第6話 記録は語る
「社交界の窓」第三号が配布されてから四日。断罪から、ちょうど一ヶ月が経とうとしていた。
昼下がり、リディアが安宿を訪れた。彼女の顔には、興奮と緊張が入り混じっている。
「お嬢様、大変なことになっています」
「落ち着いて。何があったの?」
「第三号の反響です。社交界が、大騒ぎになっています」
リディアは声を潜めた。
「昨日の茶会で、ある伯爵夫人がこうおっしゃったそうです。『聖女様の神託が、いつも侯爵夫人に都合がいいのは不思議ですわね』と」
私は眉を上げた。伯爵夫人が公の場でそんなことを言ったのか。
「それだけではありません。別の茶会では、『神託の前日に密会とは、熱心なご信仰ですこと』と皮肉を言う方もいらしたとか」
皮肉。つまり、建前では好意的に解釈しつつ、本音では疑っているということだ。社交界の常套手段。私の記事が、その「皮肉を言う口実」を与えたのだ。
「聖女様のお姿を見た方の話では、最近顔色が優れないとか。王太子殿下が頻繁にお見舞いに行かれているそうですが——」
「また庇っているのね」
「はい。でも今度は、以前ほど効果がないようです」
当然だ。一度目は「王太子が庇う」という行為自体に権威があった。でも二度、三度と繰り返せば、「なぜそこまで必死なのか」という疑問が生まれる。
庇えば庇うほど、墓穴を掘る。
「ありがとう、リディア。引き続き、様子を見ていて」
「かしこまりました。お嬢様も、どうかお気をつけて」
リディアが去った後、私は窓辺に立って王都の街並みを眺めた。
順調だ。聖女の神聖性は、確実に揺らぎ始めている。
でも——これで終わりではない。疑念を広めるだけでは、決定打にならない。必要なのは、証拠だ。
「断罪の手続きに問題があった、という証拠……」
呟いた時、扉が叩かれた。
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「早いですね」
扉を開けると、セバスチャンが立っていた。いつもは夜に来るのに、今日は夕刻前だ。
「話がある。入れてくれ」
彼の表情が硬い。何か、重要な情報を持ってきたのだとわかった。
部屋に入ったセバスチャンは、いつもの窓辺ではなく、机の前に立った。
「断罪の記録を調べた」
「記録?」
「王立裁判所に保管されている、君の断罪に関する公式記録だ。本来なら、婚約破棄の手続きには被告——つまり君に弁明の機会を与える条項がある」
私は息を呑んだ。
「それが、記録上では『弁明の機会を与えたが、被告は沈黙を選んだ』となっている」
「嘘よ」
声が震えた。
「私は話そうとした。でも、緊張で声が出なかっただけ——」
「わかっている」
セバスチャンは頷いた。
「だから調べた。記録の筆跡と、他の公式文書の筆跡を照合した。すると——」
「改竄の痕跡があった?」
「ああ。微細だが、確かにある。誰かが後から書き加えた形跡だ」
私は机に手をついた。膝が震える。
改竄。つまり、私の断罪は——最初から仕組まれていたということか。弁明の機会を奪い、記録を書き換え、「正当な手続きだった」と見せかけた。
「誰が」
「記録管理局の次長、カール子爵という男が怪しい」
「カール子爵……」
聞いたことのない名前だ。
「地味で目立たない文官だ。だが、侯爵夫人との接点がある。夫人の茶会に何度か招かれている」
侯爵夫人。やはり、全ての糸は彼女に繋がっている。
「証拠を掴めば、断罪自体を覆せる」
セバスチャンの言葉に、私は顔を上げた。
「カール子爵を落とすか、記録の原本を入手するか。どちらかができれば、君は——」
「待って」
私は彼を遮った。
「その情報、『社交界の窓』には載せません」
「何?」
「これは裁判用の証拠として温存します。今、表に出しても効果が薄い。聖女と侯爵夫人の関係を十分に揺さぶってから、最後の一手として使う」
セバスチャンは一瞬、目を見開いた。そして——小さく笑った。
「……君は本当に、頭が切れる」
「褒めても何も出ませんよ」
「知ってる」
彼は窓辺に歩み寄り、外を見た。
「だが、危険も増す。カール子爵の背後には侯爵夫人がいる。君が記録を狙っていると知られたら——」
