第1話 追放と最強の義兄
「セシリア! 君のような底意地の悪い女との婚約は、今この場で破棄させてもらう!」
学園の卒業を祝う華やかなパーティ会場に、レオン王太子殿下の声が響き渡った。
音楽が止まる。周囲の貴族たちが一斉にこちらを振り返る。
(……ああ、やっぱり)
私は小さく息を吐き出した。
レオン殿下の隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミアがぴったりと寄り添っている。彼女の頬にはわざとらしい赤い手跡がつけられていた。
「次期王妃の座に目が眩み、可憐なミアを階段から突き落とすなど言語道断! お前のような毒婦は、我が国には不要だ!」
大勢の視線が、ナイフとなって私に突き刺さる。
誰も私を助けようとはしない。それどころか、群衆の最前列にいた私の実父――クロフォード侯爵までもが、冷酷な目を向けて言い放った。
「クロフォード家の恥晒しめ。我が家はたった今からお前を勘当する。二度と敷居を跨ぐな!」
実の娘に向かって、一切の調査も弁明の機会も与えずに切り捨てる。体面ばかりを重んじる父らしい決断だった。
──その瞬間。
カチリ、と。私の頭の奥で何かが噛み合った。
(……あ、思い出した)
膨大な記憶の奔流。
現代日本。残業続きの事務仕事。農業改革のプロジェクト。
そうだ、私は転生したのだ。この理不尽な世界に。そして、私が今まで必死にこなしてきた内政の書類仕事も、すべてはこの瞬間に奪われる運命だったのだと。
不思議と、心は凪いでいた。
さっきまでの胸の痛みはどこかへ消え去り、代わりに極めて冷静な実務的思考が頭を支配していく。
泣いてすがる? 冗談じゃない。
「……左様ですか」
私のあまりにも平坦な声に、レオン殿下がわずかに眉をひそめた。
泣き崩れると予想していたのだろう。だが、私は背筋をピンと伸ばし、扇を優雅に畳んだ。
「殿下からの御沙汰、しかと承りました。では、事後処理を進めさせていただきます」
「は……? 事後処理だと?」
私は手元の小さなパーティーバッグから、折りたたまれた羊皮紙を取り出した。
王太子がいつか暴走した時のための、リスク管理用書類だ。まさか本当に使う日が来るとは思わなかったけれど。
「こちら、『婚約破棄の同意書』ならびに『慰謝料請求権の放棄に伴う、今後の相互不干渉の誓約書』にございます」
「なっ……お前、何を……っ!」
「私は殿下の決定に従い、一切の未練なく身を引きます。その代わり、今後私がどこで何をしようと、王家および侯爵家は一切干渉しない。その証明として、今この場で殿下と侯爵閣下のご署名を頂きたく存じます」
淡々と告げると、会場が水を打ったように静まり返った。
レオン殿下は戸惑ったように目を瞬かせ、隣のミアも「えっ?」と素の声を漏らしている。
「サインを。それとも、王太子殿下ともあろうお方が、正式な手続きも踏まずに口約束だけで婚約を反故になさるおつもりですか?」
「ぐ……っ、ふざけるな! 誰がお前などに干渉するものか!」
売り言葉に買い言葉。
激昂した殿下は、給仕が震える手で差し出した羽ペンをひったくり、乱暴に署名した。父もまた、忌々しそうに名前を書きなぐる。
完璧だ。
これで私は、王家からも実家からも完全に自由になった。
「ご署名、確かに頂戴いたしました。これまでお世話になりましたこと、心より感謝申し上げます」
私は誰よりも美しく、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。
そのまま一度も振り返ることなく、ざわめく大広間を後にする。
殿下が何か喚いていた気がしたが、私の耳にはもう届かなかった。
◇
外に出ると、大粒の雨が降っていた。
冷たい雨粒が、薄いドレスの肩を容赦なく叩く。
先程までの高揚感が、急速に冷めていく。
虚勢を張って出てきたものの、行く当てなんてない。財布には少しの持ち合わせしかないし、勘当された以上、知り合いを頼ることもできない。
(……寒い)
足がもつれる。
雨水を含んだドレスが鉛のように重い。
視界がぐらりと揺れ、石畳の地面が迫ってきた。ああ、泥だらけになってしまう。
目を閉じた、その時。
「──相変わらず、無様な顔をしているな」
泥の冷たさではなく。
力強い腕が、私の身体をふわりと抱き留めた。
「え……?」
鼻をかすめる、雨と微かな獣皮の匂い。
見上げると、冷ややかな銀糸の髪と、鋭い氷のような瞳があった。
辺境伯軍の軍服。
昔から顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしていた、犬猿の仲の義兄。
「ユリウス……お義兄様? どうして、辺境にいるはずのあなたが……っ」
驚きで声がかすれる。
彼は私の問いには答えず、無言で自身が羽織っていた分厚い外套を私の震える肩にバサリとかけた。
一瞬だけ触れた彼の手のひらが、火傷しそうなほど熱い。
ユリウスは私を抱き寄せたまま、ぶっきらぼうな声で耳元に囁いた。
「拾ってやる。俺と偽装結婚しろ」
……は?
雨音の中に溶けたその言葉の意味が理解できず、私はただ、彼の整った横顔を呆然と見つめ返すことしかできなかった。




