第5話 神託の台本
断罪から三週間。「社交界の窓」は第三号を迎えていた。
私は安宿の机で、完成した原稿を読み返していた。今回の記事は、これまでで最も危険な内容だ。
『——聖女様の神託が発表される前日、マリアンヌ侯爵夫人が聖女様と密会されていたという目撃情報がございます。慈善事業を通じた親交でしょうか。それにしても、神託の内容が侯爵夫人のご意向に沿うものばかりなのは、偶然の一致が多いですね——』
直接的な告発はしていない。「密会」「偶然の一致」という言葉を並べただけ。でも、これを読んだ人は考える。
神託は本当に神のお告げなのか。それとも——誰かの台本なのか。
「これで、聖女の神聖性に罅が入る」
呟いて、私は原稿を丁寧に折り畳んだ。
リディアに渡せば、明日の茶会で配布される。社交界の貴婦人たちが読み、噂が広がり、疑念が膨らんでいく。
一歩ずつ。着実に。
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夕刻、リディアが訪ねてきた。
彼女の表情は、いつになく硬かった。
「お嬢様、困ったことになりました」
「何があったの?」
「聖女様の側近が、本気で動き始めています」
リディアは声を潜めた。
「『社交界の窓』の出所を探っているそうです。王都中の印刷所を当たり、紙の流通を調べ、配布に関わった者を特定しようとしていると」
予想より早い。第二号で王太子を揶揄したあたりから、警戒されていたのだろう。
「見つかる可能性は?」
「今のところ低いと思います。印刷所は使っていませんし、配布も私たちのネットワークで分散させていますから。ただ——」
リディアは私の目を見た。
「お嬢様の身が心配です。もし特定されたら……」
「わかってる」
私は窓の外を見た。夕陽が沈みかけている。
聖女の側近が動いているということは、侯爵夫人も動いているということだ。あの女狐が、没落令嬢の反撃を黙って見ているはずがない。
「気をつける。リディアも、無理はしないで」
「私のことはいいんです。お嬢様こそ——」
「大丈夫よ」
私は笑みを作った。
「まだ負けるつもりはないから」
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夜。
蝋燭の灯りの下で第四号の構想を練っていると、いつものように扉が叩かれた。
「入って」
もう施錠を解く手間も省いている。彼——協力者の男は、毎晩同じ時間に訪れるようになっていた。
扉が開き、銀髪の青年が入ってくる。今夜の彼は、いつもより表情が硬い。
「聞いたか。聖女の側近が動いている」
「リディアから聞いた」
「なら話が早い」
彼は窓辺に歩み寄り、外を確認した。誰かに見られていないか警戒しているようだ。
「君の居場所が特定されるのは時間の問題だ。ここを出ろ」
「出て、どこへ?」
「俺の屋敷がある。王都の外れだが、警備は万全だ。そこに移れ」
私は眉をひそめた。
「あなたの屋敷?」
「監視されたくないという気持ちはわかる。だが、今の状況は危険すぎる」
「危険なのは最初からです。今さら何を——」
「今さらじゃない」
彼の声が、わずかに強くなった。
「聖女の背後には侯爵夫人がいる。奴は手段を選ばない。君が邪魔だと判断したら——」
「殺す、と?」
「可能性はある」
沈黙が落ちた。
私は彼の顔を見つめた。整った美貌。感情を隠す碧い瞳。でも今夜は、その奥に何かが揺れている気がした。
「……利害の問題、でしたよね」
「何?」
「あなたと私の関係。投資先が潰れると困るから、協力している。そう言っていたはずです」
「ああ、言った」
「なら、なぜそこまで?」
彼は答えなかった。
私は立ち上がり、椅子の背にかけてあった灰色の外套を手に取った。彼が置いていったもの。返すタイミングを逃して、ずっと手元に置いていた。
「これ、お返しします」
「いらないと言っただろう」
「高価なものです。没落令嬢が持っていていいものじゃない」
外套を畳もうとして、ふと手が止まった。
裏地の縫い目に、何か光るものがある。銀糸で縫い込まれた、小さな紋章。
最初は装飾だと思った。でも、よく見ると——
心臓が、跳ねた。
「これ……」
私は紋章を凝視した。獅子と剣。王冠。間違いない。この紋章は、王家のものだ。それも、分家や遠縁ではなく、直系の——
「第二王子殿下」
声が、震えた。
「あなた、セバスチャン殿下……?」
彼は——セバスチャンは、沈黙した。否定しなかった。
数秒の静寂。蝋燭の炎が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……気づいたか」
低い声。観念したような響き。
「いつから?」
「今。この紋章を見て」
私は外套を握りしめたまま、彼を見上げた。
王太子エドワードの弟。王位継承権第二位の男。「微笑みの毒蛇」「影の宰相」と呼ばれる、この国で最も危険な人物の一人。
その男が、三週間も没落令嬢の元に通い続けていた。情報を渡し、助言をし、外套をかけ、羊皮紙とインクを差し入れて。
「なぜ……」
「なぜ、何だ?」
「なぜ、名乗らなかったんですか」
「名乗って、君が信用したか?」