「殺される可能性がある。わかっています」
「わかっているなら——」
「それでも、やります」
私は彼の背中を見つめた。
「私は自分の言葉で、自分の正しさを証明したい。誰かに裏から手を回してもらうんじゃなく」
セバスチャンは振り返らなかった。
「俺が証拠を集めて、俺が告発することもできる」
「それでは意味がないんです」
「なぜだ」
「だって——」
言葉を探した。うまく説明できない。でも、これだけは譲れなかった。
「誰かに与えられた名誉は、また誰かに奪われる。私は自分の足で立ちたい。自分の力で、奪われたものを取り戻したい」
沈黙が落ちた。
蝋燭に火を灯す時間だった。夕闘が部屋を茜色に染めている。その中で、セバスチャンの銀髪が淡く光っていた。
「……強い女だ」
低い声が聞こえた。
「何ですか?」
「独り言だ」
彼は振り返った。その表情は、いつもの飄々としたものとは違っていた。何か——困惑しているような、戸惑っているような。
「なぜそこまでする?」
「え?」
「名誉回復なら、俺の力で裏から——」
「だから、それじゃ意味がないと——」
「聞いているのは、そこじゃない」
セバスチャンは一歩、近づいた。
「なぜ、そこまで自分の力にこだわる。俺に頼ればいい。楽になれる。なのに、なぜ——」
「私の戦いを横取りしないでください」
言葉が、口をついて出た。
セバスチャンが目を見開いた。
「これは私の戦いです。私の名誉、私の人生、私の問題。あなたがどれだけ力を持っていても、代わりに戦ってもらうわけにはいかない」
「……」
「あなたは『守りたい』んじゃない」
私は彼の目をまっすぐに見た。
「私を安全な場所に閉じ込めて、自分が安心したいだけでしょう」
セバスチャンの表情が、凍りついた。
図星だった。わかっていた。彼の「守りたい」は、本当の意味で私のためじゃない。自分の不安を解消したいだけだ。
「私は、あなたに守られるだけの女になりたくない」
「……」
「対等でいたいんです。あなたと」
長い、長い沈黙。
窓の外で、鴉が鳴いた。夕陽が沈みかけている。部屋が薄暗くなっていく。
「……わかった」
セバスチャンの声は、掠れていた。
「君の戦いだ。俺は——手を出さない」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼は外套を羽織った。
「危険が迫ったら、遠慮なく頼れ。それは——対等な関係での、取引だ」
「……わかりました」
彼は扉に向かった。その背中が、いつもより小さく見えた。
「セバスチャン」
呼び止めると、彼は足を止めた。振り返らない。
「……明日も、来てくれますか」
「なぜ聞く」
「わかりません。でも——」
言葉が見つからなかった。
彼が来なくなったら、困る。情報が途絶えるから。それだけのはずなのに——なぜか、胸が締め付けられる。
「……来る」
低い声。
「俺は馬鹿だから、来てしまうんだ。わかっていても」
扉が開き、閉じた。
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一人残された部屋で、私はしばらく動けなかった。
彼の最後の言葉が、耳の奥で響いている。
「馬鹿だから、来てしまう」
それは——どういう意味だろう。
利害の問題なら、危険な相手から距離を取るのが正解だ。私が侯爵夫人に狙われているなら、関わらない方が安全に決まっている。
なのに、「来てしまう」と言った。「わかっていても」と。
「……私も、馬鹿かもしれない」
呟いて、蝋燭に火を灯した。
彼がいない部屋は、やけに広く感じる。静かすぎる。
いつから、こんなふうに思うようになったのだろう。彼が来るのが当たり前になっていた。彼の声を聞くと安心する。彼の姿を見ると——
「……考えるのはやめよう」
頭を振って、机に向かった。
第四号の構想を練らなければ。カール子爵の情報を整理しなければ。やることは山ほどある。
感傷に浸っている暇はない。
でも——
「明日も、来るって言った」
その言葉だけが、妙に嬉しかった。
窓の外で、夜が更けていく。
明日も、彼は来る。
それがわかっているだけで、少しだけ——心が軽くなる気がした。




