10,襲撃②(2)
◇
リュウトから事情を聞いて、レンたち三人は途方に暮れてしまった。
リュウトとリンの前に突如として現れた、黒の背広を着込んだ男。リュウトはその男の一撃によって、昆虫エリアの建物内にまで飛ばされてきたという。
信じられない話だ。
よもや人間が、そこまでの腕力を有しているとは考え難い。
――いや、それよりもまず考えなければならないことがある。
男はリュウトをここまで殴り飛ばしてきた。残されたリンは、一体どうなっている?
男は、リンをどうするのだろうか。
リュウトと同様に攻撃するのか。
捕まえて人質にでもするのか。
いや、もしかすると、もっと酷いことを……。
三人は、背筋に冷たい物を貼りつけられたような、不気味な気分を催していた。
どうか、そのまま素通りしてしまいますように。興味などなく、リンを見逃しますように。
希望的な祈りは、あるいは彼らにできる唯一の手段だったのだろうか。
「えっと、つまり君たちの友達がその男に何かされてるんじゃないかと、君たちはそれが心配なのかい?」
リュウトの話をレンたちと一緒に聞いていたトレントが、冷静に訊いてきた。
答える者はない。
答えたくない。
リンを知る少年少女は、背広を着た男とリンの接触を、その可能性だけでも、認められない。
……ただ一人を除いては。
「そんなところです」
リュウトが淡々と答える。
この場においては、彼が一番落ち着いているといえるだろう。
「…………」
レンは、そんな兄の冷静さに疑念を抱いた。
落ち着き具合が、異常すぎる。
自分たちはこんなにも取り乱しているのに……
兄さんは何故……?
だが、その疑いが、逆にレンを冷静に鎮静化していく。
とりあえず、リュウトの落ち着きぶりは無視するとした。
レンは、この状況について今一度脳内で情報を整理する。
今、自分たちが直面しているのは、誰もが予測していなかったアクシデント。一体、この建物に侵入してきた連中と、リュウトが遭遇したという背広を着た男は、何者なのか。仲間同士なのか、それともお互い赤の他人同士なのか、それとももしかして敵同士なのか。
どれにしても、両勢力とも自分たちにとって敵であろうが。
今考えるべきは、大きく分ければ三つ。敵についての情報、自分たちがどう対処すべきなのか、そしてリンの安否の確認と合流である。
レンにとって、一つめと二つめは今でなくともできる。よって、最優先はリンの安否の確認になる。
これは、今すぐにでも確認すべきことだし、確認する方法も容易だ。建物を出て、リュウトの言っていた場所まで走っていけば、ものの数分で完了する。そこにリンがいれば、無事だったとわかるし、背広を着た男もいれば、戦いは避けられないだろうが、何とかしてみせる。
なら、ここで話し合うよりも、すぐにでも行動した方がいい。
そう思い、レンは意見しようとするが、
「とりあえず、リンのところに行ってみよう。まず、それが先決だ」
リュウトが、ちょうどレンの言わんとしていたことを淡々と言う。
先を越された、という言葉が一瞬レンの頭をよぎるが、今そんなことにこだわってる場合ではないと思いなおす。
「うん、行った方がいいな」
「ええ、行きましょう」
テラとイルサの同意の声。
レンも頷いて、トレントに向き直り、
「すいません、避難の手伝いは、できそうにないです」
ぺこりと、軽く謝罪しておく。
「うん、気にしないで。それより、早く友達のところへ向かった方がいい」
かくして、四人は昆虫エリアの建物を出た。
レンは、ふと思う。
――そう言えば、なんで兄さんは僕らがここにいたことを訊いてこないんだろう?
