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第三話 嘆くだけでは変わりませんわ

北へ向かうほど、道は言葉少なになっていった。


王都の近郊では、朝の荷車や行商人の呼び声が絶えず耳に入っていたのに、昼を過ぎ、丘陵を越え、乾いた風が馬車の側面を叩き始める頃には、人の気配そのものが薄くなる。石畳はとうに尽き、車輪は固い土を軋ませ、時折えぐれた轍に大きく揺れた。


窓の外には、痩せた畑が見える。


背の低い燕麦。ところどころに根菜の畝。耕されてはいるが、豊かな土地の色ではなかった。遠くに見える村落も、家が集まっているというより、風に押し散らされたようにばらばらだ。


「……すごいですね」


向かいに座るエマが、窓の外を見たまま呟いた。


「何が」


「何が、って……いえ、その、ほんとうに、何もないなと……」


正直でよろしい。


クラリスは膝の上の地図から目を上げずに言った。


「何もないのではないわ。散っているの」


「その違い、今のわたしには全然わからないです」


「わからなくて結構よ。見ていればそのうち分かるでしょう」


エマは口を尖らせたが、言い返す余裕はなかったらしい。次の揺れで小さく悲鳴を上げ、慌てて座席の端を掴んだ。


「うわっ」


「その程度で騒がないでください」


御者台の脇からヴァルターの声が飛ぶ。窓越しでも、彼がまったく揺れていないことはよくわかった。


「その程度って言いますけど、王都の馬車と揺れ方が違うんですよ!」


「道が違います」


「知ってます!」


馬車の中で、クラリスはほんのわずかに口元を緩めた。


エマは驚く。慌てる。素直にへこむ。そして意外と立ち直る。同行させて正解だった、と改めて思う。自分一人なら、窓の外の地形と村落配置ばかりを見てしまって、座席の固さや揺れの質など気にも留めなかっただろう。


地図の上で見ていた距離と、実際に揺られる距離は違う。


台帳の上で見ていた村と、風に晒された小屋の群れもまた違う。


ようやく、遠くに灰色の屋根が見えた。村よりは大きい。館というにはささやかだが、代官館としては妥当な規模だろう。隣接する倉庫らしき建物の壁は色褪せ、柵は一部が新しい材に打ち替えられている。補修を重ねて持たせている、という印象だった。


「お嬢様、あれですか」


エマが身を乗り出す。


「たぶんね」


「たぶん、ですか」


「王都の屋敷ほど目立たないもの」


「そういう問題じゃなくてですね……」


馬車が門前で止まる。


出迎えの人影が慌ただしく整列するのが見えた。王命の使者が先に入っていたのだろう。最前に立つ男は四十前後、姿勢は崩れていないが、目の下に薄く疲れが滲んでいる。衣服はきちんとしている。だがそのきちんとした印象の下に、長年の不足と帳尻合わせがしみ込んでいるような顔だった。


ヴァルターが扉を開ける。


「お足元にお気をつけください」


クラリスが降りると、男は一歩進み出て深く一礼した。


「グレイ領代官、フィリップにございます。ようこそお越しくださいました、クラリス様」


声音は整っている。だが整いすぎて、逆に内心の動揺が透ける。


ええ、そうでしょうね。


王都で婚約破棄された公爵令嬢、そのうえグランディエル家の嫡流。そんなものを王命付きで預けられたのだから、驚かぬ方がどうかしている。


「お出迎えありがとうございます、代官殿」


クラリスも礼を返す。


「長旅でお疲れでしょう。まずは館へ。部屋の用意は整っております」


当然の提案だ。丁重で、正しい。正しいが、その丁重さの中に「どう扱うのが最適解なのだこれは」という悲鳴が隠れているのもわかる。


エマが馬車から降りる時、裾を踏みそうになって軽くよろけた。ヴァルターが無言で支える。フィリップの目がそこで一瞬だけ細くなる。名目執事、実態護衛、と見たのだろう。悪くない。


代官館の中は、想像以上に寒々しかった。


掃き清められてはいる。だが床板は乾いて痩せ、壁際の置物も最低限。王都の屋敷にあるような余白の贅沢はどこにもない。使うためだけに置かれた机、椅子、棚、帳面。質素というより、無駄を削って残ったものだけが並んでいる。


クラリスは案内された応接室に入って、まず窓辺を見た。窓の建付けが少し甘い。寒風の季節には隙間風が入るだろう。暖炉も小さい。これで冬を越すのは、なかなか骨が折れそうだ。