それは——確かに、しなかっただろう。王族が没落令嬢に協力する理由など、普通は考えられない。
「兄の暴走を止めたかった」
セバスチャンは静かに言った。
「エドワードは愚かな判断をした。証拠もなく断罪し、聖女の言葉だけを信じて婚約者を追放した。このまま放置すれば、王国の信頼が揺らぐ」
「だから、私を利用した?」
「利用という言い方をするなら、そうだ」
彼は私の目をまっすぐに見た。
「君には情報操作の才能がある。俺が持っている情報と、君の技術を組み合わせれば、兄の過ちを正せる。そう判断した」
合理的な説明だった。筋は通っている。
でも——何かが引っかかる。
「それだけですか?」
「何が言いたい」
「『利害の問題』なら、わざわざ外套をかける必要はないでしょう」
セバスチャンの表情が、一瞬だけ揺れた。
私は続けた。
「羊皮紙やインクの差し入れも。『屋敷に移れ』という提案も。投資先を守るにしては、過剰じゃないですか?」
「……」
「殿下」
私は一歩、近づいた。
「私があなたを信用する理由は一つだけです。あなたが私に嘘をつかなかったから」
名前は隠していた。身分も隠していた。でも、彼は私に嘘の情報を渡さなかった。彼の言葉は、全て真実だった——少なくとも、私が確認できる範囲では。
「だから、正直に答えてください。なぜ、そこまでするんですか?」
長い沈黙。
セバスチャンは視線を逸らし、窓の外を見た。
「……わからない」
「は?」
「自分でも、わからないんだ」
彼の声は、初めて聞く響きを帯びていた。困惑。戸惑い。普段の飄々とした態度からは想像できない、生の感情。
「最初は利害だった。君を使えば、兄の過ちを正せる。それだけだった」
「今は?」
「……今は」
彼は振り返り、私を見た。
「君が倒れていたら、放っておけなかった。それだけだ」
答えになっていない。でも——嘘ではないと、わかった。
私は深く息を吐いた。
「わかりました」
「何が」
「あなたが第二王子殿下だということ。そして、あなたの動機が『利害だけではない』かもしれないということ」
外套を、彼に差し出した。
「でも、私の答えは変わりません」
「……何?」
「あなたが誰でも、取引は取引です」
セバスチャンが目を見開いた。
「条件が変わるなら別ですが」
「……変わらない」
「なら、問題ありません」
私は外套を押し付けるように彼の手に渡した。
「第二王子殿下だろうが、ただの貴族だろうが、私がやることは同じです。聖女の嘘を暴き、侯爵夫人を落とし、名誉を取り戻す。そのために協力してくれるなら、歓迎します」
「……君は」
セバスチャンは外套を受け取り、私を見つめた。
その目に浮かんでいるのは、驚きだった。そして——何か、別の感情。
「君は、俺の地位を気にしないのか」
「気にしてどうするんですか。跪けばいいですか?」
「そういう意味じゃない」
「知っています」
私は肩をすくめた。
「私はあなたの行動を見て判断します。肩書きじゃなく。それだけのことです」
セバスチャンは黙ったまま、私を見つめ続けた。
その視線が、妙に熱い気がして——私は思わず目を逸らした。
「と、とにかく。屋敷に移る件は、お断りします。監視されるのは嫌ですから」
「……わかった」
彼の声は、少し掠れていた。
「ただし、護衛は増やす。文句は言わせない」
「護衛? いつの間に——」
「最初からだ。遠巻きにだが、配置している」
私は絶句した。
最初から。つまり、三週間前からずっと、私は彼に守られていたということか。
「……なんで、今まで言わなかったんですか」
「言ったら、君は怒っただろう」
「怒ります。今も怒っています」
「だろうな」
彼は——セバスチャンは、小さく笑った。
初めて見る、本物の笑顔だった。皮肉でも、作り笑いでもない。純粋に可笑しそうな、少年のような笑み。
「でも、後悔はしていない」
「……勝手にしてください」
私はそっぽを向いた。顔が熱い。なぜか、心臓がうるさい。
扉に向かう足音が聞こえた。
「明日、また来る。第三号の反応を伝える」
「……はい」
「それと——」
「何ですか」
「セバスチャンでいい」
「は?」
「殿下、とか堅苦しいのは嫌いだ。二人の時は、名前で呼べ」
言い残して、彼は去っていった。
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一人になった部屋で、私は深く息を吐いた。
セバスチャン・ルイセン。この国で最も危険な男の一人。
それが、私の協力者の正体だった。
「……敵じゃなくてよかった」
呟いて、窓の外を見る。
「敵だったら、厄介すぎる」
夜空に、月が浮かんでいた。
三週間前、断罪の夜と同じ月。でも、今の私は——あの時とは違う場所に立っている。
味方がいる。情報がある。そして——
「セバスチャン、か」
名前を呟いてみる。
なぜか、胸の奥がざわついた。
彼の笑顔が、頭から離れない。
「……何なの、これ」
自分でもわからない感情を持て余しながら、私は机に向かった。
第三号は明日、配布される。聖女の神聖性に、大きな罅が入る日だ。
感傷に浸っている暇はない。
でも——
「後悔はしていない、か」
彼の言葉が、耳の奥で響いていた。