◇
リュウトが吹っ飛んでいく様を、あたしは呆然と見ていることしかできないでいた。
「ヌあー?」
ビジネススーツを着込んだ男は、大袈裟な振りをしてあたしを向いた。
相当、ハイなテンションになっているらしい。
麻薬でもやっているのか、と場違いにもそんなことを考えてしまう。
「あのショーネンのオンナかア? まあ、いいや」
男が、ふと足元を見下ろす。
キラッ、という輝きが見えた。
先ほどまで、リュウトが握っていたダガーだ。
金色の、しかしその実それはメッキの単なる装飾に過ぎない、殺し合いを前提にしていない、よくて観賞用にできる程度の、オモチャの得物。
男はそれを取り上げた。
一目見て、吐き捨てるように言った。
「オモチャじゃねえカっ、こんなんでこいつらやりやがったのかよ」
リュウトが下した、あの不気味な集団を見下ろして、
「何やったんだァ? 錬気か? 集中させりゃ、けっこうカタくなるってヨミが言ってたがア」
何やら思案するかのように、ぶつぶつと独り言を呟く。
そして、関心をなくしたのか、コキッコキッ、と首を鳴らしながら、いとも簡単にダガーを握りつぶしてしまった。
たくさんのヒトを斬り裂いたはずの凶器は、こんな痩せ型の青年の手によって、ぐにゃぐにゃに拉げられてしまったのだ。
「ウーん、なんか、な。あいつ、やバクね?」
男がそう言った、直後、
「っっあ!?」
男はあたしの方に、右手をかざした。
肘のあたりがぼこりと不自然に膨らんだかと思うと、黒の生地を破って、男の背面から生えているようなミミズのような触手が一本、飛び出してくる。
あたしの胴にがっちりと巻きつき、男はぐいと右手を引く。
必然、あたしもそれにつられるように男の方に引っ張られた。
「こいつあ、人質になルかもな」
見事にあたしを捕まえて、男は言う。
「オウ、おまえら、散れェ! 運がよけりゃ、『グニグル』見つけ出すのに時間もかかんねエ!」
男が、声を張り上げる。
その言葉が、既にあたしたちを包囲していたあの不気味な集団に対しての言だと知ったのは、いくらかの間があってのことだった。
こいつらは、一体、どれだけいるというの?
リュウトは、こいつらは死体だ、とかなんとか言っていたけど、仮にその滑稽話を信じるとしても、この人数は異常だ。
あまりの非現実さに、恐怖すら湧いてこない。
ただ呆然とするのみ。
その時、鋭い痛みが右足を迸った。
それによって、あたしの精神は急速に正常の位置に引き戻される。
右足を見下ろしてみると、あたしの胴を拘束していたミミズの先端が、くるぶしあたりにまで伸びて、ぐいぐい喰いついている光景が目に入った。
「ひっ!」
気色が悪い。
ミミズは、細い体躯をわずかながらに脈動させる。
まるで、あたしの体液を吸い出すかのような…………。
「ケッけっケっえええええ、とリいいィぃあえズぅ拘束かぁぁぁァぁぁン了」
男の声が聞こえるが、それはあまりにも聞き取りずらい、不明瞭な声だった。
めまいがする。
頭の中がくらくらする。
思考が、だんだんと、ままならなくなっていく。
…………視界が、真っ白になった。
◇
先ほどの場所まで戻るのに、時間はかからなかった。
迫る死体の集団を蹴散らし(何故か俺以外の三人は無力化に留めていたが、死体に遠慮することなんてないと思う)件の地点に戻ってみると、そこには誰もいなかった。ただ、リンが持っていたカバンが残されていた。
「ここか?」
テラが、顔を険しくさせて訊いてくる。
声に出しては答えず、頷きを返した。
「どこにもいねえぞ」
「ああ、拐われたか、もしくは……」
殺されたか。
あの死体の軍勢、あれが魔法の類いで、その場で完了させることができるものなら、そんな可能性もなきにしもあらずだ。
リンを殺害して、魔法をかけてあの死体の集団の一員にする。
あいつらはダメージさえなければ動けるみたいだったから、ここから死体を持ち出すのにそう手間はかからない。
……という推測をたててみるが、あくまで想像だ。根拠はどこにもない。
あの死体は、魔法によって製造されているのではないのかもしれない。仮に魔法だとしても、片手間にかけられるほど簡略化していないのかもしれない。可能性を考えればきりがない。
推理ものの漫画にあった言葉だが、どんなに多くの可能性を考えてみても真実という概念はたった一つしかないから、ありのままを受け止めるしかないのだ。
「もしくは、何?」
レンが顔を険しくさせて、訊ねてくる。もう、ほとんど睨まれているようなものだった。
最近ピリピリしてはいたが、やはり機嫌は悪くなってきているようだ。
ここで、素直にリン死亡説を話そうものなら、レンの感情は「不満」から一気に「怒り」に変わるだろう。
「もしくは、俺みたいに吹っ飛ばされたとか?」
即席で取り繕うことができるのは、我ながら大した舌だと思う。
レンの表情は曇ったが、感情の爆発だけは避けられたようだ。
「それ、笑えないな」
テラが言う。
全くその通りだったが、リンなら浮遊魔法を使っていくらか大丈夫なんじゃないだろうか。いや、俺みたいにすぐ状況に順応できるわけじゃないだろうし、とっさの判断で魔法を使えるかどうかもわからない。
俺と違って、リンは吹っ飛ばされたらヤバイかもな。
……そういえば、なんで俺はこんなに動けるんだ?
