第六話 なんともないなら結構ですわ
王都は、今日もいつも通りに見えた。
朝の鐘が鳴り、石畳を荷車が走り、パン屋の前には焼き上がりを待つ人の列ができる。市場は開き、学園へ向かう生徒たちの声も絶えない。空は晴れているし、城門は開いているし、誰かが大声で泣いているわけでも、兵士が通りを埋めているわけでもない。
だから最初、リディア・フェルナンには分からなかった。
何がどうおかしいのか。
ただ、空気だけが、少しずつ噛み合っていない。
それだけだった。
王宮へ上がる途中、いつもなら静かな回廊を、侍従が二人、小走りに横切っていった。片方の腕には帳面、もう片方は封緘した小箱を抱えている。
ぶつからぬよう壁際へ寄ったリディアに、彼らは慌てて頭を下げた。
「失礼いたしました」
「いえ……」
そのまま二人は足を止めず、角を曲がっていく。
大きなことではない。王宮勤めの者が忙しくする日など、珍しくもない。
それでも、なんとなく目に残った。
いつもなら、もっと静かに片づいているようなことが、今日は目に見えるところへはみ出している気がする。
「リディア」
明るい声に振り向くと、セドリック・アストレアがいた。第二王子は今日も機嫌がよさそうだった。襟元まできっちり整えられた上着、手入れの行き届いた靴、よく結ばれた飾緒。見た目だけなら、誰がどう見ても華やかな王子様だ。
その見た目だけなら。
「おはようございます、殿下」
「相変わらず硬いな。もっと楽にしてくれていい」
そう言って笑う顔は、以前なら親しみやすくも見えたのだろう。けれど今のリディアには、どうしても軽く映る。
あの夜からずっとだ。
軽い。
言葉も、視線も、空気も。
「昨夜は眠れたか?」
「……それなりに」
「はは。まだ顔色が固いな」
セドリックはまるで何事もなかったかのように窓辺へ寄った。
「だが見てみろ。王都はいつも通りだ。誰も飢えてもいないし、街も回っている。結局、あんな女がいなくても何も困りはしないということだ」
リディアは思わず黙った。
窓の外には、確かにいつも通りの王都が広がっている。
けれど、その“いつも通り”が、どこか張りつめて見えるのは気のせいだろうか。
「あの」
「うん?」
「何ともないように見えることと、本当に何ともないことは、同じではないのでは……」
口にしてから、自分でもずいぶん曖昧な言い方だと思った。
だがセドリックは気にした様子もなく、肩をすくめる。
「君までオズワルドみたいなことを言うんだな」
「宰相閣下が?」
「難しい顔をしていたよ。兄上もだ。だが、何だっていうんだ? 街は回っている。パンも焼かれている。だったら十分だろう」
パン。
その言葉に、あの夜の声が蘇る。
明日の王都に届くパンは、どなたが通すのですか。
クラリス・グランディエルの、静かで、よく通る声。
リディアは無意識に手を握っていた。
「殿下」
「なんだ?」
「……あの時、クラリス様がおっしゃっていたこと、わたし、まだよく分からないんです」
セドリックは不思議そうに眉を上げた。
「分からなくていい。あれは理屈をこねて、場を乱そうとしただけだ」
違う。
たぶん違う。
けれど、何がどう違うのかを、リディアはまだ言葉にできない。
セドリックはそんな彼女の沈黙を、気にするほど繊細ではなかった。
「まあ、いずれ分かるさ。君はあんな女みたいに難しく考えなくていい」
そう言って去っていく背中を見送りながら、リディアは小さく息を吐いた。
やはり、この人は何かを見ていない。
そして自分も、まだ何かを見られていない。
それだけは分かった。
昼前、王宮内はいつもより人の動きが多かった。
廊下の隅では小姓が書簡の束を抱え、帳場の前では文官が二人、低い声で何かを言い合っている。厨房へ続く通路では、粉まみれの下働きが顔をしかめながら大きな袋を運んでいた。
リディアがその脇を通った時、厨房の奥から、少し苛立った声が聞こえた。
「いや、今日の粉はまた少し違うだろう」 「分かってますよ、でも来たものは来たものです」 「伸びが悪いんだ、分かるだろ」 「じゃあ水を減らすしかないでしょう」 「減らしたら今度は量が足りなくなる!」
扉は閉じていたが、腹立たしさだけはよく伝わった。
リディアは足を止めかけ、それから止めた。厨房のことに口を出す立場ではない。だが、そんな言い争いを王宮で聞いた記憶も、あまりなかった。
まただ。
大きなことではない。
それなのに、どこかが少し噛み合わない。
そのまま中庭へ抜けようとしたところで、前方からユリウス・アストレアと宰相オズワルド・ベルンハルトが歩いてくるのが見えた。
リディアは反射的に柱の陰へ下がる。
隠れるつもりはなかった。ただ、二人の話を邪魔してはならないと思っただけだ。
「……止まってはいない」
先に聞こえたのはユリウスの声だった。低く、落ち着いている。
「だが、一手遅い」
オズワルドが杖の先を軽く床に鳴らす。
「左様ですな。止まってはおりません。そこがまた厄介でございます」
「今朝の納入は?」
「契約通りには来ております」
「契約通り、か」
「ええ。契約通りには」
その一言に、リディアでも分かる皮肉が混じっていた。
ユリウスはしばし黙ってから言った。
「グランディエル家は、何も違約していない」
「しておりませんな」
