分、彼を追いかけるようにして足音が響いていた。
先刻からずっとこの調子だ。
約一時間、自動車並みのスピード(時速九十キロほど)で逃げ続けているトレントも異常だが、彼を追いかけている者たちもまた、常軌を逸していた。
「ふむ……」
トレントは、未だ響いてくる追跡者たちの足音を聞きながら、思案に耽る。
常人を逸した速力ながら、彼はまだ余力を充分に残した状態だった。
しかしながら、追跡者たちの方はトレントとは事情が違う。
肉眼で確認したわけではないので確証はないが、おそらく全員が身体強化の魔法を発動して追ってきているはずだ。
つまりトレントと追跡者たちの間には、明確な差があった。
トレントにしてみればこの追跡劇ですら、遊び感覚の延長でしかない。
その気になれば、いつでも振り切ることはできる。
追跡者たちが、一体どこまでトレントについてこれるか……。
一時間近く鬼ごっこが続いていることを考えれば、平面における追跡者たちの“鬼”としての能力は申し分ないと評価できる。
では、立体的な空間内における追走能力はどうだろうか――?
追跡者たちの姿が、背後の角から現れる。
ほぼ迷いなく、トレントの方へ進路を修正して、追ってくる。白やら灰色やらのコート。
トレントと追跡者たちとの間には、ほんの一瞬、一切の障害が取り去られていた。だが、それは本当に、ほんの一瞬の状況だった。
すぐに、両者の間には隔たりができる。
それは、物質的な障害物などではなく、次元的な土俵の違いであった。
トレントが、ステップを踏むような軽快な足取りで真上へ跳躍する。
たん、と音がしたかと思えば、トレントの身体は地面から六メートル以上高い位置にある建物の壁を蹴っていた。そのまま次の足場となる壁を蹴り、トレントはたちまち、追跡者たちとの距離を離してしまう。
(追っては……こないか)
トレントは、あまりにもあっさりと、追跡者を撒いた。
あくまでも地に足がついた状態でなら、トレントが地面の上を走っている状態だったなら、追跡者たちもまだまだ追ってこれただろう。
だが、トレントが唐突に舞台を空中へ切り替えたため、追跡者たちは踏みとどまってしまった。
その結果、トレントの逃走を許してしまったのであった。
(……ひとまず、止まるか)
トレントは、地上十メートルの空から地面へ、難なく着地する。
裏路地は、相も変わらず暗い闇が広がっている。昼間になっても、この闇の浸食は退かないことだろう。
さて、とトレントは状況の整理を試みた。
今夜、追跡者たちと遭遇したのは、まったくの偶然だった。
偶然にも発見され、ここまでの逃走劇を繰り広げた。
最初のうちは、やはりトレントにも焦りがあった。
だがすぐに自分と相手の実力差を再認識し、冷静に判断した。
こうして振り切り、改めて冷静に振り返ってみると、改めて見えてくる疑問もある。
これはもしかすれば、偶然ではなかったのではないだろうか?
もしかすると、彼らは最初からトレントを尾行していたのではないか。
だとすれば、これは深刻な事態だ。
彼らは、トレントの身辺を探っていたということになる。それも捜査の手は、既に青年の懐の中をまさぐれるほど近くに迫っている。
その可能性に思い至り、トレントは珍しく舌打ちしたい気分になった。
(“今の生活”もそろそろ潮時かな)
『今の生活』と少々固有なレッテルをつけてみても、特段何かが変わるわけではない。
せいぜいが、夜寝るベッド(もしくは布団)が変わる、食事の質が変わる、住む地域が変わる、表向きの肩書きが変わる、くらいである。
手続きが面倒になるが、仕方がない、と割り切る。
追跡者たち――つまるところ安全委員の連中が嗅ぎまわっているかもしれない状況下で、いつまでも同じエリアに居続けることの方が危険である。
全力で戦えばもしかすれば勝てるのではないか、と考えなくもないが、自惚れるのは禁物である。
単純な能力だけが、戦闘における勝敗を決する要素ではないことを、彼は知っている。
やはり、そろそろ居を他に移す必要があるだろう。
待っているであろう手続きにトレントは思わず、溜め息をつきそうになる。しかし、
大きく吐息する直前に、彼は横へ飛びのいていた。
身の危険を、本能が察知して警告の鐘を鳴らしていた。
先ほどまでのゲーム精神はなりを潜め、警戒心が彼の意識を占領する。
トレントが自分が先刻まで立っていた場所に視線を向けてみれば、地面が何かによって大きく抉られていた。
鋭利なもので切り裂いたような痕ではない。もっと粗く、重量のあるモノで削りとったような痕だった。
ジャラン、という金属音がした。
トレントは、音がした方へ視線を投げる。
暗い路地裏であったが、今のトレントの視力からすればさしたる障害ではなかった。
黒く、そして太い、蛇の胴のように長い何かが蠢くのがわかった。
先端部分は丸みを帯びており、ざらざらしたような表面のそれは、まるで意志を持っているかのようにゆっくりとトレントから距離を取って遠ざかっていく。
トレントが両の目を細める――瞬間、蛇のような何かが、突如としてトレントへ襲いかかった。
緩急をつけた先制攻撃。常人にすれば反応できるかさえ危うい瞬発と速度で、蛇もどきがトレントの目前まで一直線に距離を詰める。
トレントとの距離は、既に一メートルとない。
しかし、蛇もどきの突きに、彼は反応してみせた。蛇もどきそのものに触れることは危険――と即座に判断を下して、身体を横に捻る。しかし避けきれずに脇腹をかすり、ぶしゅり、という生々しい音とともに鮮血が散った。
トレントは、己の不覚さを呪った。
蛇もどきの稼働速度は、たしかに速かった。音速にすら、迫るほどに。
だが、トレントであればぎりぎりでも避しきれたはずだ。
にもかかわらず負傷してしまったのは、彼の精神が怠慢に緩んでいたからか、それとも蛇もどきの技量によるところか。
何はともあれとして、
トレントは、再び身を退いて距離を測る蛇もどきを睥睨する。
――これは、一体なんだ?