受け身が上手かったわけでもない――どころか受け身はとれなかった。それなのに、自分の感覚では骨折も打ち身もない。
ここから昆虫エリアの建物まで吹っ飛ばされて、外傷がこんなに軽くて済むとは、俺の身体は俺が思う以上に頑丈になっているというのか?
「とりあえず、探そう」
提案するが、実際は目星がついてるわけでもない。
探そうったって、一体どこを探そうっていうんだ。リンがこの動物園内にいるとは限らない。ここ、プースランドは、エリア1から10まであるんだぞ。広すぎるだろ。
現状では、それ以外に手は思いつかないが。
「……そうだな」
「ええ、そうね」
テラとイルサが、同意の意を返す。レンは押し黙ったままだが、反論の意は窺えない。
「……手分けした方がいいな」
テラとイルサが、頷く。
さて、どこを探そうか。こういうのは一番最初に決めておいた方がいいだろうな。
「えっと、まず、俺は…………」
適当な場所を言おうとして、感じた。
少し遠い。
でも、たしかに感じる。
この気配のような感覚は……。
「あっちの方を探してみる」
その方向を指差して、言う。
「じゃあ、オレは……」
「わたしは……」
「……僕は…………」
それぞれ探す場所を決めて、そして、俺たちは散った。
………………。
一人小走りでエリア10を抜けながら、気配を感じた方向を睨む。
もしかすると、あれは……。
その場所を目指しながら、微かに嫌な予感がするのを、感じた。
◇
騒ぎは動物園内に留まらなかったようだ。
目を覚ました時、あたしはやっぱり、あのビジネススーツを着た男に抱えられていた。
未だにぼーっとする意識で、ここがエリア7の博物館の中であることを認識する。周囲に、人はいなかった。この男が蹴散らしたのか、それとも逃げたのか。
思考は重く、上手く考えを纏めることができない。どうしてしまったんだろう、あたしは。
「ぬア? 目え覚めタカ」
男が、あたしの覚醒に気づく。離してくれないかな、なんてことを思ってみるが、効果はなかった。
さらに、男に付き従うように、あの不気味な群れがいるのに気づいた。
血の気の失せた蒼白なヒトガタたちは、無感動に男に従っている。
意識がだんだんはっきりしてくる。なのに、頭が痛い。重い。
今は、あまり考え事をしたくない気分だった。
例えるなら、かなりレベルの高い難問を長時間かけて解いた直後の、脳内に疲労の塊がまるごと残留しているような、そんなだるさがあった。
しかし、とあたしは無理にでも思考の波を起こした。
この男は、一体何者?
何故こんなことをするのか、目的は何なのか、あたしを捕まえた理由は何か?
回らない頭をフルで回転させて考えてみるが、答えは浮かばない。
あまり深く考えることができないから、混乱するなんてことはないからましかもしれないけど。
「さて、と……」
あたしを抱えたまま、男はぐるりと館内を見回した。
何かを、探している?
「んー、やっぱねエなあー」
やっぱり、何かを探しているようだ。
ぼやけたりはっきりしたりする視界が、黄色いテープのような物を捉える。
そういえば、そんな物もあったっけ。何を、展示してたんだっけ?
扇だったか、剣だったか、鎧だったか……ダメ、思い出せない。
「やっぱ……チカか」
もごもごという音がした。
ふいに視界に入ってきた男の左手は赤黒く、異様に膨れているように思えた。
大きく身体が揺さぶられる。それが何によるものなのかは、わからない。
でも、そのすぐ後、今度は床全体がぐらんと揺れた。
どこか心地のいい浮遊感があたしを包み、かと思ったら重い衝撃があたしの脳を揺らした。不快だ。
「ん、ン~? ど、コダ~?」
男は猫撫で声で、そんなことを言った。
ぼやけた視界が、くっきりとする。
一瞬捉えた視界は、灰色の空間だった。コンクリートでできているらしい壁と、太そうな柱。
おかしいな。あたしは、博物館にいたはずなのに。こんな場所、知らない。
男が歩き出す。
それにつられて、あたしの身体も揺すられる。
男の目的は、何だというのだろう。この人は一体、何を探しているのだろう。
「ん、ん? おオ?」
男の歩みが、ふいに止まる。
何だろう。不審に思って顔を上げてみると、二〇か、三〇メートルほど先に、二人、人がいた。男か女かは、よくわからない。
「いタいた」
何の根拠もなかったけど、あたしはこの男が、あの人たちを殺す気なんだと予感した。
“逃げて”と叫ぶ暇もなかったし、そもそも叫べもしなかっただろう。
男が左手を振り回した。
次の瞬間には、二人の上半身はそこから消失していた。
下半身だけになった二人の人間の身体が、遅れてばたんと倒れた。
日常じゃ、ない。
本当に、殺してしまった。
こんな簡単に。
道端の石ころを蹴るように。
この人は、狂ってる。
「はっハはー、屁でもねーや」
人間二人を殺しておいて、この男は何を言っているの?
