第3話 嘘は書かない、真実を切り取るだけ
創刊号を配布してから三日が経った。
私は安宿の部屋で、第二号の原稿に向かっていた。窓から差し込む午後の陽光が、羊皮紙の上に影を落としている。
「社交界の窓」は、予想以上の反響を呼んでいるらしい。
あの銀髪の男——「協力者」を名乗る怪しい人物が、昨夜そう教えてくれた。茶会で話題になっている。貴婦人たちが「面白い読み物ができた」と噂している。そして、聖女の「感動エピソード」について、ちらほらと疑問の声が上がり始めていると。
「まだ小さな波だ。でも、波は広がる」
彼はそう言って、薄く笑っていた。
その言葉を反芻しながら、私はペンを走らせる。
第二号の目玉は、王太子殿下の発言だ。
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創刊号が出回った翌日、殿下は公の場で聖女を庇ったらしい。
「あのような下品な噂話を信じる者は愚かだ。聖女ルミエールの清らかさを疑う者は、我が目の前に出てくるがいい」
協力者が教えてくれた、殿下の言葉そのままだ。
普通なら、これで噂は沈静化する。王太子という最高権力者が否定したのだから、誰も逆らえない。
でも、私には別の見え方があった。
殿下は「証拠」を示していない。ただ「信じる者は愚かだ」と断じただけ。つまり、「俺が正しいから正しいのだ」という論法だ。
前世で何度も見たパターンだった。炎上を鎮火しようとして、逆に火に油を注ぐ人。
「庇えば庇うほど、怪しく見える」
私は呟いて、ペンを取った。
第二号の記事は、こう書き出した。
『——先日の夜会にて、王太子殿下が聖女様を庇われる場面がございました。「清らかさを疑う者は愚かだ」という力強いお言葉に、殿下の深いご愛情が窺えます。聖女様もさぞお幸せなことでしょう——』
好意的に書いている。批判は一切ない。
でも、これを読んだ人は考える。
なぜ殿下は、あそこまで必死に庇うのか。疑われて困ることでもあるのか。そもそも、婚約者がいるのに「深いご愛情」とは何事か。
私は聖女を攻撃しない。王太子を批判しない。
ただ「事実」を好意的に並べるだけ。読者が勝手に違和感を覚えるように。
「嘘は書かない」
それが私のルールだ。
「真実を、切り取るだけ」
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夕暮れ時、協力者の男が再び訪れた。
もう三度目だ。毎晩のように現れては、情報を置いていく。そして私の原稿を読み、短い感想を述べて去っていく。
「聖女の側近が動いている」
今夜の情報は、それだった。
「動いている?」
「『社交界の窓』を潰せ、と。情報紙の出所を探っているらしい」
私は眉をひそめた。予想より早い反応だ。創刊号一枚で、もう脅威と見なされたのか。
「見つかる可能性は?」
「今のところ低い。君は匿名で、配布も間接的だ。ただ——」
彼は窓の外を見た。
「気をつけた方がいい。聖女の後ろには、もっと大きな影がある」
「大きな影?」
「今はまだ言えない。確証がないからな」
また、はぐらかされた。この男はいつもそうだ。情報を小出しにして、私の興味を引く。
「あなた、本当に何者なんですか」
「しつこいな」
彼は肩をすくめた。
「言っただろう。王太子の判断に疑問を持っている者だ。それ以上でも以下でもない」
嘘だ、と直感が告げる。
この男の情報網は異常すぎる。宮廷の内部事情、聖女の側近の動き、社交界の反応——すべてをリアルタイムで把握している。そんなことができるのは、相当な地位にある者だけだ。
でも、今は追及しない。彼が情報をくれる限り、正体は二の次だ。
「……わかりました。気をつけます」
「ああ。それと——」
彼は机の上の原稿を一瞥した。
「第二号、いい出来だ。殿下が庇うほど墓穴を掘る構造になっている」
「褒めても何も出ません」
「知ってる」
彼は薄く笑って、扉に向かった。
「無理はするなよ。倒れたら元も子もない」
「ご心配なく」
「心配じゃない。投資先が潰れると困るだけだ」