フィリップはそれをどう受け取ったのか、小さく咳払いをした。


「その、館も決して万全とは申せませんで」


「見れば分かります」


クラリスが言うと、フィリップは一瞬だけ固まったが、次の瞬間には諦めたように肩から力を抜いた。


「でしょうな」


そこへ、遅れてエマが小さな声で言う。


「……わたし、ここで冬越せるんでしょうか……」


「越してもらわねば困るわね」


「迷いなく言わないでください……」


そのやり取りに、フィリップの口元がわずかに緩んだ。乾いた笑いだ。


「しかし、クラリス様のようなお方が、なぜまたグレイ領などに」


探るような問いだった。


クラリスは椅子に腰を下ろしながら、事もなげに答える。


「第二王子に嫌われましてね」


フィリップは瞬きを一つしたあと、同じくらい事もなげに返した。


「なるほど。実は我がグレイ領も、長らく第二王子殿下に嫌われておるのですよ」


「あら」


「予算がつきません」


少しの沈黙のあと、クラリスはふっと笑った。


「……うふふ」


「お笑いになるところではございませんが」


「いいえ。少し安心したのです」


「何にで?」


「嫌われているのが、わたくしだけではなかったので」


フィリップはそこでようやく、はっきりと苦笑した。


その苦笑に、長年の疲れと自嘲と、それでもまだ壊れていない実務家の頑固さが見えた。


悪くない。


この人は、使えるかどうかではなく、もう既にこの土地を持たせてきた側の人間だ。


そこへノックが入り、ヴァルターが茶器を載せた盆を運んできた。


フィリップはほんの少し眉を上げる。たぶん、「執事なのか護衛なのか分からない男が茶まで淹れるのか」とでも思ったのだろう。わかる。


カップに注がれた紅茶から、柔らかな香りが立ちのぼる。


エマがすん、と鼻を鳴らして目を細めた。クラリスも一口飲んで、内心で頷く。今日も完璧だ。


フィリップも慎重に口をつけ、それから無言になった。


「……うまいですな」


「でしょう」


「お嬢様が誇るみたいな顔をしないでください。淹れたのはヴァルターさんです」


「うるさいわね」


少しだけ空気が緩んだ、その隙に、クラリスは紅茶を置いた。


「さて」


フィリップの表情が引き締まる。


「この地方については、王都の屋敷で書類を通して数字だけは見ておりました」


その一言で、フィリップの視線が変わった。


「ですが……実情は、これほど厳しかったのですね」


窓の外には、風に削られた中庭と、その向こうに見えるくすんだ倉の屋根。


「国の手が薄いなか、よくぞ今まで持ちこたえてくださいました」


フィリップはしばし黙った。


王都から来る人間はたいてい、遅い、貧しい、整っていない、と言う。責めるか、哀れむか、そのどちらかだ。最初に「持ちこたえた」と言う者は少ない。


やがて彼は低く息を吐いた。


「……お言葉、痛み入ります。ですが」


そこで少し硬さを戻す。


「王命書の末尾にある文言については、まだ何もお約束できません。現地執務の補佐に従事することを許すかどうかは、あくまで代官である私の判断です」


牽制。正しい。


「ええ、存じています」


クラリスは素直に頷いた。


「ですから、判断材料として見せていただきたいのです」


「判断材料、と申しますと」


「倉庫、台帳、村ごとの位置、主要産物、冬前の備蓄、傷みやすい箇所、今いちばん詰まりやすい流れ」


フィリップは目を細めた。


「それを見て、どうなさるおつもりで」


「驚くわ」


意外だったのか、エマが目を丸くする。フィリップも一瞬言葉を失った。


クラリスは続ける。


「まずは驚きます。数字で知っていたつもりのものと、現物は違うのでしょうから」


そして、カップを置いた指先を静かに揃える。


「でも、驚くだけでは足りませんわ」


室内の空気が、すっと冷えた気がした。


「見せてください。責めるためではなく、立て直すために」


フィリップはその顔をしばらく見ていた。


公爵令嬢。追放された元王子婚約者。王都の揉め事の中心。


だが目の前にいるのは、それだけではない。


少なくとも、台帳を机の飾りとしか思わない人間ではない。


「……分かりました」


そう答えた時の声には、先ほどまでの形式的な丁寧さとは別の重みが混じっていた。


「本格的な判断はまだいたしません。ですが、見るだけなら構いません」


「結構」


クラリスは立ち上がる。


エマが慌てて立ち上がり、ヴァルターは無言で一歩下がって主の動線を空けた。


「すぐにご案内を」


「まずは倉からお願い」


「倉ですか」


「ええ。金のない土地ほど、倉に本音が出ますもの」


フィリップはそこで、ほんのわずかに口元を引きつらせた。


「……おっしゃる通りですな」


外へ出ると、風は館の中よりずっと容赦なかった。エマが一瞬で肩をすくめる。


「さむっ」


「今のでそうなら、冬は泣くわよ」


「もう泣きそうです!」


倉庫の扉は重く、蝶番が少し歪んでいた。中へ入れば、乾燥材の置き方はばらばら、棚札は古いまま、袋詰めも揃っていない。保管そのものが駄目というより、持たせるための工夫だけを重ねた結果、全体の流れが見えなくなっている。


クラリスはそこを一巡りして、次に台帳を開かせ、村の位置を地図に落とさせた。


村はある。


畑もある。


羊もいる。


保存食の加工跡もある。


薬草も、名は違うが資料で見たものと同じ類が混じっていた。


あるのだ。


ただ、細い。散っている。揃わない。繋がらない。


フィリップが横で説明する。


「この村は羊を持ちますが、冬前は自家用が優先で量が出ません。こちらは干し根菜を作りますが、道が悪く、運ぶ頃には傷むこともある。薬草は山手の集落が少量ずつ摘みますが、村ごとに保管法が違い、王都へ出せる質に揃いません」


理屈は簡単だった。


欠けているのは産物ではない。


まとめる場所。揃える基準。保管の知恵。運ぶ順番。


すべてが、少しずつ足りない。


エマが倉の隅に積まれた袋を見て言った。


「もったいない……。これ、ちゃんと食べられるのに」


クラリスはその言葉に頷いた。


そう。そこだ。


数字の上では「少量」「雑品」「不安定」で片づくものが、生活の上ではちゃんと価値を持っている。


フィリップが慎重に尋ねる。


「いかがですかな。驚かれましたか」


クラリスは、倉の奥まで見渡してから答えた。


「ええ」


そして静かに、しかしはっきりと言った。


「でも、死んでいるのではないわ」


風が倉の隙間を鳴らす。


「詰まっているだけよ」


その一言に、フィリップは何も返さなかった。


返せなかった、という方が正しいかもしれない。


死んでいるのではない。

詰まっているだけ。


ならば、やることは一つ。


「このクラリス・グランディエル。通すこと、回すことに関しては一流でしてよ」

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