「妹の幸せを優先しろ」と婚約者に言われたので、私も自分の幸せを優先することにしました
降りしきる雨が、晩秋の庭を灰色に塗り込めていた。
暖炉の火がはぜる音だけが、静まり返った客間に響いている。
テーブルを挟んで座る婚約者――侯爵家の嫡男ヴィンセントは、冷めかけた紅茶に手をつけることもなく、私を見下すように告げた。
「アリス、来月の王立舞踏会だが、君は留守番だ。エミリアを私のパートナーとして連れていくことにした」
あまりにも当然のような口調だった。
私は膝の上で指先を握りしめた。
「……ヴィンセント様。あの舞踏会は、ランカスター伯爵家と貴方の侯爵家が、正式な婚約を社交界に披露するための場だったはずですけれど」
「状況が変わったんだ」
ヴィンセントは面倒そうにため息をついた。
「エミリアがどうしても行きたいと泣いている。あの子は体が弱く、これまで華やかな夜会に出る機会がなかっただろう? 君は健康なのだから、一度くらい譲ってやればいい」
健康なのだから。
また、その言葉だ。
二歳年下の妹、エミリア。
金糸のような巻き毛に、大きな垂れ目。幼い頃から病弱だった妹は、両親にとって何よりも大切な宝物だった。
妹が熱を出せば、屋敷中が大騒ぎになった。
妹が泣けば、誰かが必ず願いを叶えた。
そして、その願いを叶えるために何かを差し出すのは、いつも私だった。
幼い頃はお気に入りの人形だった。
次はドレス。
次は宝石。
やがて、日当たりのよい部屋も、母と過ごす時間も、父からの労いの言葉さえも、すべて妹に譲ることが当たり前になった。
「お姉様は丈夫なのだから」
「エミリアは可哀想なのよ」
「姉なのだから、妹を優先しなさい」
その言葉を聞くたび、私は自分の欲しいものを口にすることをやめていった。
代わりに、仕事を覚えた。
父が放り出した領地の帳簿を整理し、滞納された税の理由を調べ、商人との取引条件を見直した。
荒れた農地に新しい灌漑設備を導入し、冬場に収入を失う農民たちには羊毛加工の仕事を用意した。
三年かけて、赤字続きだったランカスター領の財政を立て直した。
けれど父は、一度も私を褒めなかった。
「女のくせに帳簿ばかり眺めて、可愛げのない娘だ」
それが、私に与えられた評価だった。
「アリス、聞いているのか?」
ヴィンセントの声で、私は現実に引き戻された。
「エミリアは君を慕っているんだぞ。姉なら、妹の幸せを喜ぶべきだろう」
今朝、エミリアは私の部屋に駆け込んできた。
『お姉様、お願い……! 私、一度でいいから、ヴィンセント様と王宮のシャンデリアの下で踊ってみたいの……!』
その頬には大粒の涙が流れていた。
けれど、私の返事を待つ前から、彼女の視線は衣装棚に掛けられた特注のドレスへ向けられていた。
淡い青色のシルク。
母が初めて私のために選んでくれたと思っていた、婚約披露用のドレス。
『それに、お姉様のドレス、とても素敵だわ……』
その一言で、すべてを理解した。
妹が欲しかったのは、舞踏会への出席だけではなかったのだ。
「ヴィンセント様」
私はゆっくりと顔を上げた。
「妹を伴って出席なされば、社交界では私との婚約が解消されたと受け取られかねません。私の立場を、どのようにお考えですか?」
「立場?」
彼は呆れたように鼻を鳴らした。
「君は本当に世間体ばかり気にする女だな。妹を思いやる慈悲の心すらないのか?」
「ですが――」
「いいか、アリス。妹の幸せを優先しろ。それができないなら、君には侯爵夫人になる資格などない」
その瞬間だった。
胸の奥で、何かがぷつりと切れた。
不思議なほど、痛みはなかった。
むしろ、長い間胸に押し込めていた重い石が、音もなく消えたような感覚だった。
私はずっと、誰かに認めてほしかった。
父に。
母に。
婚約者に。
いつか努力が報われれば、きっと愛してもらえると信じていた。
けれど、違ったのだ。
私がどれほど差し出しても、この人たちは次の何かを欲しがる。