「だからこそ露骨に責められぬ」
オズワルドがわずかに肩をすくめる。
「そのうえ、ローラン公からは昨夜のうちに書面が届いております」
「見た」
「見事な文面でしたな。礼も理も欠かさぬまま、“まだ足りぬ”とだけは嫌でも伝わる」
ユリウスの声音が少しだけ硬くなる。
「遠回しに、セドリック自身が責任を理解したうえで口を開け、と言っている」
「左様です。謝罪を求めているわけではない。ですが、謝罪に値する何かがあったことを、第二王子殿下ご自身の言葉で確認せよ、と読めます」
オズワルドは続けた。
「“若年ゆえの軽率を永劫の瑕疵と見なすものではない”……と、そう書いてございました」
ユリウスが目を細める。
「ただし、“軽率が軽率のまま看過されるなら、それは信義への恒常的軽侮と理解せざるをえない”とも」
「ええ。たいへん穏やかで、たいへん厳しい」
リディアは息を潜めた。
書状一通で、そこまで分かるものなのか。
謝れとは書いていない。なのに、二人にはそれが見えている。
そして、見えているからこそ苦いのだ。
ユリウスが短く息を吐く。
「父上には重すぎるな」
オズワルドは少しだけ目を伏せた。
「それでも陛下は、そうお考えでしょうな。私が詫びて済むなら、と」
ユリウスの返答は早かった。
「私も同じだ」
その声音には、若さより先に責任があった。
「私が詫びて済むなら、いくらでも頭を下げる。父上もそうだろう。だが、それでは足りない」
「左様ですな」
オズワルドは静かに杖を鳴らした。
「謝れる者ほど、代わりに謝って済ませてはならぬと分かっている。なんとも、胃に悪い話でございます」
ユリウスはそこで、ほんのわずかに苦笑した。
「……宰相に胃が残っていたか」
「陛下と殿下方のせいで、とうに半分は失っております」
「あと半分は東方か」
「ご明察にございます」
短い軽口だった。けれど軽さの中に、ずしりとした疲労が沈んでいる。
ユリウスは視線を中庭の向こうへやった。
「父上はまだ、これを“少し不便になっただけ”の範囲で抑えようとしておられる」
「平時であれば、それもまた王の仕事でしょう」
「平時、か」
ユリウスはそこで短く息を吐いた。
「東は平時ではない。王都だけが平時の顔をしている」
リディアは思わず顔を上げた。
東。
そういえば、最近も国境で小競り合いがあったと聞いたばかりだ。学院の中では遠い話のように扱われるが、王宮では違うのかもしれない。
ユリウスは続ける。
「一手遅れる。それが一度で済めば誤差だ。二度、三度と続けば、いずれ誰かが血を払う」
「その通りにございます」
「……兄上」
思わず声が漏れた。
二人が同時にこちらを見た。
リディアは慌てて柱の陰から出て、深く頭を下げる。
「も、申し訳ありません。立ち聞きするつもりでは……」
「構わない」
ユリウスは意外なほど柔らかい声で言った。
だがその表情は、断罪の場で見た時よりもずっと冷えていた。
「君は、あの日のことに巻き込まれた側だ。知っておく権利はある」
オズワルドが目を細める。
「ただし、知るほどに気が重くなるとは思いますがな」
リディアは唇を結んだ。
「……クラリス様がおっしゃっていたこと、少しだけ分かってきた気がします」
「少しで十分だ」
ユリウスはそう言った。
「全部を一度に理解できる類の話ではない。だが、君が“何ともないように見えること”を、そのまま信じなくなったのなら、それだけでも十分だろう」
その言葉に、リディアはどう返せばよいか分からなかった。
ユリウスはそれ以上は言わず、オズワルドとともに去っていく。
残されたリディアは、その場でしばらく動けなかった。
止まってはいない。
一手遅い。
契約通りには来ている。
なのに、何かが噛み合わない。
それがどういう意味なのか、ようやく少しだけ分かった気がする。
午後、学院へ戻る途中、リディアは城門近くの通りで立ち止まった。
パン屋の前に、小さな列ができている。焼きたての香りはいつも通りに漂っていた。買いに来た女たちも、籠を抱えた下働きも、特別慌てているようには見えない。
それなのに。
焼き上がったパンを見て、店の主人が少しだけ眉をしかめたのが分かった。
「今日は少し小さいねえ」 「粉が違ったんだよ」 「でも、まあ売れないほどじゃない」
軽い会話だった。
本当に軽い。
けれど、その“少し”の積み重ねが、たぶん王宮の中でも、街の中でも起き始めている。
何ともないのではない。
誰かが、何とか持たせていたのだ。
それがいなくなった。
あるいは、いなくなった分だけ、他の誰かが無理を始めた。
リディアは小さく息を吐き、並ぶパンを見つめた。
あの夜、クラリスは、怒る前にパンのことを言った。
その意味が、今なら少しだけ分かる。
恋だの婚約だのよりも先に、明日の朝の食卓がある。
誰かの台所がある。
誰かの腹がある。
そういうものを、本当に見ていたのは、たぶん。
「……クラリス様」
名前を口にすると、妙に胸が重くなった。
怖い人だと思っていた。
冷たい人だとも。
でも違うのかもしれない。
少なくとも、自分よりずっと広いものを見ていた。
パン屋の前では、今日も人が列を作っていた。
王都は回っている。
回ってはいる。
けれど、それだけで十分だと笑うには、たぶんもう遅いのだ。