黒い色の、ざらざらしたような表面の胴を持つ、蛇のように身をくねらせる何か。
これは、生き物か――無機質な外見からは、そうとは思えないが。しかし、金属質な生物はこの世界には掃いて捨てるほどいる。
だがトレントは、この蛇もどきが新種の生物であるとは思えなかった。
蛇もどきの攻撃からは、動物が出せないような明確な意思が感じられた。それは、明らかにトレントを排除しようとする敵愾心だ。
トレントは、目を凝らす。すると、こちらに対峙する蛇もどきの巨躯の陰に隠れるようにして、誰かがゆっくりと接近してきていることに気づく。
ついさっきまで、まったく気配が感じられなかった。
その誰かの出現は、少なからず青年には不意打ちだった。
誰かは、ゆっくりとした足取りで蛇もどきの陰から出てきた。
青年の目は、その誰かの姿を、はっきりと捉えた。
三十か、四十か、さほど若くは見えない顔立ちで、顔色は生気が抜け落ちたように蒼白だった。
身長が高いが、体格自体は痩せぎすだ。白衣をまとい、やや大型の端末を左手に持つその姿は、研究に没頭する研究者のような印象を与えた。
「……何方、でしょうかね?」
トレントは、穏やかな口調で問いかけた。
返事は、無言。
誰かは、無精髭の生えた口もとを動かすことはない。
だが、落ち窪んだ眼窩の奥に、ぎらぎらと感情を燃やす眼があった。
(誰だ、一体?)
トレントには、この男と会った記憶など一切なかった。
だがあちらは、明らかにこちらを敵視している。
(あの蛇もどきは、奴が操っている……?)
そんな思考を巡らせていると、
男が突然、右手を振るった。その動きに合わせるように、蛇もどきがびゅるん、と大きくその身をくねらせる。
ざらざらの、黒色の表面が波打ち始め、突如蛇もどきの先端部が三方へ分かれる。
両側面から二つ、上方から一つ、トレントの逃げ道を塞ぐように三方向から襲いかかってくる。
狭い路地裏で、退路を阻まれた三方包囲攻撃。
トレントは、横でも後方でもなく、前方へ活路を見出していた。
たん、と前へ一歩を踏む。
トレントの背後で、三本の蛇もどきが壁や地面を抉る音が発生する。
横に避けても、背後へ跳んでも、トレントへの追撃によってアウトだっただろう。
しかし、蛇もどきの脅威は未だトレントのすぐ近くに存在している。
逃げ道を塞ぐ形で迫った三方位からの攻撃に対して、あえて前への道を選んだトレントだったが、それはつまり蛇もどきの包囲網に自ら突撃したという意味に等しい。
前方、左右、上方、そして背後。
蛇もどきの黒光りする胴が、トレントの全方位からぎらりとした光を反射する。
蛇もどきの胴と胴の隙間を縫うように脱出を試みても、今の体勢から出せる速度ではあちらの方が先にトレントを貫くだろう。
ならば、
(魔法で――)
右手を前方へ向けるトレント。
掌に、魔力の塊が生成される。
詠唱は必要ない。感覚で発動させる方が、早い。
先頭においてもっともオーソドックス、かつ戦闘以外にも幅広い応用が利く、いたってシンプルな魔法。
魔力の塊が、三つの魔力弾となって弾けた。
魔力弾はそれぞれ三又に分かれる蛇もどきの胴へそれぞれ直撃する。
蛇もどきの胴は、あっさりと千切れてしまう。
壁や地面をあんなにも簡単に抉った蛇もどきの三つの胴すべてが、まるで硝子細工を割るように簡単に飛散する。
弾き飛ばすくらいできれば上出来と取っていたが、この結果は予想以上である。
予想以上の損傷を与えたことに、トレントは小さくない驚きを覚えていた。
だが、その思考停止もほんの一瞬のこと。
この好機を逃す愚は起こすまい。
トレントが選んだ逃げ道は、上だった。
細かく砕け散る蛇もどきの胴を横目に、トレントの跳躍は瞬く間に地上十メートル以上の高度へいたる。
建物の屋上の縁に手をかけて、下を見下ろす。
すると、ちょうど白衣の男と目があった。
(なんなんだ、こいつは……?)