私が我慢する限り、我慢することが当然になる。
ならば。
もう、やめよう。
「……分かりました」
私が静かに答えると、ヴィンセントは満足げに笑った。
「最初から素直に従えばよかったんだ。では、エミリアのドレスだが、君のものを仕立て直せば――」
「いいえ、ヴィンセント様」
私は背筋を伸ばした。
「妹の幸せを優先しろと仰るなら、私も、自分の幸せを優先することにいたしました」
「……は?」
「貴方との婚約を解消いたします」
ヴィンセントの顔から笑みが消えた。
そして、次の瞬間には大声で笑い出した。
「ははっ! 何を言い出すかと思えば! 君のような地味で愛嬌のない女が、侯爵家との縁談を断るだと? そんなことをして、どうやって生きていくつもりだ!」
「仕事をして、生きていきます」
「馬鹿な! 伯爵家の娘が、家の許可もなく勝手に――」
「許可なら、いただいております」
私はテーブルの脇に置いていた書類入れから、一枚の羊皮紙を取り出した。
父の署名と、ランカスター伯爵家の正式な印章が押された書類だった。
三か月前。
領地の運転資金が不足し、父が私に泣きついてきたことがあった。
『アリス、何とかしろ。お前は金勘定が得意なのだろう』
私は私名義で積み立てていた報酬と、商取引で得た資金を貸し付ける代わりに、ある条件を提示した。
婚姻に関する私自身の拒否権。
そして、伯爵家から独立する自由。
父はろくに内容も確かめず、署名した。
『そんなもの、好きにしろ。どうせお前は家を出られん』
そう笑っていた。
けれど私は、その書類を王都の公証役場に登録し、婚約契約に関わる両家の承認条項についても、必要な手続きを進めていた。
婚約の解消には正式な届け出が必要だが、私の意思に反して婚姻を強制することは、もうできない。
「こちらは、父が承認した独立の証書です。婚約解消の申し立ても、本日付で提出いたします」
「な……っ!」
ヴィンセントが椅子を蹴って立ち上がった。
「待て! 君が家を出たら、ランカスター領の帳簿は誰が管理するんだ!?」
「さあ」
私は小さく首を傾げた。
「エミリア様がいらっしゃるではありませんか」
「エミリアにできるわけがないだろう!」
「まあ。不思議なことを仰いますのね」
私は微笑んだ。
「妹は私よりずっと優秀で、愛らしく、誰からも愛される存在なのでしょう?」
「それと領地経営は別だ!」
「では、これからはエミリア様が『愛らしさ』で税を集め、お父様が『慈悲の心』で借金を返済なさればよろしいのではありませんか?」
ヴィンセントが言葉を失った。
私は立ち上がり、淑女の礼をした。
「ごきげんよう、ヴィンセント様。どうぞエミリア様と、お幸せに」
客間の扉を開けると、廊下には両親とエミリアが立っていた。
聞き耳を立てていたのだろう。
母は真っ青な顔で私を睨んだ。
「アリス! 何という勝手なことを!」
「お姉様……私のせいで怒っているの……?」
エミリアの瞳に涙が浮かぶ。
いつもの光景だった。
いつもなら、私はここで謝っていた。
けれど、今日は違う。
「いいえ、エミリア」
私は妹を見つめた。
「もう怒っていないわ」
妹の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、お姉様――」
「ただ、あなたのために何かを差し出すことを、やめただけよ」
その笑顔が凍りついた。
私は用意しておいた小さな鞄を手に取り、屋敷を後にした。
雨は、いつの間にか上がっていた。
濡れた石畳に夕陽が反射している。
冷たい風が頬を撫でた。
それでも私は、生まれて初めて、心の底から息ができた気がした。
---
王都に着いた翌朝、私は大商人フェリクスの商館を訪ねた。
彼とはランカスター領の羊毛取引を通じて、三年前から面識があった。
「アリス嬢? 本当に家を出たのかい?」
琥珀色の瞳を丸くしたフェリクスに、私は持参した帳簿を差し出した。
「はい。ですので、本日は仕事の相談に参りました」
