第4話 孤立の終わり
断罪から二週間が過ぎた頃、私は王都の下町にいた。
平民が行き交う石畳の通り。露店が並び、威勢のいい声が飛び交う。伯爵令嬢だった頃には足を踏み入れることのなかった場所だ。
目的地は、通りの奥にある小さな茶店だった。
扉を開けると、カウンターの向こうに栗色の髪の女性が立っていた。私を見た瞬間、その顔がぱっと明るくなる。
「お嬢様……!」
「リディア」
私の元侍女、リディア・メイフィールド。彼女は店主に断りを入れると、足早にこちらへ駆け寄ってきた。
「本当にお嬢様だ。お元気そうで……ああ、でも少しお痩せになりましたね。ちゃんと召し上がっていますか?」
「あなたは相変わらずね」
矢継ぎ早の質問に、思わず笑みがこぼれた。変わっていない。学園に通っていた頃、毎朝同じように世話を焼いてくれた彼女のままだ。
「奥の席、使わせてもらえる? 話があるの」
「もちろんです。お茶をお持ちしますね」
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店の奥まった席で、私たちは向かい合った。
湯気を立てる紅茶のカップ。質素だが、温かい香りが心を落ち着かせる。
「手紙、ありがとう」
「お嬢様こそ。お手紙をいただいた時、どれほど嬉しかったか」
リディアは目を潤ませていた。
「断罪の日、私は何もできませんでした。お嬢様が連れ出されるのを、ただ見ていることしか……本当に、申し訳ありませんでした」
「謝らないで。あなたのせいじゃない」
「でも——」
「リディア」
私は彼女の手を取った。少し荒れた、働く者の手だ。伯爵家を辞めてから、きっと苦労したのだろう。
「私を信じてくれた。それだけで十分よ」
リディアは唇を震わせ、こくりと頷いた。
しばらく、二人で黙って紅茶を飲んだ。言葉にしなくても伝わるものがある。久しぶりに、そんな安らぎを感じた。
「それで、お嬢様。お手伝いできることがあるとおっしゃっていましたが」
「ええ」
私はカップを置き、声を潜めた。
「『社交界の窓』という情報紙を知っている?」
「存じております。最近、茶会で話題になっているとか。聖女様の……その、噂が書かれているものですよね」
「それを書いているのは私よ」
リディアの目が丸くなった。
「お嬢様が……?」
「詳しいことは話せない。でも、これを社交界に届けるには協力者が必要なの。信頼できる人が」
私はリディアの目をまっすぐに見た。
「危険なことは頼まない。ただ、紙面を然るべき場所に届けてほしいの。茶会や夜会で、さりげなく。できる?」
リディアは数秒、沈黙した。
そして、顔を上げた時——その目には、かつて見たことのない光が宿っていた。
「お嬢様の汚名を晴らすためなら、何でもいたします」
「リディア……」
「私、ずっと悔しかったんです。お嬢様が何もしていないのに、誰もそれを知ろうとしなかった。私だけが知っていて、でも誰にも信じてもらえなくて」
彼女の声が、震える。
「だから、やらせてください。私にできることがあるなら」
私は深く息を吐いた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがとう」
一人じゃない。その実感が、また少し強くなった。
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リディアと別れ、安宿に戻ったのは夕刻だった。
部屋の扉を開けると、床に一通の手紙が落ちていた。差出人の名前はない。封蝋には見覚えのある紋章が押されている。
「これは……」
ローゼンクランツ家の紋章。伯爵家の令嬢、アメリア・ローゼンクランツの家だ。
断罪の日、彼女は私を罵った側の一人だった。「悪役令嬢」と呼び、聖女への同情を声高に叫んでいた。なぜ、そんな相手から手紙が?
警戒しながら封を切った。
『ヴィオレッタ様。突然のお手紙をお許しください。あの日のこと、どうしてもお伝えしなければならないことがございます。私があなた様を罵ったのは、マリアンヌ侯爵夫人に脅されてのことでした。本当に申し訳ありません。詳しいことは、直接お会いしてお話しさせてください——アメリア・ローゼンクランツ』
私は手紙を読み返した。三度、四度と。
脅されていた。侯爵夫人に。
断罪の日、私を罵っていた貴族たちの中に、彼女の姿があったのは覚えている。でも——そういえば、一瞬だけ視線を逸らした令嬢がいた気がする。あれが、アメリアだったのだろうか。
「侯爵夫人……」
マリアンヌ侯爵夫人。社交界の女王と呼ばれる女。慈善事業で名を馳せ、多くの貴婦人たちに影響力を持っている。
彼女が、なぜアメリアを脅す必要があった? なぜ、私の断罪に関わっている?
