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常磐道

作者: 羽生河四ノ

常磐道っていうタイトルの話を書きたかったのです。

 ある日、私は面白いニュースを見た。『高速道路を逆送する車の65%以上が65歳以上の老人』というニュースだ。

 そして、そのニュースを見て私は沸き立った。これはチャンスだとはしゃいだ。ジャンプとかガッツポーズをした。

 それというのも私も車を運転する人間だからだ。そして私の年齢も65歳をとっくに過ぎている。そして、重要なのは自身のこれからを考えると、この辺がいい引き際なのではないかと思っていることだ。

 つまり、

 私はもう死にたいのだ。

 そして、自殺をしたいのだ。

 しかし自殺をしたいと言っても若者の言う『ソレ』のようなネガティブな理由では無い。私自身が思うに自分の人生には不安を感じているような余裕もなかったし、なにかを考えているような余裕もなかった。私の人生は流れ星のようだったと思う。だが、これから先の自分の人生に何の不安も感じないのかと言えばそれは嘘になる。でも、だからこそ幕引きは自分でしたい。おかしいだろうか?いや、そう考えるのはあまり意外なことではないはずだ。それに自分の死期を意識しないで死ぬ人間ほど悲しいものはない。

 だからこれは、

 『もういいだろう?人間は引き際が大事なんじゃないのか?』

 という思いからの自殺だ。

 それはネガティブなことではない。

 私は妻と結婚もしたし、家も買ったし、子供を育てるために仕事もした。

 例え小さくても、チンケでも、

 私は残すものは残したはずだ。

 人間って言うのはよく長生きをしたがる。しかし引き際を誤ると、それによって自分ひとりではどうにもならない状態になるものだ。だから私はその前に、死にたい。これは希望のある自殺では無いだろうか?子供たちもろくに帰ってこない家でひとりで暮らし、いつ死んだかもわからないように死んで、そして時間をかけてブルーチーズ人間になるよりはましだろうし、家財も一切合財全部処分して、そして愛車も廃車にするくらいの勢いでぱっと死ねたらそれはとても素敵なことだ。

 だから私はそのニュースが世の中の記憶に残っているうちに自らも高速道路を逆走して死ぬことにした。

 というか、今しかない。

 このニュースが世間の長生きしたがりの人間たちの記憶に残っているうちに、私がそれをすることに意味がある。

 もちろん誰にも迷惑を掛けたくない人間が選ぶ死に方では無いだろう。でも私は別に誰にも迷惑を掛けたくない人間ではない。特に死ぬならなおさらだ。65歳以上の運転する車が高速道路を逆送したところで、それは痴呆症か認知症という判断をされる。そのことに意味がある。

 私には息子と娘が一人づついる。彼らはいつからから私のことを汚いものでも見るようになった。それだけならまだしも、ともすれば私のことを老人ホームに押し込もうとすらするようになった。私自身が私の人生に見切りをつけたように、やつらにとっても、既に私のことなどはどうでもよく、奴らはただ私の建てたこの家とこの土地というものが欲しいのだ。

 人間は死んだら終わりだ。来世などあってもらっては困る。だから私が死んでからなら何をどのようにしてもらっても構わないだろう。位牌を海にまいてもらっても構わないし、墓参りに行かなくても構わない。忘れてもらってもいい。しかし、まだ私が生きているうちから私の存在を邪険にし、そして『頼むからはやくいなくなってくれ』と願うのであれば、

 それは、

 こちらにも考えがあると言うものだ。

 例え、私が嫌いだったとしても、私が全く家庭を顧みなかった父親だったとしても、いつも仕事で二人に幼少時代のいい思い出がなかったとしても、私が妻の葬式で泣かなかったとしてもだ。

 

 全く、これだから長生きなどするべきではないというのだ。


 夜中、私は玄関の鍵をかけずに家を出た。そして家の脇の粗末な車庫のシャッターを静かに開ける。そこにある日産のセドリックの運転席に寝間着姿のまま乗り込む。そこで私は長年自分が乗っていた愛車のハンドルを撫でた。