思考が正常に働かないからか、不思議と何も感じなかった。もし思考が正常だったら、吐き気を催したりするのだろうか。
「うん、と……あったあった。コれね」
男が、何かを手に取った。とても大きくて長い、アタッシュケースのような箱だ。
先ほどの二人が運んでいた物だろうか。
「おっし、ウむ、これでよーシ」
箱を左手に持って、男は踵を返す。
「撤収スるぞ! おらオまえら行くゾ!」
不気味な集団に、そう叫ぶ。
その時、状況が動いた。
男が発したのは「お?」という呟きだけ。
それだけだったが、その呟きの根源にある現象は、驚くべきものだったのかもしれない。
あたしの視界は、突如として出現した黒い影の形を捕まえた。
そして…………しゅん、という風を斬るような音だった。
直後、視界の中の光景が目まぐるしいほどに回った。
◇
大理石でできた床は、俺が館内に入った時点でめちゃくちゃな状態だった。
あちこち亀裂が走り、瓦礫が落ち、大きな穴が開いている箇所さえある。その大穴は階下にまで貫通していたらしく、故に俺はその穴から飛び降りてきたわけだが……。
灰色の空間――おそらくは地下の空間は、俺が思っている以上に広かった。
照明は上の階ほど強くはなく、しかし薄暗いというほど弱くもない。
なんとなく、「地下通路」という単語を連想した。
そして、この空間には俺より先に侵入した先駆者がいて、そいつは俺の連れを捕らえていたようだ。
例の背広を着た青年、リンを左手に抱えた吸血鬼の使徒は、右手にも横に長いアタッシュケースめいた箱を持っていた。それに、死体の軍勢が数体。すぐ側に、下半身と上半身を引き裂かれた死体が二人分。
落下の最中に状況を確認して、
着地と同時に、先制攻撃を放った。
錬気で作り出した巨大な腕を、薙ぎ払うような軌道で動かす。
果たして、背広の男以外はそれで倒した。
明確な意思を持たない彼らは、一方的で単純な動作しか行えない。相手の攻撃に対処どころか反応することさえ、彼らにとってしてみれば神業の域なのだ。
唯一、背広の男だけは反応した。その速度は、一般的にみても驚くべき反応速度だった。
「お?」と、男は緊張感の抜けた声を出す。
俺と男との距離は、目測で約二〇メートル。俺にしてみれば錬気を使わなければ攻撃できない間合い、奴にしてみれば使徒の身体能力で瞬時に詰められる距離。
あまり、好ましい状況じゃないな。
「おオ? さっきの坊主かア」
相も変わらず、ハイなテンションで青年は言う。
「はハハ、まあヤッパ来ちマうなあオイ。どうだ、自己紹介デもするか?」
何言ってんだこいつ。
頭がおかしいのか。
俺はさぞ怪訝そうな表情になったことだろうが、背広を着た青年は構わずに名乗りを上げた。
「オレはサー、バギーってんだよ。ヘルヘイムってとこの、まあまだ下っ端だがよ、いづれはカリンちゃんと同じくらいの……て、そこまで言わなくてもいいんだよ!」
……知らんがな。お前が勝手に言ったことだろうが。
ヘルヘイム? 久しぶりに、北欧神話の言葉を聞いたような気がする。
「おめえは?」
答えない。答える必要性などもともとない。
返答する代わりに、もう一度錬気の腕をふるった。
「質問には……」
背広を着た青年、バギーは、リンを抱えたまま俺の一撃を避ける。
「ちゃんと答えろよ!!」
バギーが反撃する。
既に出していた三本の羽骨が、俺のもとへと迫る。
ほとんど全てを紙一重で避けきると、俺のすぐ目の前には、もうバギーが迫っていた。
「おラあ!」
左拳が振り抜かれる。左手に持っていた横に長いケースのような物は、器用にもリンを抱えている右手に持ち変えていた。
こいつの拳の威力は充分に体験している。
今度は防御するなんて選択はない。
バギーの拳は俺の顔面を狙って振り抜かれていた。顔を左に傾けてかわすと、予想外の回避だったのか、バギーは「おオゥ?」と驚くように漏らした。
そこに、隙が生まれる。
錬気で作り出した腕を、バギーの抱えるリンへと伸ばす。
バギーは、身体を大きく反らすことでその手をかわそうとするか、 錬気の腕は代わりにケース本体部をむんずと掴んだ。
「あっ!」
バギーの声には、焦燥が感じられた。
横長のアタッシュケースめいた箱の本体部分を掴む俺と、取っ手を握りしめるバギーとの間で、短い綱引きが起こった。
