第9話 法廷の前夜
裁判の前日。
セバスチャンの屋敷で、私は証拠の最終確認をしていた。
机の上には、カール子爵から提出された改竄の証拠、断罪記録の原本と改竄後の写し、そして私がこの一ヶ月で集めた状況証拠の数々が並んでいる。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
リディアがカップを置いてくれた。温かい紅茶の香りが、張り詰めた空気を少しだけ和らげる。
「ありがとう」
「証言の練習、なさいますか?」
「そうね。お願い」
私は立ち上がり、窓辺に移動した。明日、法廷で話す内容を、声に出して練習する。
「私、ヴィオレッタ・フローレンスは——」
言葉が、詰まった。
緊張で、舌が絡まる。昔から変わらない、私の悪い癖だ。
「お嬢様……」
「大丈夫。続けるわ」
深呼吸をして、もう一度。
「私は、断罪の日——弁明の機会を与えられませんでした。記録には『沈黙を選んだ』と書かれていますが、それは事実と異なります」
今度は、最後まで言えた。
リディアが小さく拍手した。
「お上手です。明日も、きっとうまくいきます」
「……だといいけど」
窓の外を見た。夕陽が、庭園を茜色に染めている。
明日の今頃には、全てが決まっている。私の名誉が回復されるか、それとも——
「お嬢様」
「何?」
「殿下が、お呼びです」
セバスチャンは、書斎で待っていた。
いつもの飄々とした態度ではなく、どこか硬い表情をしている。窓辺に立ち、外を見つめていた。
「呼んだ?」
「ああ。——座ってくれ」
私は椅子に腰を下ろした。彼は振り返らない。
しばらく、沈黙が続いた。
「……提案がある」
ようやく、彼が口を開いた。
「提案?」
「裁判に出るな」
私は眉をひそめた。
「何を言っているの」
「俺が裏から手を回す。名誉回復は、法廷を経なくても可能だ。父上——国王に直接働きかければ、勅令という形で——」
「待って」
私は立ち上がった。
「それでは意味がないと、何度も言ったはずです」
「聞いてくれ」
セバスチャンが振り返った。その目には、見たことのない光が宿っていた。焦り。不安。そして——懇願。
「法廷は危険だ。侯爵夫人は追い詰められている。何をするかわからない。君が公開の場に出れば——」
「狙われる可能性がある。わかっています」
「わかっているなら——」
「それでも、出ます」
私は彼の目をまっすぐに見た。
「私は自分の言葉で、自分の正しさを証明したい。あなたに裏から手を回してもらうのではなく」
「君は——」
「これは、私の戦いです」
セバスチャンの表情が、歪んだ。
「なぜだ。なぜそこまで——」
「なぜ、と聞かれても」
私は肩をすくめた。
「そうしたいから、としか言えません。誰かに与えられた名誉では、満足できないんです。自分で掴みたい。自分の力で」
「それは——自己満足だ」
「かもしれません」
「危険を冒す価値があるのか」
「私にとっては、あります」
沈黙が落ちた。
セバスチャンは、拳を握りしめていた。その手が、かすかに震えている。
「……君は」
低い声が、絞り出された。
「君は、俺を——信用していないのか」
「そんなことは——」
「なら、なぜ頼らない。なぜ俺に任せてくれない」
「それとこれとは——」
「同じだ!」
彼の声が、部屋に響いた。
私は目を見開いた。セバスチャンが声を荒げるのを、初めて見た。
「俺は——俺は、君を守りたいだけだ。それの何がいけない」
「守りたいんじゃない」
私も、声が大きくなっていた。
「あなたは私を安全な場所に閉じ込めて、自分が安心したいだけでしょう」
「——っ」
「私を『守る対象』として見ないでください。私は——対等でいたいんです。あなたと」
セバスチャンの顔から、血の気が引いた。
しばらく、彼は何も言わなかった。ただ、私を見つめていた。その目には——傷ついたような、迷子のような光があった。
「……わかった」
声は、平坦だった。
「勝手にしろ」
「セバスチャン——」
