第一話 婚約破棄なら結構ですわ
王都アストレアの中央宮、その大広間は、今夜もきらびやかだった。
磨き上げられた石床には無数の灯りが映り、天井の金細工は夜空を閉じ込めたように輝いている。
春の終わりを祝う舞踏会。王立学園の卒業披露も兼ねた、若い貴族たちにとっては晴れの舞台だ。
だが、クラリス・グランディエルの視線は、宝石にも衣装にも向いていなかった。
南部産の白葡萄酒は例年より本数が少ない。
西部海岸の塩漬け魚は、やや小ぶりだ。
東部の軍に縁のある家々の顔ぶれは揃っているが、祝いの席にしては表情が硬い。
北方からの毛織物は、今年も遅れているのだろう。
そんなふうに卓上の品と席順を見ている自分を、クラリスは少しだけ可笑しく思った。
今夜くらいは、婚約者の隣で、柔らかく微笑んでいればよいものを。
だがそれが苦手だからこそ、彼女は王都でこう囁かれてきた。
高慢。冷淡。可愛げがない。
人を数字で見ている。
第二王子の婚約者にしては、華がない。
勝手な評判だと思うが、いちいち訂正するほどの価値も感じていなかった。
「クラリス」
名を呼ばれ、顔を上げる。
婚約者である第二王子セドリック・アストレアが、やけに得意げな顔で立っていた。
その傍らには、淡い花色のドレスをまとった下級貴族の娘、リディア・フェルナンがいる。
たしか、御学友だったかしら。
そしてセドリックの顔を見て、ああ、とクラリスは思う。
今夜の第二王子殿下は、開宴から妙に芝居がかっていた。
「皆の前で、はっきりさせておきたいことがある」
楽団の音が止む。
会話の波が引き、広間に静けさが落ちた。
玉座の上で国王アルフォンス・アストレアが眉をひそめる。
第一王子ユリウスは手にしていた杯を卓へ戻した。
宰相オズワルド・ベルンハルトの目が、わずかに細くなる。
その三人の変化だけで十分だった。
少なくとも王と第一王子と宰相は、この場で何が始まるか聞かされていない。
「クラリス・グランディエル。お前はこれまで、身分を笠に着てリディアを侮辱し、学園内でも圧をかけ、王子妃にふさわしからぬ振る舞いを重ねてきた」
始まった。
糾弾の文句は、いかにもそれらしい。いくつかは誇張、いくつかは曲解、いくつかは最初から形の違う話だろう。
だが、今はそこではない。
クラリスは言い返さない。
まず、見る。
「よって俺はここに宣言する。クラリス、お前との婚約を破棄する!」
一瞬の静寂ののち、最初に手を打ったのはセドリックの取り巻きだった。
子爵家の三男、伯爵家の末子、その友人たち。劇的な場面に酔ったような笑みを浮かべて、ぱち、ぱち、と軽い拍手を響かせる。
「さすがは殿下!」
「ご英断です!」
だが、その音は広間の半ばで息を失った。
誰も続かなかった。
国王は玉座の上で沈黙し、第一王子は目を細め、宰相は表情を消している。
軍務に関わる貴族たちは揃って顔色を失い、財務や内務の実務を担う者たちは、まるで凶報でも聞いたような目で第二王子を見つめていた。
若い取り巻きたちの拍手だけが、ひどく場違いに響く。
ぱち、ぱち、ぱち。
数が少ないぶん、その軽薄さだけがよく聞こえた。
やがて彼らも異様な空気に気づいたのだろう。互いに顔を見合わせ、ばつの悪そうに手を止める。
広間に落ちたのは、熱狂ではなく、ひどく居心地の悪い沈黙だった。
セドリックだけが、その違いをまだ理解していない顔をしていた。
「そして俺が妃として望むのは、心優しきリディア・フェルナンだ!」
そこで初めて、クラリスはリディアを見た。
少女の顔は、ひどく正直だった。
丸く見開かれた目。わずかに開いた唇。頬からさっと引いていく血の気。
喜びも、誇りも、勝利の色もない。
あるのは、何一つ聞かされていなかった者だけが浮かべる、無防備な困惑だった。
ああ。
これは本当に知らなかった顔だわ。
ならば。
国王、第一王子、リディア、宰相。白。
第二王子。黒。
……わかりやすくていいわ。
「承知いたしました、殿下」
クラリスが静かに口を開くと、場の空気がもう一度止まった。
泣きもしない。怒鳴りもしない。かえってその落ち着きが不気味だったのだろう。取り巻きたちの顔からも笑みが消える。
「では、確認いたします。今のご発言は、王家の御名において、公の場でなされた婚約破棄として承ってよろしいのですね」
セドリックは一瞬きょとんとしたが、すぐに胸を張った。
「そ、その通りだ!」
はい、言質。
クラリスは一つ頷いてから、ほとんど抑揚のない声で言った。
「婚約破棄は結構ですわ。ですが殿下、明日の王都に届くパンは、どなたが通すのですか」
今度こそ、広間は水を打ったように静まり返った。
意味がわからない者も多かっただろう。
だが、理解した者から順に顔色が変わった。
東部国境で諸部族と戦っていた老伯爵が息を呑む。
財務に関わる子爵が、持っていた杯を危うく落としかける。