考え込んでいると、扉が叩かれた。
「……誰?」
「俺だ」
聞き慣れた声。協力者の男だ。
私は手紙を机の引き出しにしまい、扉を開けた。
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「侯爵夫人が動いていたか」
外套を脱ぎながら、彼は低く呟いた。
私がアメリアの手紙について話すと、彼の表情がわずかに険しくなった。普段は飄々としているのに、珍しい反応だ。
「やはり、か」
「知っていたの?」
「疑ってはいた。聖女の後ろに、誰かがいるとは思っていた」
彼は窓辺に歩み寄り、外を見た。
「マリアンヌ侯爵夫人。社交界の女王にして、王妃派閥の中心人物。表向きは慈善家だが、裏では——」
「裏では?」
「まだ確証がない。だが、聖女のスポンサーが彼女であることは間違いない」
私は眉をひそめた。
聖女のスポンサー。つまり、聖女ルミエールを操っている人物がいるということか。あの「神託」も、侯爵夫人の台本だったとしたら——
「アメリアをどうする?」
彼の問いに、私は考え込んだ。
手紙の内容が本当なら、アメリアは被害者だ。脅されて、仕方なく私を罵った。でも、これが罠という可能性もある。侯爵夫人が私をおびき出すために仕組んだ偽の謝罪かもしれない。
「……会ってみる」
「危険だぞ」
「わかってる。でも、確かめなきゃいけない」
彼は振り返り、私を見た。
「一人で行くな」
「あなたが一緒に来てくれるの?」
「そういう意味じゃない。護衛を——」
「護衛?」
私は首を傾げた。彼は一瞬、口ごもった。
「……いや、なんでもない。とにかく、慎重にしろ」
「心配してくれるのね。利害の問題だって言っていたのに」
「利害の問題だ」
即答。でも、その声には微かな硬さがあった。
「君が捕まったら、俺の計画も終わる。だから慎重にしろと言っている。それだけだ」
「ふうん」
私は彼の顔をじっと見た。
整いすぎた美貌。感情を読ませない碧い瞳。でも——今夜の彼は、少しだけ違う気がした。言葉と態度が、噛み合っていない。
「あなた、意外と心配性なんですね」
「違う」
「即答が早すぎます」
彼の眉がぴくりと動いた。図星だったらしい。
「……余計なことを言うな」
「事実を指摘しただけですけど」
私は小さく笑った。彼は憮然とした表情で視線を逸らす。
なんだか可笑しかった。普段は飄々として、何を考えているかわからない男が、こんな反応をするなんて。
「それで、侯爵夫人についてもっと教えてくれる?」
話題を戻すと、彼はわずかに安堵したように息を吐いた。
「ああ。奴を崩せば、聖女も終わる。そういう構造だ」
「具体的には?」
「侯爵夫人は聖女に資金と人脈を提供している。見返りに、聖女の『神託』を利用して政敵を追い落としている。君の断罪も、その一環だった可能性がある」
私は息を呑んだ。
つまり、私は——最初から標的だったということか。悪役令嬢に仕立て上げられたのではなく、政治的な理由で排除されたのだと?
「なぜ私が?」
「フローレンス伯爵家の利権だろう。南部の穀倉地帯は、侯爵夫人の派閥にとって喉から手が出るほど欲しい土地だ。君が断罪されて家が没落すれば、その隙に——」
「利権を奪える」
「そういうことだ」
頭の中で、パズルのピースが嵌まっていく。
聖女の虚偽。王太子の暴走。そして、その背後にいる侯爵夫人。全てが繋がっている。
「……なるほど」
「どうする?」
「決まっています」
私は立ち上がり、机に向かった。新しい羊皮紙を取り出す。
「まずアメリアに会う。彼女が本当に脅されていたなら、協力者になってもらう。そして——」
振り返り、彼の目を見た。
「侯爵夫人を、落とします」
彼は一瞬、目を見開いた。そして——初めて見る表情で、笑った。
嘲笑でも、皮肉でもない。純粋に、面白がっている顔。
「……君、本当に面白いな」
「何度目ですか、それ」
「何度でも言う。事実だからな」
彼は外套を羽織り、扉に向かった。
「アメリアとの接触、俺が場所を用意する。人目につかない、安全な場所だ」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。利害の問題だ」
また、その言葉。
でも今度は、私も言い返さなかった。彼がそう言いたいなら、そう言わせておけばいい。
扉が閉まる直前、彼が振り返った。
「ああ、それと——外套、返さなくていい」
「え?」
「寒くなってきたからな。使え」
言い残して、彼は去っていった。
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一人残された部屋で、私は椅子の背にかけた灰色の外套を見つめた。
上質な布地。銀糸の刺繍。彼にとっては何でもない品かもしれないが、私には——
「……変な人」
呟いて、私は机に向かった。
アメリアへの返信を書かなければ。そして、第三号の構想を練らなければ。
やることは山ほどある。でも、不思議と気持ちは軽かった。
リディアがいる。アメリアが味方になるかもしれない。そして——名前も知らない、あの協力者がいる。
孤独じゃない。
一人で戦っているんじゃない。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。王都の街並みが、茜色に染まっていた。
「侯爵夫人……」
その名前を、心に刻む。
聖女の背後にいる黒幕。私の人生を壊した張本人の一人。
必ず、落とす。
でもそれは復讐じゃない。奪われたものを取り戻すための、正当な戦いだ。
私はペンを取り、羊皮紙に向かった。




