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第二話 王命ならば受けますわ

 王都の朝は、いつも通りに始まっていた。


 窓の外では荷車の車輪が石畳を鳴らし、朝焼けに照らされた通りを、パン屋の下働きや水売りがせわしなく行き交っている。

 人の流れも、物の流れも、昨日の夜に何があったかなど知らぬ顔で動いていた。


 クラリス・グランディエルは、その音を聞きながら王命書に目を落とした。


 北方王家直轄地グレイ領へ引き払うこと。

 代官の判断により、現地執務の補佐に従事することを許す。


 やはり、何度見ても妙な文だ。


 追放先で仕事をしてよいと言っている。表向きには厄介払い、けれど実務の余地は残す。いかにも父と宰相が夜のうちに擦り合わせたような、妙に行儀の良い抜け道だった。


「お嬢様……」


 振り向くと、部屋の扉のところでエマが半泣きの顔をして立っていた。

 両手にはきれいに畳まれたショールを抱えている。

 目元は赤い。たぶん本気で泣いたのだろう。


「うう……お嬢様、せめてお達者で……」


 クラリスは手元の書簡から目を上げずに言った。


「あなたも行くのよ」


 しん、と静まる。


「……はい?」


「何を驚いているの」


 エマの口が小さく開いたまま止まった。


「えっ、いえ、だって、わたしは、その……ここでお見送りを……」


「誰がわたくしの髪を結うの」


「えっ」


「誰が服を整えて、湯を確かめて、控えを取るの」


「えっ、えっ」


「あなたでしょう」


 数拍遅れて、エマの顔色が変わった。


「わ、わたしも行くんですか!?」


「当然でしょう」


「ええええええええっ!?」


 悲鳴が屋敷の廊下にまで響いた。


 そこへ、ちょうど通りかかったヴァルターが一礼する。今日の彼は執事服を隙なく着こなしていたが、立ち方のせいでどうにも物々しい。名目執事、実態護衛であることを隠す気があまりない。


「馬車は二刻後に出ます」


「聞いてませんけど!?」


「今、お聞きになったでしょう」


 ヴァルターは平然と言った。


 エマは半歩よろけた。


「そんな、急に……心の準備が……」


「準備なさい。心より先に荷物を」


 クラリスが言うと、エマは「うう……」と小さく呻きながらも、腕の中のショールを抱え直した。


「でも、でも、グレイ領って北ですよね……?

 寒いんですよね……?

 荒れてるって……」


「ええ、荒れているのでしょうね」


「そんな軽く……!」


 その反応が少しだけ可笑しくて、クラリスはほんのわずかに口元を緩めた。


 エマは驚き、喜び、悲しみ、その全部が顔に出る。扱いやすい。実に。


「愚痴を言う元気があるなら、あなたの荷をまとめなさい。読み書き算盤のできる侍女を、あの家のメイド長が何のために寄越したと思っているの」


 エマはぱちぱちと瞬きをしたあと、少しだけ胸を張った。


「……それは、まあ、その、多少は……できますけど」


「多少では困るのよ」


「が、頑張ります……!」


 言って、ようやく走り去る。


 ヴァルターはその背を見送ってから、クラリスの机の上へ小さな木箱を置いた。


「当面の資金です」


「父上から?」


「はい」


 蓋を開ければ、整然と封緘された金貨袋と、帳面、そして見覚えのある家印が入っていた。大仰な援助ではない。だが必要なだけはある。過不足なく、実務的だ。


「相変わらず無駄がないわね」


「旦那様ですから」


 それだけ言って、ヴァルターは窓際へ移る。門前の様子を見ているのだろう。執事というより見張りだが、今のクラリスにはそちらの方がありがたい。


 荷造りは驚くほど早く終わった。


 もともと王都に未練を残して持ち出したい品など、クラリスにはほとんどない。衣類は必要数だけ。

 筆記具、帳簿、地図、簡単な書物。

 反転盤も一組。

 王都の屋敷にある調度の大半は、この先の自分には重いだけだ。


 昼前、父に呼ばれた。


 ローラン・グランディエルの執務室は、いつもと変わらず整っていた。書類が積まれていても乱れては見えず、窓辺の鉢植えは水切れひとつない。昨夜、あれほどのことがあったとは思えない静けさだった。


 当主は机の向こうに座ったまま、娘を見上げる。


「支度は済んだかい」


「ええ」


「結構」


 その一言で終わりそうなほど、父は普段通りだった。


 けれど、普段通りということは、もう感傷の時間は終わっているということでもある。


 机の上には、地図数枚と薄い革綴じの帳面、それから封書が三通置かれていた。


「グレイ領の旧図面だ。新しいものではないが、無いよりましだろう。こちらは過去五年の概略収支。正確さは期待しない方がいい。最後の三通は現地で必要になるかもしれない紹介状だ。出す相手は自分で選びなさい」