内務の実務を預かる者たちが、一斉に嫌なものを見る顔になった。
セドリックだけが取り残されたように眉をひそめる。
「何を言っている」
「ですから、パンです」
クラリスは穏やかに答えた。
「明朝、王都の市に並ぶパンです。西部からの小麦、南部からの塩、近郊の粉挽き、宿駅の継送、倉の開扉、検印、通行証。婚約を破棄なさるのは結構ですけれど、民は明日も朝食を摂りますわ。どなたがその流れを滞らせずに済ませるおつもりかと、お尋ねしているのです」
「貴様、脅しているのか!」
思わず、といったふうにセドリックが声を荒げた。
その瞬間、国王の怒声が大広間を震わせた。
「セドリック!」
全員が息を呑む。
玉座から立ち上がったアルフォンス王の顔には、もはや父の困惑ではなく、王としての怒りがあった。
「誰の許しを得て、そのような場を設けた」
「父上、ですが私は」
「黙れ。今、お前が何を口にしたか、分かっているのか」
分かっていない。
それは誰の目にも明らかだった。
リディアが青ざめたまま一歩前へ出る。
「あ、あの、陛下……!わたし、本当に何も聞かされておりません……!いま初めて……!」
その声は震えていた。
クラリスは一瞥だけを向ける。
ええ、分かっているわ。
あなたは白だもの。
ユリウスが静かに進み出た。
「父上。この場は一度お開きに。これ以上は社交ではなく、政治になります」
その一言で、まだ面白がっていた若い貴族たちも、ようやく事の重さを察したのだろう。ざわめきの色が、好奇から恐れへ変わっていく。
オズワルド宰相が杖を鳴らした。
「本日の会はここまでといたします。皆様、順にご退出を」
楽団も侍従もぴたりと動きを変え、華やかな祝宴は一瞬で「処理」の場へ変わった。
退出の波のなかで、リディアが小さくクラリスへ顔を向けた。
「クラリス様、わたし……」
責められると思ったのだろう。
クラリスは少しだけ首を振る。
「あなたに罪はありませんわ」
それだけ告げると、リディアは泣きそうな顔で頭を下げた。
やがて大広間には、王と王子たち、宰相、そしてローラン・グランディエル公爵だけが残る。
ローラン・グランディエルは、いつもと同じ穏やかな顔をしていた。だが、その目だけが氷のように冷たい。
「陛下」
クラリスは王に向き直った。
「第二王子殿下の独断であることは理解しております。けれど、公の場で王族が発した言葉です。この国では、それだけで既成事実として流れます」
アルフォンス王は苦々しく目を閉じた。
「分かっておる」
「ならば、グランディエル家の面目が潰れたことも、元には戻りません」
「……分かっておる」
「国王陛下」
クラリスの声はどこまでも丁寧だった。
「あなたの息子ですので、あなたにも教育の責任がおありよ」
空気が張る。
普通の令嬢なら、とても口にできない言葉だ。だがクラリスは怯まない。ローランも止めなかった。
しばし沈黙してから、アルフォンス王は深く息を吐いた。
「その通りだ」
セドリックが顔を上げる。
「父上!そんな女の言うことを」
「黙れと言ったはずだ」
王の一喝に、さしもの第二王子も口をつぐんだ。
オズワルド宰相が静かに口を開く。
「陛下。まずは王都から距離を置くべきでしょう。両家の面子、王家の権威、社交界への説明。そのすべてに冷却期間が必要です」
ローランが頷く。
「異存ございません」
あまりに速い同意に、セドリックは満足げな顔をした。どうせ「ざまあみろ」とでも思っているのだろう。
愚かだ。
その反応だけで、王も宰相も第一王子も、さらに深く絶望した。
グレイ領。
北方の王家直轄地。山がちで、冬は厳しく、夏は乾く。主要産業は燕麦と根菜。王都から見れば採算の悪い、後回しにされ続けた土地。
セドリックがその名を口にした時、クラリスは一瞬だけ理解した。
なるほど。
王家直轄領だから、この坊やでも知っていたのね。
だが、その土地の意味までは知らない。
翌朝、正式な王命書が届けられた。
クラリスは王都の屋敷、自室の机でそれを読む。
北方王家直轄地グレイ領へ引き払うこと。名目は謹慎。嫌疑が晴れるまでの避難。王都への無断帰還を禁ず。礼遇は家格に応じて失することなかれ。
ここまでは想定通り。
そして末尾に、いかにも付け足したような小さな一文があった。
“代官の判断により、現地執務の補佐に従事することを許す”
クラリスはそこを二度読み、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。
「……なるほど」
窓の外では、王都の朝を運ぶ荷車の音がしている。
「余地は、あるのね」
婚約は破棄された。
王都からも遠ざけられる。
けれど、流れまではまだ死んでいない。
ならば。
舞台の外から、取り返せばいいだけのことだ。
なろうの企画用に考えて、仕事の小説を書いてみました。
可能な限り毎日13時10分更新予定です。