「君の好きにすればいい。俺は——もう、口を出さない」
彼は私の横を通り過ぎ、扉に向かった。
「待って」
「何だ」
「明日——」
「俺は行かない」
心臓が、冷たくなった。
「君が望んだことだ。自分の力で戦いたいんだろう。なら、俺がいる必要はない」
「そういう意味じゃ——」
「勝手にしろ」
扉が開き、閉じた。
足音が遠ざかっていく。
私は、その場に立ち尽くしていた。
夜。
部屋の窓辺で、私は月を見上げていた。
眠れない。当然だ。明日は裁判で、しかも——
「勝手にしろ」
彼の声が、耳の奥で響いている。
あんな顔を、初めて見た。傷ついた顔。怒りではなく、悲しみに近い何か。
「……私が、悪いの?」
呟いても、答えは返ってこない。
わからない。私は間違ったことを言っただろうか。自分の力で戦いたい。対等でいたい。それは——わがままだっただろうか。
でも、譲れなかった。
誰かに守られるだけの存在になりたくなかった。自分の足で立ちたかった。それは——私の、最後の誇りだったから。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
窓の外で、雲が月を隠した。
明日、私は一人で法廷に立つ。セバスチャンはいない。自分で望んだことだ。自分の責任で、戦う。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「大丈夫。やれる。やるしかない」
でも、手が震えていた。
翌朝。
夜明けと共に目を覚ました。ほとんど眠れなかった。
リディアが用意してくれた服に着替える。深い紫のドレス。伯爵令嬢時代に作らせたもので、断罪の時に着ていたものと同じ色だ。
「あの日と同じ色で、法廷に立つ。意味があると思うの」
「お嬢様……」
リディアは目を潤ませていた。
「大丈夫よ。泣かないで」
「私は——傍聴席で見ています。お嬢様のお姿を、見届けます」
「ありがとう」
彼女を抱きしめた。温かい。この温もりが、今は何よりありがたかった。
馬車が、王立裁判所に向かって走っている。
セバスチャンの屋敷を出る時、彼の姿はなかった。本当に、来ないつもりらしい。
仕方ない。自分で選んだことだ。
でも——胸が、痛い。
窓の外を見た。王都の街並みが流れていく。人々が行き交っている。誰も、この馬車の中に「断罪された悪役令嬢」がいるとは知らない。
「もうすぐ着きます」
御者の声が聞こえた。
深呼吸をした。手を握りしめた。
大丈夫。やれる。やるしかない。
馬車が止まった。
扉が開き、光が差し込んだ。王立裁判所の白い建物が、朝日を浴びて輝いている。
「行きましょう」
リディアが手を差し出してくれた。その手を取り、馬車を降りる。
裁判所の入り口には、既に人だかりができていた。傍聴席を求める貴族たち。噂を聞きつけた野次馬たち。その視線が、一斉に私に向けられた。
「あれが、断罪された令嬢よ」
「まさか、本当に法廷に立つとは」
「聖女様に勝てるはずがないのに」
囁き声が聞こえる。でも、私は足を止めなかった。
真っ直ぐに、入り口へ向かう。
大法廷の扉が開いた。
広い空間。高い天井。傍聴席には、社交界の主要人物がずらりと並んでいる。正面には裁判官席。そして——被告席には、聖女ルミエールと侯爵夫人の姿があった。
聖女は蒼白な顔をしていた。侯爵夫人は、鉄の仮面のような無表情だ。
私は原告席に向かって歩いた。
その時——
視界の端に、銀色が映った。
傍聴席の奥。目立たない位置に、見覚えのある姿があった。
銀髪。碧眼。灰色のローブに身を包み、柱の影に立っている。
セバスチャンだった。
彼は——来ていた。
「行かない」と言ったのに。「勝手にしろ」と言ったのに。
目が合った。
彼は何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
胸の奥が、熱くなった。
泣きそうになるのを堪えて、私は前を向いた。
「では、開廷する」
裁判官の声が響いた。
全てが、今日決まる。




