第10話 不器用な旦那様の誓い
「此度の愚息の不始末、国王として心より詫びよう」
王宮の厳かな謁見室に、深く沈んだ声が響いた。
断罪劇から一夜。
私は一人、玉座の前に立っていた。
「頭をお上げください、国王陛下。全ての真実は、昨夜明らかになりましたから」
扇を胸元に当て、私は静かに微笑む。
レオン殿下とミアが引き起こした国家予算の横領は、証拠が完璧に揃っていたため、夜明けを待たずに裁きが下された。
そして私には、濡れ衣を着せられたことへの慰謝料として、莫大な報奨金が提示されている。
「お前の残した内政のシステムは見事だった。王宮に戻り、財務の長として国を支えてはくれまいか?」
「過分なお言葉ですが、辞退申し上げます。私の居場所は、既に辺境にございますので」
真っ直ぐに見つめ返すと、陛下は少しだけ寂しそうに、けれど納得したように頷いた。
「……そうか。あの辺境伯は、得難い宝を手に入れたな」
国王陛下の直筆による、辺境への莫大な予算交付と完全自治権を認める勅書。
それを受け取り、私は深くカーテシーをして王宮を後にした。
これで、私の名誉は完全に回復した。もう、誰にも「追放された悪役令嬢」とは呼ばせない。
◇
王都の辺境伯別邸に戻った私は、自室のベッドの上に小さなトランクを広げていた。
(……よし、これで荷造りは完璧ね)
昨夜のバルコニーでの出来事が、頭をよぎる。
『お前はもう、俺の庇護がなくても生きていける』
そう言って、私を手放そうとした彼の切ない瞳。
だから私は、決めたのだ。
机の上に、一枚の羊皮紙を置く。第1話、雨の夜に彼と交わした「偽装結婚の魔法契約書」だ。
この紙切れがある限り、私たちは「相互不干渉の偽物の夫婦」という建前から抜け出せない。私が辺境に留まれば、彼はまた「行き場のない私を庇護してやっている」と勘違いし続けるだろう。
だから一度、この関係を完全に白紙に戻す。
その上で、私の口から「本当の妻にしてほしい」と告白するつもりだった。
「さて、旦那様をお呼びして──」
バンッ!!
私が扉に向かおうとした瞬間、蹴破られるような勢いで扉が開いた。
「……セシリア」
そこに立っていたのは、軍服の胸元を大きくはだけさせ、肩で息をするユリウスだった。
銀の髪が乱れ、氷のような瞳が信じられないほど見開かれている。
「旦那様? そんなに急いでどうされたの──きゃっ!」
ユリウスが大股で踏み込んでくる。
彼はベッドの上のトランクを見るなり、ギリッと歯を食いしばり、長い腕でそのトランクを床に叩き落とした。
中身が散乱するのも構わず、机の上に置かれていた「魔法契約書」をひったくる。
「だ、旦那様!?」
「……行くのか」
地を這うような、ひどく掠れた声。
「王宮で名誉が回復したから。自由になったから。こんな偽装結婚の契約なんか捨てて、俺の元から去っていくのか」
「ちがっ、誤解です! 私はただ、この契約を一度終わらせて──」
「させない」
ビリッ、ビリビリッ!
強大な魔力が込められているはずの羊皮紙を、ユリウスは素手で、怒りに任せて粉々に引き裂いた。
魔法の光が弾け、虚空に散っていく。
絶対的な拘束力を持っていた偽装結婚の契約が、彼の自らの手で破棄された瞬間だった。
「ユリウス、様……?」
呆然とする私の腕を引き、ユリウスは私を強く、痛いほどに胸の中に抱き込んだ。
分厚い胸板から、早鐘を打つような彼の鼓動が伝わってくる。
「……昔から、お前だけだった」
「え……?」
「どんなに冷たい言葉を吐いても、俺の目はいつもお前を追っていた。お前が婚約破棄されたと聞いた時、俺がどれほど安堵したか、お前には分からないだろう」
耳元で囁かれる、震えるような低い声。
「部屋の家具も、茶葉の銘柄も。全て俺が王都で調べ上げて用意させた。……お前を、俺の領地に閉じ込めるために」
あの一見冷徹な態度の裏で、彼がどれほどの熱情を抱え込んでいたのか。
その全てが、甘い雨のように私の心に染み込んでいく。
「お前が俺を必要としなくても構わない。だが、俺はお前を手放せない」
抱きしめる腕の力が、さらに強くなる。
私は彼のがっちりとした背中にそっと手を回し、胸元に顔を埋めたまま、ふわりと笑った。
「……本当に、不器用な旦那様」
「セシリア」
「あの契約書は、私が破棄して、本物の結婚誓約書を書き直すために置いていたのですよ」
私の言葉に、ユリウスの身体がピタリと硬直した。
「……なんだと?」
「私の方こそ、あなたを手放すつもりなんてありません。私を、あなたの本当の妻にしてください」
顔を上げると、至近距離に彼の顔があった。
驚きで瞬きを繰り返す氷色の瞳が、みるみるうちに熱を帯び、とろけるような甘い色へと変わっていく。
「……二度と言い逃れはさせないぞ」
低い囁きとともに、彼の大きな手が私の頬を包み込んだ。
重なる唇。
不器用な彼らしい、少し強引で、けれどひどく優しい、誓いのキスだった。
◇
王都を出発する馬車の窓から、心地よい風が吹き込んでくる。
「旦那様、見てください! 新開発の美容液の構想ができたんです」
「……馬車の中で文字を書くと目が悪くなる。俺の隣で大人しく休んでいろ」
向かいの席から私の隣へ移動してきたユリウスが、当たり前のように私の腰を抱き寄せる。
相変わらず口調はぶっきらぼうだけれど、私を見つめる瞳は、もう何も隠そうとしない甘い光に満ちていた。
窓の外には、どこまでも広がる青い空と、私たちの帰りを待つ豊かな辺境の大地が続いている。
理不尽に全てを奪われた悪役令嬢は、もういない。
私は今、誰よりも幸せな辺境伯夫人として、彼と共に歩んでいくのだ。