「仕事?」
「私を雇っていただけませんか。領地経営で培った知識と、商人との交渉経験はございます」
フェリクスはしばらく黙って私を見つめていた。
やがて、楽しそうに笑った。
「なるほど。君らしい」
けれど、その表情はすぐに真剣なものへ変わった。
「君の能力は知っている。ただし、私が君を評価していても、商会の人間が同じとは限らない」
「承知しております」
「最初から共同経営者にはできない。それでもいいかい?」
「もちろんです」
私は迷わず答えた。
「肩書ではなく、仕事の成果で評価していただけるなら、それで十分です」
フェリクスは一瞬目を見開き、それから右手を差し出した。
「ようこそ、我が商会へ」
その手を握ったとき、私はようやく、自分の人生が始まったのだと思った。
しかし、現実は甘くなかった。
「伯爵家のお嬢様に、商売が分かるのですか?」
最初の会議でそう言ったのは、商会の古参幹部であるグレゴリーだった。
「帳簿を少し触った程度で、我々の仕事に口を出されては困りますな」
周囲からも、控えめな失笑が漏れた。
私は悔しさを飲み込んだ。
そして、机に積まれた仕入れ記録を手に取った。
「では、一つ質問してもよろしいでしょうか」
「何ですかな?」
「昨年から、北部産の羊毛の仕入れ価格が一割以上上昇しています。ですが、輸送費はほとんど変わっておりません。これはなぜですか?」
グレゴリーは眉をひそめた。
「仲介商人が価格を引き上げたからでしょう」
「では、その仲介商人を通す必要はありますか?」
「何?」
私は地図を広げた。
「北部の羊毛生産地から王都へ運ぶ際、現在は三つの商会を経由しています。しかし、この河川輸送路を使えば、二つの中継地点を省略できます」
「そんなことは分かっている! だが、河川輸送には冬季の凍結という問題が――」
「はい。ですから、凍結前に王都近郊の倉庫へ運び、冬場に段階的に出荷します。保管料を加えても、現在より費用を抑えられる見込みです」
私は用意してきた試算表を差し出した。
「ただし、現地の生産者との直接契約が必要です。そこは私に交渉を任せていただけませんか?」
会議室が静まり返った。
グレゴリーは試算表を眺め、鼻を鳴らした。
「机上の空論ですな」
「でしたら、結果で証明いたします」
私は彼の目をまっすぐ見た。
「三か月ください」
---
三か月間、私は働き続けた。
朝は誰よりも早く商館に入り、夜は最後まで帳簿を確認した。
北部の生産者に何通も手紙を書き、実際に現地へ足を運んだ。
交渉を断られたこともある。
貴族出身の若い女だからと、話すら聞いてもらえなかったこともあった。
ある日は、取引先から追い返された帰り道で、激しい雨に降られた。
ずぶ濡れになって商館へ戻ると、フェリクスが玄関で待っていた。
「君は、少し働きすぎだ」
差し出された乾いた上着を受け取りながら、私は苦笑した。
「まだ成果が出ておりませんから」
「だからといって、倒れては意味がない」
「私は丈夫ですので」
そう答えた瞬間、フェリクスの表情が変わった。
「アリス」
彼は静かに言った。
「丈夫な人間なら、無理をしていいというわけじゃない」
私は言葉を失った。
これまで何度も聞いてきた言葉。
丈夫なのだから。
我慢できるのだから。
あなたなら大丈夫なのだから。
けれど、そんな私に、無理をしなくていいと言ってくれた人は初めてだった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
フェリクスはそれ以上何も聞かず、温かいハーブティーを淹れてくれた。
その夜、私は久しぶりに、仕事をせずに眠った。
---
三か月後。
北部の羊毛生産者との直接契約が成立した。
輸送路の変更と倉庫の確保によって、仕入れ費用は当初の試算に近い水準まで削減された。
冬物商品の利益率も改善し、商会の取引先は増えた。