 クラリスは無言で受け取った。


「父上」


「何だ」


「わたくしを、可哀想だと思っていらっしゃる?」


 ローランは少しだけ目を細めた。


「思っているよ」


 あっさりと認めたあとで、彼は続ける。


「だが、それとこれとは別だ」


 やはりそう来る。


「家の面目は潰れた。お前自身も傷ついただろう。けれど、家そのものはまだ潰れていない。お前もまだ死んでいない。ならば、今やるべきは嘆くことではない」


「生き残ること、ですか」


「そうだ」


 ローランは椅子から立ち上がることもなく、ただ静かな声で言った。


「泣くのは着いてからでもできる。まずは足場を確保しなさい。グレイ領がどれほど荒れていようと、土地は土地だ。人がいて、道があって、倉があるなら、手は打てる」


「ずいぶんと期待してくださるのね」


「期待ではない」


 父はわずかに首を振る。


「できる娘に、できることを言っているだけだ」


 その言葉に、妙な慰めよりもずっと深く息が落ちた。


 ああ、この人は本当にそう思っている。

 当主としても、父としても。


「ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」


「許可など要るかい」


「本当にどうにもならなくなった時は?」


 その問いに、ローランは少しだけ笑った。穏やかで、いつも通りの笑みだった。


「その時は、当主の仕事だ」


 短い答えだった。


 だがそれで十分だった。


 普段は立て。自分で考えろ。自分で動け。そう言い続ける人が、本当に超えてはいけない線の向こうでは自分が前に出ると言っている。


 それで足りないはずがない。


「承知いたしました」


「結構」


 そのやり取りの後、ローランはようやく一つだけ父らしいことを言った。


「寒いそうだ。風邪を引くな」


 クラリスはそこで初めて、少しだけ笑った。


「ええ、努力いたしますわ」


 屋敷の正門を出る時、使用人たちは整列していた。泣きそうな顔の者も、青ざめている者もいる。だが誰一人として取り乱さない。グランディエル家の屋敷らしい見送りだった。


 エマだけは、荷物を抱えたまま、まだ信じられない顔をしていたが。


「本当に、わたしも乗るんですね……」


「ここまで来て他に何をするつもりなの」


「ピクニックとか……?」


「そう思えるうちは、まだ元気ね」


 ヴァルターが馬車の扉を開ける。


「お足元にお気をつけください」


 所作は普通にきれいだ。悔しいことに、執事でも通る程度には。


 ただし、その腰に下げた剣さえ見えなければ。


 クラリスが乗り込み、続いてエマが恐る恐る足をかける。最後にヴァルターが外へ回り、御者台の横に立った。


 馬車が動き出す。


 見慣れた王都の街並みが、窓の外をゆっくりと流れていった。


 パン屋の前には朝の列。宿駅の横では荷が積み替えられ、肉屋の店先には新しい肉が吊られている。市場へ向かう女たち、学園へ急ぐ若者たち、昼前の商売を始める職人たち。昨日までと何一つ変わらぬように、人と物が流れている。


 クラリスはそれを見ながら思う。


 王都は今日も回る。


 自分がいなくても、すぐには止まらない。


 それでよいのだ。いきなり止まるようでは、国として脆すぎる。


 けれど。


 細い補正は、消える。


 いつもなら一手早く回っていた調整。気づく前に片づいていた綻び。契約の外で、しかし秩序の内で支えられていた融通。そういうものは、少しずつ手触りを失っていくはずだ。


 セドリックはたぶん、しばらく笑っているだろう。


 ほら見ろ、何ともないじゃないか、と。


 それで構わない。


 本当に困るのは、もっとあとだ。


 東門を出る頃、石畳は少しずつ荒くなった。風が変わり、町の匂いも薄くなる。


 隣でエマが窓の外を見ながら、小さく息を吐く。


「……もう、戻れないんですね」


「戻るわよ」


「えっ」


「王命で出るのよ。

 なら、戻る時も王命でしょう。

 戻ってきてくれと頼んでくるなら、考えてあげますわ」


 エマはしばらくぽかんとしたあと、なんとも言えない顔で笑った。


「お嬢様、そういうとこです」


「何が」


「怖いです。でも、ちょっと安心します」


 クラリスは答えず、膝の上の地図を開いた。


 北へ。山がちで、冬寒く夏暑い土地。王都からは採算の悪い不良債権のように見える辺境。


 だが地図の上では、村が線になり、谷が道になり、倉が点になって並んでいる。


 何もないのではない。


 ある。ただ、つながっていないだけだ。


 馬車は北へ進む。


 王都の輪郭は少しずつ遠ざかり、代わりに荒れた地肌の色が濃くなっていく。


 エマが窓の外を見て、素直に顔を引きつらせた。


「うわ……」


「何」


「本当に、何もなさそうです……」


「そうね」


 クラリスは地図から目を上げ、遠くの空を見た。


 灰色の尾根が重なり、その下に乾いた風が走っている。


「だから、面白いのよ」


 その言葉を、エマは理解したようなしないような顔で聞いていた。


 だが、分からなくても構わない。


 分からないなら、これから見ればいい。


 馬車は軋みながら北へ向かい、その小さな揺れの中で、クラリス・グランディエルの追放は、ようやく本当の意味で始まった。

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