第7話 黒幕の足元
断罪から五週間。初夏の陽光が、安宿の窓から差し込んでいた。
私は完成したばかりの「社交界の窓」第四号を読み返していた。今回の記事は、これまでで最も直接的な一撃だ。
『——マリアンヌ侯爵夫人の慈善事業は、社交界でも評判でございます。特に孤児院への多額のご寄付は、夫人のお優しさを示すものでしょう。ところで、先日ある孤児院を訪問された方のお話では、施設の状態が寄付額に見合わないほど質素だったとか。きっと夫人は、目に見えない部分に投資されているのでしょうね——』
嘘は書いていない。事実を並べただけ。でも、これを読んだ人は考える。
寄付金は、本当に孤児院に届いているのか?
「慈善家」の仮面の下に、何が隠れているのか?
「これで、侯爵夫人の足元が揺らぐ」
呟いて、原稿を折り畳んだ。リディアに渡せば、明日の茶会で配布される。
聖女の神聖性を揺るがし、今度は侯爵夫人の評判を削る。二つの柱を同時に攻撃することで、敵の防御を分散させる。前世の危機管理で学んだ戦術だ。
窓の外を見ると、初夏の空が広がっていた。断罪された時は春の終わりだった。もう一ヶ月以上が経ったのだ。
午後、思わぬ来客があった。
下町の茶店で待ち合わせた相手は、金髪に緑の目をした青年だった。レオナルド・ヴァイス子爵令息。学園時代の——一応、友人だった男だ。
「久しぶりだね、ヴィオレッタ」
彼は柔らかく微笑んだ。端正な顔立ち。穏やかな物腰。学園では「優しい」と評判だった。そして——断罪の日、彼は何も言わなかった。庇いもせず、罵りもせず、ただ黙って見ていた。
「突然の手紙、驚いたわ」
「驚かせてすまない。でも、どうしても君に会いたかったんだ」
彼は紅茶のカップを握りしめた。
「断罪の日のこと、ずっと後悔していた。僕は——君を庇うべきだった」
「今さらね」
「わかっている。でも、聞いてほしいんだ」
レオナルドは真剣な目で私を見た。
「最近、社交界で噂を聞いた。聖女様の神託に疑問が呈されているとか、侯爵夫人の評判が落ちているとか。そして——君の名誉が回復される可能性があると」
私は表情を変えなかった。
「それで?」
「僕は君の味方になりたい。今度こそ」
彼は身を乗り出した。
「君を守りたいんだ、ヴィオレッタ。昔から——僕は君のことを」
「待って」
私は手を上げて遮った。
「レオナルド、あなたの気持ちはありがたいけど」
「でも——」
「今の私に必要なのは、『守ってくれる人』じゃないの」
彼の表情が曇った。
「僕じゃ、力不足かい?」
「そうじゃない。私は——自分の力で戦いたいの。誰かに守られるんじゃなく」
沈黙が落ちた。レオナルドは悲しそうな目で私を見つめていた。
悪い人ではない。本当に心配してくれているのだろう。でも——彼の「守りたい」は、私が求めているものではなかった。
「……わかった」
彼はため息をついた。
「でも、何かあったら言ってくれ。僕にできることがあれば、何でもする」
「ありがとう」
私は立ち上がった。
「連絡先は知っているわ。何かあれば——」
「ああ。待っている」
茶店を出る時、彼の視線が背中に刺さるのを感じた。
安宿に戻ると、セバスチャンが既に部屋の中にいた。
「早いですね」
いつもは夜に来るのに、今日はまだ夕刻前だ。彼は窓辺に立ち、外を見ていた。振り返らない。
「……用事があったから」
声が硬い。
私は眉をひそめた。何か、様子がおかしい。
「何かあったんですか?」
「別に」
「嘘ですね」
彼は振り返った。その表情は——怒っているようにも、困っているようにも見えた。
「レオナルド・ヴァイスと会ったそうだな」
私は目を瞬いた。
「……どこでそれを?」
「俺の情報網を舐めるな」
「監視していたんですか」
「護衛がいると言っただろう。報告が上がってきただけだ」
彼の声には、棘があった。普段の飄々とした態度とは違う。
「彼が何を言ったか、聞いてもいいか」
「なぜ聞くんですか」
「……」
セバスチャンは黙った。
私は腕を組んだ。
「『守りたい』と言われました」
「それで?」
「断りました」
彼の肩が、わずかに下がった。緊張が解けたように見えた。
「……そうか」
「何を心配していたんですか」
「心配などしていない」
「嘘ですね」
「……」
セバスチャンは視線を逸らした。
私は首を傾げた。彼の反応が、よくわからない。レオナルドが接近したことを警戒しているのか? 情報が漏れることを心配しているのか?