成果報告の会議で、グレゴリーは長い沈黙の後、深々と頭を下げた。
「……私の見識が狭かったようです」
私は驚いた。
「グレゴリー様?」
「貴女を侮っておりました。申し訳ありません」
そして彼は、少しだけ笑った。
「次の仕入れ計画も、ぜひ相談に乗っていただきたい」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
誰かが、私の努力を認めてくれた。
家柄でも、容姿でも、誰かの姉であることでもなく。
私自身の仕事を。
その日の夕方、フェリクスが一枚の契約書を持ってきた。
「アリス、君に共同経営者になってほしい」
私は目を瞬かせた。
「……私が、ですか?」
「君以外に誰がいる?」
彼は笑った。
「ただし、私の提案にも遠慮なく反対してもらうよ。共同経営者というのは、言いなりになる人間のことじゃないからね」
私は思わず笑ってしまった。
「それでしたら、すでに一つ反対したい案件がございます」
「おや、早速かい?」
「西部の鉱石輸送事業です。現状の見積もりでは危険が大きすぎます」
「なるほど。では、明日の朝から議論しよう」
「ええ。望むところです」
私たちは顔を見合わせて笑った。
そのとき初めて、私は誰かと対等に向き合う喜びを知った。
---
それからさらに三か月が過ぎた。
王都の大通りに面した商館の最上階で、私は決算書を確認していた。
窓の外には、澄み渡る青空が広がっている。
「アリス代表、北部の羊毛契約ですが、来期分の更新もまとまりました」
フェリクスがハーブティーを置いた。
「ありがとうございます。では、次は南部の市場ですね」
「まったく、君には休むという発想がないのかな」
「休んでおりますよ。昨日は半日も」
「半日を自慢されても困るね」
そんなやり取りをしていたときだった。
階下から、怒鳴り声が聞こえた。
「アリスを出せ! アリス・ランカスターはここにいるんだろう!」
私は書類から顔を上げた。
聞き覚えのある声だった。
フェリクスが眉をひそめる。
「追い返そうか?」
私は少し考え、首を振った。
「いいえ。お通ししてください」
やがて扉が開き、一人の男が飛び込んできた。
ヴィンセントだった。
かつての華やかさは見る影もない。
上等な上着には皺が寄り、目の下には濃い隈ができていた。
「アリス……! やっと見つけたぞ!」
彼は私の机に駆け寄った。
「頼む! ランカスター家に戻ってくれ!」
私は静かにティーカップを置いた。
「お断りいたします」
「話を聞いてくれ! 領地が大変なことになっているんだ!」
「そうですか」
「そうですか、じゃない!」
ヴィンセントは頭を抱えた。
「エミリアの奴、帳簿の数字すらまともに読めないんだ! 父親は領地の経営を放り出し、母親は宝石を買い続けている! エミリアは領民の陳情を泣いて追い返し、貴族相手の見栄のために借金まで重ねた!」
私は黙って聞いていた。
「しかも、うちの侯爵家まで巻き込まれているんだ! エミリアに頼まれて、父上に黙って保証人の書類に署名してしまって……!」
「まあ」
私は眉を上げた。
「大変ですこと」
「他人事みたいに言うな!」
「他人事ですもの」
ヴィンセントが息を呑んだ。
私は穏やかに続けた。
「私はもう、ランカスター家の人間ではございません」
「そんな冷たいことを言うな! 家族だろう!」
その言葉に、私は思わず笑いそうになった。
家族。
私が助けを求めたときには、誰も手を差し伸べなかった。
私が泣くことを許されなかった家。
私が働いて当然だった家。
それが、困った途端に家族になるというのか。
「ヴィンセント様」
私は静かに告げた。
「妹の幸せを優先するのが、貴方の望みだったのでしょう?」
「それは……」
「でしたら、どうぞ最後まで支えて差し上げてくださいませ」
「無理だ!」
彼は叫んだ。
「あんな我儘な女、誰が支えられる! 泣けば許されると思っているんだ! 毎日宝石をねだり、思い通りにならなければ癇癪を起こす! あいつは何もできない!」