いきなりに襲ってきた。
考える暇がなかったが、改めて考えればあの蛇もどきを操っていたのは彼で間違いないだろう。
一体、何故トレントを襲ったのか?
一瞬、安全委員の追手だろうか、と考えてしまうが、少し、違和感を感じた。
(まあいい。これで……)
一息を吐こうとした――トレントの思考が一瞬止まる。
白衣をまとった男が、右手を大振りに振るっていた。
そしてそれに合わせるがごとく、
バラバラに飛散した蛇もどきの欠片たちが、再び集まり、塊となったのだ。
(自己再生型の武器か!?)
男が、右手を勢いよく上方――トレントの方へ突きつける。
蘇った蛇もどきが、再びトレントを襲うべく迫ってきた。
十数メートルほどあった距離は、蛇もどきの稼働速度の前ではないも同然だ。いや、攻撃開始から目標到達までにわずかなラグが生じている分、ゼロ距離よりかは、ましだろう。
蛇もどきの突きは、トレントの脇腹を掠めていった。
先ほど、蛇もどきの攻撃を避けそこなった時と同じ場所。
鮮血が、スプリンクラーめいた飛沫を上げる。
先ほどよりも傷は深く、今度は肉だけでなく内臓まで抉られていた。
がばっ、と大きな血塊を吐き出す。
縁に捕まる腕から力が抜け、そのまま落下してしまいそうだった。
ふと視線を上げれば、蛇もどきが追撃を仕掛けようとしているのが目についた。
「――っ」
咄嗟に、トレントは空いている方の手を下へ向ける。
魔力の塊が、射出される。
魔力弾は、二つの効果があった。
一つは、蛇もどきへの攻撃。
まさに、トレントを上から突こうと迫っていた蛇もどきの胴へ、魔力弾が命中したのだ。先ほどのように、蛇もどきの胴は硝子細工の如く砕け散っていく。
もう一つの効果は、魔力弾を発射したことによって起こった反作用だ。
屋上の縁に掴まっていたトレントの身体が、ふわりとした浮遊感と共に上へと浮き上る。そのまま、トレントの身体は屋上へ投げ出される。
脇腹の重傷が、悲鳴を上げるかのように血を撒き散らす。
常人を超えたトレントの肉体の耐久性によるものか、トレント自身の意識はまだ健在である。しかし、このまま血をドバドバと失い続けていては、失血死を招く。
(とにかく回復を……。いや、まずは逃げなければ……!)
しかし今は、身体に鞭打ってでもこの場から退散しなければ、とトレントは判断した。
あの蛇もどきは、砕いてもすぐ再生してしまう。それに、耐久力はともかくとしてあの攻撃力ならば、その気になれば、この建物ごとトレントを抉り殺すことだって可能かもしれない。
だが、腸と血を撒き散らしながら退散する彼に、追撃の手が来ることはなかった。
◇
黒ローブの青年が、屋上へ打ち上げられる。
男はすぐに追撃を加えようとした。
右手を振るう。
それだけで、粉々にされた蛇もどきは再生する。
一つ一つの連結力は弱いものの、一撃の重さと稼働速度に特化した蛇の如きしなやかさは、瞬く間に黒ローブの青年へと襲いかかろうとした。
だが、その動作が突然制止する。
誤作動――では、ない。
それは、男の操作の下、つまりは意図的に止められたことだった。
男が視線を、上方から前方へと移す。
声と、複数人分の足音が聞こえてきた。足音は、忙しなく、走っている。
「こっちの方から音が」「まだこの近くにいるのかもしれない」「警戒しろ」
やがて、声の主たちが姿を現した。
夏場だというのに、彼らはコートを羽織っていた。白、灰、茶……。男はすぐに、彼らが安全委員に所属している者たちであると看破する。
彼らの方も、男の存在に気づいたようだった。
ばっと音をたてて身構える。
だが、男の姿を改めて見据えると、幾分警戒の色が薄くなる。
「あなたは――」
誰ですか? と安全委員たちの一人が言おうとしたが、言葉は途中で途切れてしまう。
理由は、至極単純だ。
男が、無言でその右手を振るったのだ。
黒い、しなやかな薙ぎ払い。
安全委員たちの胴体は、一瞬にして上下に真っ二つにされてしまった。
脳を直接破壊したわけではないので、彼らの内の何人かは、宙を舞う自分に気づいたかもしれない。彼らの力量次第では、何が起こったのかも……。
どちらにせよ、もう意味など無い。
彼らの命は、既に、消え去ろうとしているのだから。
再び、ひゅん、と風を斬る音が鳴る。
地面に落下した彼らの頭部が、一瞬にして全員分、潰された。
「……せがれの恨みだ。愚かな偽善者ども」
この瞬間、男は初めて、言葉を発した。
とてもしわがれた声音には、消えようのない憎悪の念が燃えていた。
第2章/了
いろいろと考えましたが、ジャンルをハイファンタジーからアクションへ移すことにしました




