第5話 王都の使者と殺気
「王太子殿下の御沙汰である! 辺境で生産されている特産石鹸の全権利と利益を、直ちに王家へ引き渡したまえ!」
豪奢な応接室に、横柄な男の声が響き渡った。
王宮の文官の制服を着た使者は、私の前に羊皮紙をバンッと叩きつける。
(……はぁ)
私は扇の陰で、本日三度目のため息を呑み込んだ。
石鹸工房での軽い怪我から数日。王都からやって来た使者は、予想通り理不尽な要求を突きつけてきた。
机の上の書状には、レオン殿下の署名と、可愛らしい(そして公文書には全く相応しくない)ミア男爵令嬢の添え書きがある。
「使者殿。権利を引き渡せと仰いますが、この石鹸の製法をご存知ですか?」
「はっ。香料と油を混ぜるだけだろう? 王都の職人にやらせた方が、よほど洗練されたものができる!」
「残念ですが、無理ですわ」
私はゆっくりと扇を畳み、使者を真っ直ぐに見据えた。
「あの石鹸は、辺境特有の土壌で育ったハーブと、私の指定した魔力配合があって初めて固まる特殊なものです。権利だけ奪っても、王都ではただの泥水しか作れませんよ」
「な、生意気な! 王家が寄越せと言っているのだ!」
「それに」
私は指を一本立てて、にっこりと微笑んだ。
「辺境自治法の第七条に則り、辺境の特産品の利益を強制徴収するには『国王陛下』の直筆の御印が必要です。王太子殿下の独断では、法的に無効でしてよ?」
使者の顔が、みるみるうちに赤黒く染まっていく。
論破された苛立ちと、自分の無知を突きつけられた屈辱だろう。
彼はギリッと歯を食いしばり、ついには声を荒げた。
「この、悪役令嬢風情が……っ! 王太子殿下に婚約破棄され、実家にも見捨てられた毒婦のくせに! 辺境伯様に泣きついて寄生しているだけの分際で、偉そうに語るな!」
その暴言に、私はわずかに目を伏せた。
事実だ。私は勘当された身であり、今の恵まれた生活はすべてユリウスの契約(お情け)によるもの。
──その瞬間だった。
カチャン、と。
隣のソファで無言のまま紅茶を飲んでいたユリウスが、ティーカップをソーサーに置いた。
ただそれだけの音なのに、応接室の空気が完全に凍りついた。
「……ひっ」
使者が短い悲鳴を上げて、二、三歩後ずさる。
物理的な寒さではない。肌を刺し、喉元に刃を突きつけられたような、圧倒的で濃密な殺気。
ユリウスが、ゆっくりと立ち上がった。
「だ、旦那様……?」
私が声をかけると、ユリウスは無言で私の隣に立ち、その分厚い手で私の肩を抱き寄せた。
「──誰に向かって口を利いている」
地を這うような、恐ろしく低い声。
普段のぶっきらぼうな口調とは違う、辺境の絶対的な支配者としての威圧感だった。
「俺の妻を愚弄することは、辺境伯家への宣戦布告と受け取るが。貴様、その首と引き換えに吐いた言葉だろうな」
「ひぃぃっ! も、申し訳、申し訳ありませっ」
使者は床に膝をつき、ガタガタと震えながら額を擦り付けた。
無理もない。王国最強と謳われる辺境伯の殺気を真正面から浴びれば、素人の文官など立っていられるはずがないのだ。
(辺境伯としての面子を潰されて、怒っていらっしゃるのね……)
そう納得しようとする私の肩を抱く彼の手は、あんなに恐ろしい空気を放っているというのに、ひどく温かくて優しい。
私を庇うように、その大きな背中が視界を遮ってくれている。
「二度と俺の領地に足を踏み入れるな。消えろ」
「は、はいぃっ!」
使者は這うようにして扉へ向かい、逃げ出そうとした。
だが、部屋を出る直前、震える手で懐からもう一つの封筒を取り出し、床に投げ出したのだ。
「こ、これだけは! お渡しせねば、私が殺されます!」
バタン、と無様に扉が閉まる。
静寂が戻った室内で、控えていた副官のカイルが、床に落ちた封筒を拾い上げた。
「旦那様、これは……」
蝋封には、王太子の紋章がくっきりと押されていた。
カイルが中身を改め、険しい顔で私とユリウスを見る。
「……レオン王太子殿下からの、正式な召喚状です。来月の建国祭の祝賀会へ、辺境伯夫人セシリア・クロフォードの出席を命ずる、と」
建国祭。
王国の全貴族が集う、最も華やかな、そして逃げ場のない公開の場。
封筒の端に刻まれたレオン殿下のサインが、私を薄笑いで見下ろしているような気がした。