結果、取っ手は根本からバキッ、という音をたてて外れた。
「っっっ!」
バギーの両目が、カッ、と開かれる。
「よこせえェぇぇえ!」
憤怒の形相、それを観察する間もなく、俺の視界は風を斬ってこちらに迫る三本の羽骨を確認していた。
相当、この箱の中身が大事なようだな。
羽骨の軌道は単純で、一つ一つを的確に意識していればまず回避できる速度だった。
三つの、ミミズめいた触手をかわし、バギーから距離を取る。
それにしても、どうしてバギーはリンを使ってこないのか。あちらがノーアクションだから遠慮なく動いているが、人質まがいの扱い方をされればさすがに俺も動けなくなるというのに。知りもしない他人ならいざ知らず、リンは知り合い以上に親友なのだから。
そんなことを考えていると――突如、視界の端に大きな光の爆発が煌めいた。
足に力を込め、さらに後ろへ跳躍する。
距離を詰めようとしたバギーに、魔法の弾丸が突き刺さった。
「があっ!」
よくよく観察してみれば、魔法球は全てバギーのみを撃ち、リンには一切の被害を出していなかった。
その隙を見逃さずに、俺はひとまずの離脱を計った。
柱の陰に身を隠して、バギーの様子を窺う。
俺と奴とは、現在五〇メートルほどの距離がある。
とりあえず落ち着いて、状況を整理してみよう。
あいつの狙いは、このアタッシュケースのような横長の箱(小破)、ということでいいんだろう。大事そうにしていたし、俺に奪われた瞬間に見せた形相は相当に焦っていた。
対するこちらは、事実的にはリンを人質に取られている形になる。
つまり、お互いに欲しいものを持って牽制し合ってる――なんて状況だったら少しはよかったんだが。
実際のところはそんな甘くないだろう。俺と、あいつの実力差を考えれば。
俺の能力では、使徒と真っ向から渡り合うことはできない。
腕力や戦闘技術以上の問題で、あいつの戦闘に俺は着いていくことができないのだ。持久戦になればまず音を上げるのはこちらだし、短期決戦をしてみても奴を一撃で仕留められるほどの手札があるわけでもない。
……それに、あちらがリンを本格的な人質として利用すれば、俺が身動きが取れなくなってしまうのは確実だ。
このケースがあいつにとってどこまで人質の代わりになるかもわからないし。もしかすれば、多少の損傷は妥協してくるかもしれない。
ていうかあいつはどうしてリンを抱えたままなんだ?
人質にするんじゃないのか。それ以外の用途に利用するってのか。人体実験?
まさか、人質として使うことを思いついてないってわけじゃないよな。だとしたらモノホンの莫迦だが。いや、もしかするとあり得るかも?
「兄さん」
背後から小さく呼びかけられた声に、俺の意識は一瞬、ぎょっと硬直した。
声の主を向いて、こちらも小さな声で答える。
「レン」
俺の弟は、緊張したような表情で俺の顔を見返してきた。
「あいつは、誰?」
バギーのいる方向を向く。
「バギーって、いうらしい。さっき言った背広着た男だよ。どうやら、リンはあいつに捕まったらしいな」
ぎりっ、と歯ぎしりする音が聞こえる。
「落ちつけよ、レン。あの触手を見りゃわかるだろ。あいつは人間じゃない。下手に手を出せないぜ、これは」
「じゃあ、何もせずに指をくわえてるってこと?」
「いや、今のところリンを人質として利用するそぶりはないみたいだし、あいつ、このケースに執着してるみたいだし、もしかしたらリンと交換できるかもしれない」
取っ手がとれた箱を撫でながら、説明する。
「上手くいくの?」
「わからん。あいつの中でこれがどれくらいの価値があるのかわかんねえからな。傷が付いても構わないって考えだったら力づくで奪いに来るかもしれない」
その場合、リンを渡さない理由があるという前提条件がついてしまうが。奴がリンを人質として使わないのが、単なる奴の知恵不足であることを願おう。
「俺が行ってみるから、レンはもしもの時頼む」
返事の代わりに、レンは一回だけ頷いた。
だが、俺が頷き返す前に、バギーの方に動きがあった。
「おらア! 出てきやがれ! でネえとこの女の命アねえぞ!」
らっと、リンの使い方に気づいたらしい。阿呆め。