「随分な言い草ですこと」
「お前がいなくなって初めて分かったんだ!」
ヴィンセントは私の手を取ろうとした。
しかし、その手をフェリクスが静かに遮った。
「我が商会の代表に、無作法な真似はお控え願えますか」
「商人風情が貴族に指図する気か!」
フェリクスは表情を変えなかった。
「現在、ランカスター伯爵家の債権の大半を保有しているのは、我が商会です」
ヴィンセントの顔色が変わった。
「……何?」
「債権者から正規の手続きで譲り受けました。返済期限は来月末。返済がなければ、契約と法令に従い、担保財産の処分を申し立てることになります」
「そ、そんな……!」
「そして、貴方が署名した保証契約も確認しております。保証の範囲内で、侯爵家側にも請求が及ぶ可能性があります」
ヴィンセントの膝が震えた。
「俺は……ただ、エミリアに頼まれて……」
「署名なさる前に、内容を確認すべきでしたね」
私は淡々と言った。
「ご自身の判断には、ご自身で責任をお持ちください」
ヴィンセントは力なく膝をついた。
「アリス……頼む。許してくれ」
私は何も答えなかった。
「俺が間違っていた。舞踏会も、お前と行くべきだった。お前がどれほど大切だったか、今なら分かるんだ」
彼は縋るように私を見上げた。
「もう一度、やり直そう。結婚してくれ。侯爵夫人として、何不自由ない暮らしを――」
「お断りいたします」
私は最後まで聞かなかった。
「私はもう、自分の人生を誰かに預けるつもりはございません」
「アリス……!」
「それに、ヴィンセント様」
私は彼を見つめた。
「貴方が必要としているのは、私ではありません。貴方の代わりに問題を解決し、何も言わずに働いてくれる人間でしょう?」
彼は答えられなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
「お引き取りください」
フェリクスが衛兵を呼んだ。
ヴィンセントはなおも何か叫んでいたが、その声はやがて廊下の向こうへ消えていった。
私は静かに息を吐いた。
これで終わり。
そう思った。
けれど、その三日後。
今度は妹がやってきた。
---
「お姉様……!」
商館の応接室に入るなり、エミリアは私に駆け寄ろうとした。
以前のような豪華なドレスではなかった。
それでも、耳には高価そうな真珠の飾りが揺れていた。
「お姉様、会いたかったわ……!」
大きな瞳から涙がこぼれる。
「お父様もお母様も、毎日喧嘩ばかりなの。ヴィンセント様まで私を責めるのよ……!」
私は向かいの椅子を勧めた。
「そう」
「ひどいと思わない? 私、何も悪いことなんてしていないのに……!」
エミリアは涙を拭った。
「お姉様が帰ってきてくれれば、きっと全部元通りになるわ」
「元通り?」
「ええ! お姉様は帳簿が得意でしょう? 借金を何とかして、お父様たちを安心させてあげて。それからヴィンセント様にも説明してほしいの。私が悪くないって」
私は妹を見つめた。
「エミリア」
「なあに、お姉様?」
「あなたは、私に謝ることはないの?」
妹はきょとんとした。
「……どうして?」
その顔には、本当に疑問しか浮かんでいなかった。
「舞踏会のことも、婚約者のことも、私が何を失ったかも、考えたことはないの?」
「だって……お姉様は丈夫でしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた最後の何かが、静かに消えた。
エミリアは続けた。
「お姉様なら平気だと思ったの。私と違って、何でもできるんだもの。それに、お姉様はいつも譲ってくれたじゃない」
「そうね」
私は頷いた。
「ずっと譲ってきたわ」
「でしょう? だから今回も――」
「でも、もう譲らない」
エミリアの口が止まった。
「……え?」
「あなたが欲しいものを、私が差し出す理由はもうないの」
「お姉様……?」
