第2話 偽装結婚と完璧な部屋
「読んだら血判を押せ。魔力による婚姻契約だ」
分厚いマホガニーの机に放り出された羊皮紙を見つめ、私は小さく息を吐いた。
書類にサインを強要されるのは、この数日で二度目だ。
雨の夜に拾われてから三日。
馬車に揺られて辿り着いたのは、王都の華やかさとは無縁の、無骨な城壁に囲まれた辺境の街だった。
そして到着するなり、辺境伯邸の執務室に連行された私の目の前には、一枚の契約書が提示されている。
(……見事なまでの、縛りプレイね)
契約書に目を通し、私は内心で毒を吐く。
『第一条:本婚姻は相互の利害に基づく偽装であり、寝室は別とする』
『第二条:夫は妻の身の安全と衣食住を完全に保障する』
『第三条:妻は辺境伯夫人としての体裁を保ち、互いの私生活には干渉しない』
要するに「白い結婚」の証明書だ。
昔から顔を合わせるたびに「邪魔だ」「目障りだ」と私を睨みつけていた義兄のことだ。居場所を失った惨めな悪役令嬢を、自分の管理下に置いて一生幽閉するつもりなのだろう。
最高の嫌がらせだ。
「……構いませんわ。どうせ私には、帰る場所などありませんから」
親指の先を小さな針で傷つけ、羊皮紙の署名欄に血をつける。
淡い光が文字を包み込み、これで正式に、私はユリウス・クロフォード辺境伯の妻となった。
「案内させろ。お前の部屋は東棟だ」
契約が済むなり、ユリウスは私から視線を外し、手元の書類仕事に戻ってしまった。
愛想がない。
相変わらず、何を考えているのか全く分からない人だ。
◇
「こちらが奥様のお部屋になります。何か不足があれば、何なりとお申し付けください」
ユリウスの副官であるカイルに案内され、私は与えられた私室の扉を開けた。
そして、絶句した。
「……え?」
質素な牢獄のような部屋を想像していたのに、そこにあったのは、王都の私の自室よりもはるかに豪華で、居心地の良さそうな空間だった。
壁紙は私の好きな淡い水色。
ベッドの天蓋の刺繍も、足元に敷かれた絨毯の毛足の長さも、すべてが私好みだ。
極めつけは、テーブルの上に用意されていた茶器セットだった。
(これ、南方の特産品である白磁器じゃない……! しかも、私が一番好きな銘柄の茶葉が用意されてる)
背筋に冷たいものが走った。
偶然にしては出来すぎている。つまりこれは、彼からの無言のメッセージだ。
『お前の趣味嗜好から弱点まで、俺はすべて把握している』という、辺境伯の圧倒的な情報網の誇示。
(……舐められてたまるか)
ただ幽閉されて、飼い殺しになるつもりはない。
私には、前世の記憶という強力な武器がある。現代日本の知識。特に、農業と実務のノウハウ。
王都から辺境へ来る道中、馬車の窓から見えたのは、痩せた土地と貧しい農村の風景だった。
私は豪華なクローゼットには目もくれず、備え付けのデスクに座った。
紙とペンを引き寄せ、一気に書き殴る。
まずは輪作の導入。マメ科の植物を挟むことで、土壌の窒素を回復させる。
そこにこの世界の「魔石」を砕いた粉末を肥料に混ぜれば、成長速度は劇的に上がるはずだ。
王国の内政を回していた私の計算速度を、甘く見ないでほしい。
ペンを走らせる音が、静かな夜の部屋に響く。
時間を忘れ、計画書の作成に没頭していた──その時だった。
コン、と短いノックの音がして、返事も待たずに扉が開いた。
「──いつまで起きている」
入り口に立っていたのは、軍服のボタンを少し外したユリウスだった。
鋭い氷のような瞳が、机に向かう私を咎めるように見下ろしている。
「申し訳ありません。少し、考え事をしておりまして」
「……」
無言のまま、彼が長い脚で大股に近づいてくる。
怒られる、と身構えた瞬間。
コトリ、と。私の目の前に、小さな銀のプレートが置かれた。
「……これは?」
「夜食だ。食ったら寝ろ」
視線を落とすと、そこには一口サイズの焼き菓子が並んでいた。
ほのかに香る、甘酸っぱい木苺の匂い。
……私が夜中、疲れた時によくこっそり食べていた、一番好きなお菓子。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
私が恐る恐るお礼を言うと、ユリウスは「ふん」と鼻を鳴らし、そのまま踵を返して部屋を出て行った。
相変わらず、ひどい態度だ。
けれど、机に残された木苺の焼き菓子は、焼きたてのようにほんのりと温かかった。
◇
翌日、計画書の予算について相談しようと、私は執務室へ向かった。
ノックをしようと手を上げた時。
少しだけ開いた分厚い扉の隙間から、カイルの呆れたような声が漏れ聞こえてきた。
「旦那様。あんなに何ヶ月も前から奥様の好みを調べて、家具まで特注して準備して待ちわびていたのに……本当に不器用すぎますよ」
「うるさい、カイル。黙って書類の処理をしろ」
──え?
上げた手が、空中でピタリと止まった。
何ヶ月も前? 特注?
扉の向こうから、重いため息の音が聞こえた気がした。




