第7話 夜会の前哨戦と独占欲
王都の夜は、むせ返るような香水の匂いと、隠しきれない欲望の気配で満ちている。
建国祭の祝賀会、当日。
私は王都の別邸の玄関で、深い藍色のドレスの裾を少しだけ持ち上げた。
(……一人で乗り込むのは、やっぱり少しだけ緊張するわね)
ユリウスは、辺境の守りと政務のために領地に残ったはずだった。
馬車へ向かおうと一歩を踏み出した、その時。
「──迎えに来た」
夜の闇を切り裂くように、聞き慣れた低い声が響いた。
馬のいななき。
振り返ると、土埃でわずかに汚れながらも、隙のない夜会服に身を包んだユリウスが立っていた。月の光を弾く、冷ややかな銀の髪。
「だ、旦那様!? どうしてここに……辺境にいらっしゃるはずでは」
「俺の妻を、一人で狼の群れに放り込むわけがないだろう」
ユリウスは当然のように私の隣に並ぶと、無言で私の腰に太い腕を回した。
ぐいっ、と強い力で引き寄せられる。
「あっ……」
ドレス越しでもはっきりと分かる、火傷しそうなほど熱い手のひら。
周囲の護衛騎士たちが見ている前で、一切の隙間もないほど密着させられてしまった。
「旦那様、あの、少し近すぎやしませんか……?」
「これが普通だ。それとも、俺のエスコートでは不満か」
「い、いえ。そんなことは……」
(周囲の貴族たちへの、辺境伯としての牽制なのよね。それにしても、過保護すぎる気がするけれど……)
私の戸惑いなど気にも留めず、ユリウスは私の腰を抱いたまま、悠然と馬車へ乗り込んだ。
少し不機嫌そうに見えるのに、私を見下ろす氷の瞳だけは、なぜかひどく甘く揺れていた。
◇
王宮の大広間に私たちが足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。
「見ろ、あの女……追放された悪役令嬢じゃないか」
「しっ! 隣にいるのは辺境伯様だぞ。目が合ったら殺される」
好奇と畏怖の視線。
私は背筋を伸ばし、扇の陰で優雅な微笑みを浮かべた。ユリウスの腕が私の腰をしっかりと支えてくれているおかげで、足元が震えることはない。
「……よくもまあ、恥ずかしげもなく顔を出せたものだな」
人波を掻き分けて現れたのは、レオン殿下と、その後ろに隠れるように寄り添うミアだった。
ミアは私を見ると、ビクッと大袈裟に肩を震わせる。
「ひっ……セシリア様。お願いです、もう私をいじめないでください……っ」
可憐な被害者アピール。
周囲の貴族たちが同情的な目をミアに向けるが、ユリウスが冷たい一瞥をくれただけで、誰も口出しできずに視線を逸らした。
「怯えるな、ミア。私がついている」
レオン殿下はミアの肩を抱き、私を鼻で笑った。
「お前がいなくなってから、国の内政はかつてないほど順調だ。今夜は特産品の権利を大人しく献上しろ。そうすれば、少しは過去の罪を軽くしてやってもいい」
──順調?
私は思わず、扇の下で吹き出しそうになった。
「それは奇妙なお話ですね。順調だというのに、なぜ南方地区の税収は三ヶ月も滞っているのですか?」
「なっ……」
「それに、魔導具の維持費も完全に凍結されていますよね。殿下、私が残した帳簿の『裏表紙に記載された暗号化された真の集計欄』、もしかして……お読みになっていらっしゃらない?」
レオン殿下の顔から、サッと血の気が引いた。
「あ、暗号化……? そんなもの、報告には……っ」
「適当に承認印を押したからですよ。表面上の黒字は、ただの数字のすり替えですわ」
私は一歩前に出た。
理路整然とした事実の羅列。
数字は嘘をつかない。私が構築したシステムは、一部の人間が私腹を肥やせば、必ず別の数字に矛盾が生じるように罠を張ってあるのだ。
「そんなの、嘘ですわ! 国庫にはちゃんとお金があるはずです!」
焦ったミアが、甲高い声を上げた。
その瞬間。
彼女の視線が、不自然なほど素早く、会場の隅に立っていた恰幅の良い男──財務大臣へと向けられた。
(……なるほど。そういうことね)
点と点が、一本の線で繋がった。
なぜ国庫が空になっているのか。ミアがなぜ、あんなにも贅沢なドレスを着ていられるのか。
財務大臣と結託し、帳簿を改ざんして国家予算を横領しているのだ。
「……旦那様」
私は隣のユリウスを見上げ、声を出さずに唇だけを動かした。
『裏帳簿のありかが、分かりましたわ』
ユリウスは短く頷き、私の腰を抱く手にさらに力を込めた。
「よくやった。後は、俺の仕事だ」
彼が低く囁いた言葉は、悪役令嬢の私にとって、どんな甘い愛の言葉よりも頼もしく響いた。
完全なる断罪の足音が、もうそこまで迫っていた。