「私はあなたの姉だけれど、あなたの人生の責任者ではないわ」
エミリアの目に、みるみる涙が溜まっていく。
「ひどい……! お姉様まで私を見捨てるの……?」
私は静かに首を振った。
「見捨てるのではないわ。自分の人生を、あなた自身に返すのよ」
「そんなの、分からない……!」
妹は泣き崩れた。
いつもなら、私は抱きしめていただろう。
大丈夫よ、と言って。
私が何とかするから、と約束して。
けれど、私は立ち上がらなかった。
ただ、妹が泣き終わるまで待った。
やがてエミリアは、何度も振り返りながら応接室を出ていった。
最後まで、謝罪の言葉はなかった。
私は窓の外を見た。
不思議と、悲しくはなかった。
妹が変わるかどうかは、妹自身が決めることだ。
もう、私が背負うことではない。
---
その日の夕方。
フェリクスが執務室にやってきた。
「エミリア嬢は帰ったようだね」
「ええ」
「大丈夫かい?」
私は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「はい。思っていたより、ずっと」
フェリクスは安心したように笑った。
「それならよかった」
彼は私の机に一枚の書類を置いた。
「ところで、南部市場への進出計画なんだが」
私は目を通し、すぐに眉をひそめた。
「フェリクス。これは少々強引ではありませんか?」
「そうかな?」
「輸送費の見積もりが甘いです。雨季の道路事情を考慮しておりません」
「なるほど。では、君ならどうする?」
「まずは小規模な取引から始めます。利益率よりも、安定した供給網の確保を優先すべきです」
フェリクスはしばらく考え込んだ。
そして、楽しそうに笑った。
「やはり、君を共同経営者にして正解だった」
「褒めても、予算は増やしませんよ」
「手厳しいな」
二人で笑い合った。
その何気ない時間が、私は好きだった。
誰かの顔色をうかがう必要がない。
意見が違えば議論し、間違っていれば認める。
自分の努力が、自分の成果になる。
そして、疲れたときには休んでもいい。
かつての私が、何よりも欲しかったものだった。
「アリス」
フェリクスが窓の外を見ながら言った。
「君は、これからどんな人生を送りたい?」
私は少しだけ考えた。
以前の私なら、きっと答えられなかっただろう。
誰かの役に立つこと。
誰かに褒めてもらうこと。
誰かの期待に応えること。
それが、自分の人生だと思っていたから。
けれど、今は違う。
「そうですね」
私は微笑んだ。
「まずは、この商会を王国一の商会にしたいです」
「それは頼もしい」
「それから、いつか自分の家を建てたいです。大きくなくても構いません。日当たりのよい部屋があって、好きな本を並べられる書斎があって……」
私は少し照れくさくなった。
「誰にも、譲らなくていい家が欲しいのです」
フェリクスは、しばらく黙っていた。
やがて、穏やかに微笑んだ。
「素敵な夢だね」
「笑いませんか?」
「どうして笑うんだい?」
彼は首を傾げた。
「君が自分のために望んだものだろう。それなら、大切にするべきだ」
胸の奥が温かくなった。
私は窓の外へ目を向けた。
青空が、どこまでも広がっている。
あの日、雨の中で屋敷を出たとき、私は何も持っていないと思っていた。
家族も。
婚約者も。
居場所も。
けれど、本当は違った。
私には知識があった。
経験があった。
働く力があった。
そして何より、自分の人生を選ぶ自由があった。
「さて、フェリクス」
私は新しい契約書を開いた。
「次の商談の準備をいたしましょうか」
「ああ、アリス」
彼は笑った。
「これからも、よろしく頼むよ。私の頼もしい共同経営者」
「こちらこそ」
私は誇らしく微笑んだ。
もう、誰かの引き立て役にはならない。
誰かの幸せのために、自分を犠牲にすることもしない。
私の人生は、私のものだ。
そして、その未来を紡いでいくのは、ほかの誰でもない。
私自身なのだから。