「レオナルドは信用できませんか?」
「そういう問題じゃない」
「では、何が問題なんですか」
「……何でもない」
彼は窓辺を離れ、いつもの椅子に座った。
「本題に入る。侯爵夫人の件だ」
話題を変えられた。追及したかったが、今は情報の方が重要だ。
「第四号の内容が、予想以上に早く広まっている」
「まだ配布していませんが」
「俺のルートで、先に一部を流した」
私は眉を上げた。勝手なことを。
「結果、孤児院の寄付金について調べる者が出てきた。そして——その報告が、国王の耳に入った」
心臓が跳ねた。
「国王陛下が?」
「ああ。父上は慈善事業に熱心でね。孤児院への横領疑惑は、看過できないらしい」
「それは——」
「まだ確定ではない。だが、調査が入る可能性がある」
私は深く息を吐いた。
国王が動けば、侯爵夫人は終わりだ。どれだけ社交界で権力を持っていても、王権には逆らえない。
「朗報ですね」
「ああ。だが——」
セバスチャンの表情が曇った。
「侯爵夫人も馬鹿じゃない。追い詰められれば、手段を選ばなくなる」
「つまり?」
「君が危険だ」
彼の目が、私をまっすぐに見た。
「横領疑惑の出所を探れば、『社交界の窓』に行き着く。そして、その書き手が君だと特定されれば——」
「殺される」
「可能性はある」
私は黙った。
わかっていた。最初から、命がけの戦いだった。でも、こうして改めて言われると——恐怖が、腹の底から這い上がってくる。
「だから言っただろう。俺の屋敷に——」
「それは断りました」
「君は——」
「私の答えは変わりません」
セバスチャンは口を閉じた。
しばらく、沈黙が続いた。蝋燭の炎が揺れる音だけが聞こえる。
「……わかった」
彼は立ち上がった。
「護衛を増やす。文句は言わせない」
「セバスチャン——」
「これは譲れない」
彼の声は、有無を言わせぬ響きがあった。
私はため息をついた。
「……わかりました」
「それと——」
彼は扉に向かいながら、足を止めた。
「ヴァイスの件だが」
「はい?」
「あいつが何を言っても、俺は——」
言葉が途切れた。
「俺は?」
「……何でもない。忘れろ」
彼は扉を開けて出ていった。
一人になった部屋で、私は首を傾げていた。
「何だったの、今の……」
セバスチャンの態度がおかしかった。レオナルドの話題になると、声が硬くなる。視線が揺れる。
「まるで——」
まさか。
いや、そんなはずはない。彼と私は取引関係だ。利害で結ばれた協力者。それ以上でも以下でもない。
「考えすぎよ」
呟いて、私は机に向かおうとした。
その時、扉が叩かれた。
「セバスチャン?」
扉を開けると、そこにいたのは——リディアだった。息を切らしている。
「お嬢様、大変です」
「リディア? どうしたの」
「侯爵夫人の手下が——」
彼女は声を潜めた。
「お嬢様の居場所を探っています。下町の宿を一軒一軒当たっているそうです」
血の気が引いた。
「いつから?」
「今日の午後から。もう、この近くまで来ているかもしれません」
私は窓の外を見た。夕陽が沈みかけている。夜になれば、暗闘に紛れて——
「お嬢様、今夜は別の場所に移った方がいいです」
「でも、どこへ——」
その時、再び扉が叩かれた。
強く、急いた音。
「ヴィオレッタ」
セバスチャンの声だった。さっき出ていったばかりなのに。
扉を開けると、彼が立っていた。表情が険しい。
「話がある。——今すぐ、ここを出ろ」
「リディアから聞きました。侯爵夫人の手下が——」
「ああ。護衛から報告があった。この宿の周辺に、見慣れない人間が複数いる」
私は息を呑んだ。
「俺の馬車が裏口にある。今夜は——俺の屋敷に来い」
「でも——」
「今は命が優先だ」
彼の目が、私をまっすぐに見た。
「頼む、ヴィオレッタ。今夜だけでいい」
「頼む」という言葉を、彼の口から聞いたのは初めてだった。
私は——頷いた。
「……わかりました。今夜だけ」
「リディア嬢も来い。君が危険なら、彼女も危険だ」
リディアが目を見開いた。
「私も、ですか?」
「ああ。行くぞ」
セバスチャンは踵を返した。
私は急いで必要なものだけを鞄に詰め、リディアと共に部屋を出た。
廊下を歩きながら、窓の外を見た。
夕陽の中、見知らぬ男が二人、宿の前に立っているのが見えた。
背筋が凍った。
間一髪だった。
裏口から馬車に乗り込む時、セバスチャンが小さく呟いた。
「侯爵夫人め。本気で来たか」
「本気?」
「ああ。暗殺も辞さない、ということだ」
私は拳を握りしめた。
怖い。正直に言えば、怖い。でも——
「負けませんよ」
セバスチャンが私を見た。
「私は、ここで終わるつもりはありません」
彼は——ほんの一瞬、笑った。
「知ってる」
馬車が動き出した。
夜の王都を走りながら、私は窓の外を見つめていた。
戦いは、新たな局面に入った。