 暗い車庫で私はしばらくそうしていた。

 私同様、その車もずいぶんと疲れていた。実際この車は、本当はもうとっくの昔に廃車になっていても構わなかった。それを、私が毎回少し余分に金銭を払い無理やり車検を通していたのだ。しかしだからこそ、今回は私と一緒に死んでくれても構わないだろう。いや、むしろ私がこの車ではなくてはいけない。私が死ぬのにこの車以外はありえないのだ。

 キーを差し込んでひねる。エンジンがかかる。

 この頃はいつもエンジンのかかりの悪かった愛車がその日は調子よく一発でエンジンがかかった。私にはそれがなんとも愛おしく思えた。

 車庫を閉めることもせず、その深夜、私は愛車を発進させた。


 三郷インターチェンジの前で私は少し仮眠を取った。すると不思議なことについ最近一緒に金婚式をした妻の夢を見た。

 「みさと」で仮眠を取ったのはまずかったな。私はその夢から目覚めてそう思った。その妻は金婚式の一ヵ月後に死んだ。ある朝、妻は寝床で死んでいた。それを発見したのは私だ。きっと私の人生もこの時一緒に終わったのだ。私の人生は私一人のものではない。妻が死んだとき私はそのことを痛感した。遅すぎるくらいだった。


 不思議なことが起こった。いや、現在も起こっている。私が今走っている常磐道には22のトンネルがある。そして最初のトンネルは「三郷JCT-流山IC」区間にある。私の愛車がそのトンネルを猛スピードで逆走しているとき、私の脳みその中でおかしな映像が再生された。その映像とは私と妻の結婚一年目のときの映像であった。最初私はは自分が何かしらの感傷に浸っているのかと思った。

 しかし、その次の「流山IC-柏IC」にはトンネルが四本あり、それを通ったとき、私は分かった。二本目のトンネルを通ったとき、結婚二年目の映像が頭の中で流れた、三本目を通ったとき、三年目の映像が流れた。四本目のトンネルを通ったとき、四年目の映像。五本目、五年目。そしてその映像の中で、それぞれにまぎれているものがあった。一年目、紙。二年目、綿。三年目、皮。四年目、花。五年目、木・・・。これは・・・そうだ・・・結婚記念日だ。


 つまり、二十二本目のトンネルを通過する際には、私はついこの間見た、金婚式の映像が流れる。さっきの夢の映像がまた流れる。そういうことになるのではないか?

 

 見たい。

 

 死んでも、見たい。

 

 最愛の妻との金婚式。

 

 それを見たら死んでもいい。


 

 最初はただ死にたかった。息子や娘に迷惑をかけて死にたかった。しかし私に、いやこんな私にも生きる目的が出来た。「いわき四倉IC-広野IC」間に二十二本目のトンネルがある。


 そこまでは生きなくては。

 

 もう私とこの車以外のことなどどうでもいい。死んだら終わりだ。天国も地獄もあるわけが無い。来世だって無い。少なくとも信心深い人間にしかありえないことだろう。私には必要ないことだ。

 セドリックは不思議とすごく調子よく走り続けた。こちらに向かってくる車のほとんどは壁にぶつかって炎上したり反対車線に突っ込んだりした。私のセドリックもサイドミラーが取れたり火花を噴いたりはした。しかし私はアクセルを緩めなかったし、ブレーキも踏まなかった。

 ほかの誰が死んだとしたって、私には今、二十二番目のトンネルまで死ねない理由がある。そういう生きる目的が出来たのだから。

 柏インターチェンジを過ぎたあたりから街頭がなくなり、あたりは本当に真っ暗になった。セドリックの左側のヘッドライトも壊れかけており、点滅している。限界はすぐそこに訪れているようだ。

 しかし、まだ今は限界ではない。限界でない以上、私は決してこのアクセルを踏む足を緩めたりはしない。限界には悪いが、仙台市くらいで待っていてもらえるとありがたいが・・・。

夏に見たニュースから考えました。なので夏に書けたらもう少しタイムリーだったと思います。

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