相変わらず、素直じゃない言い方をする。私は小さく肩をすくめて、原稿に視線を戻した。
扉が閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
「さて、続きを——」
ペンを取ろうとして、ふと気づいた。
彼が座っていた椅子に、何かが置いてある。
小さな包みだった。開けてみると、中には上質な羊皮紙の束と、新品のインク瓶が入っていた。
「……なに、これ」
消耗品の差し入れ。私が資金難なのを知っているのだろう。でも、わざわざ言わずに置いていくあたりが、妙に気恥ずかしい。
「変な人」
呟いて、私は包みを机の隅に置いた。
礼は今度言おう。今は原稿を仕上げなければ。
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深夜。
蝋燭の灯りが揺れる中、私は机に向かい続けていた。
第二号の原稿は八割方できている。あとは推敲して、明日の朝には完成する予定だった。
でも、目が霞む。
ここ数日、まともに眠っていない。昼は情報収集と執筆、夜は協力者との打ち合わせ。前世の社畜時代を思い出すような生活だ。
「……まずいな」
過労死した前世の記憶が、頭の隅をよぎる。
無理をしすぎると死ぬ。それは身をもって知っている。でも、今は立ち止まれない。聖女側が動いている以上、先手を打ち続けなければ。
ペンを握る手が、重い。
文字が、滲んで見える。
「……少しだけ」
少しだけ、目を閉じよう。
そう思った瞬間、意識が遠のいた。
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——どれくらい眠っていたのだろう。
ふと、気配を感じた。
誰かがいる。部屋の中に。
起きなければ、と思うのに、体が動かない。深い眠りの底に沈んでいるようだった。
足音が近づく。
そして——何か、温かいものが肩にかけられた。
柔らかい布の感触。かすかに香る、上質な香水の残り香。
「……無理をするなと言っただろう」
低い声が、遠くで聞こえた気がした。
でも、それが夢なのか現実なのか、判断がつかないまま——私は再び眠りに落ちた。
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目を覚ましたのは、夜明け過ぎだった。
窓から差し込む朝陽が眩しい。私は机に突っ伏したまま眠っていたらしく、首と肩がひどく凝っていた。
「……最悪」
呟いて、体を起こす。
その時、肩から何かが滑り落ちた。
灰色の外套だった。
上質な布地。丁寧な縫製。裏地には銀糸の刺繍が施されている。どう見ても、この安宿に似つかわしくない高級品だ。
「これ……」
昨夜の記憶が、おぼろげに蘇る。
誰かが来た。何かをかけてくれた。「無理をするな」と言う声。
あの男だ。協力者を名乗る、銀髪の青年。
彼が、この外套を——?
「……なんで」
意味がわからなかった。彼は「投資先が潰れると困る」と言っていた。つまり、私との関係は純粋に利害だけのはず。
なのに、こんなことを。
外套を手に取り、じっと見つめる。高級な仕立て。かすかに残る香水の香り。これは相当な値打ち物だ。うっかり忘れていくようなものではない。
「……返さないと」
呟いて、外套を椅子の背にかけた。
今夜、彼が来たら返そう。そして、余計なことはするなと言わなければ。私は誰かの同情や施しを受けたいわけではない。
こんこん、と扉が叩かれた。
今度は誰だ。朝から訪問者が多い。
私は警戒しながら扉を開けた。
誰もいなかった。
ただ、足元に手紙が一通、落ちていた。
宛名には、見覚えのある筆跡で私の名前が書かれている。
「リディア……」
封を切り、中身を読んだ。
『お嬢様へ。突然のお手紙、驚きましたが、それ以上に嬉しく思いました。私はずっと、お嬢様の無実を信じておりました。あの断罪は間違っています。私にできることがあれば、何でもお申し付けください。お嬢様のお力になれるなら、本望です——リディア・メイフィールド』
手紙を持つ手が、震えた。
信じていた。
彼女は、ずっと信じていてくれた。
断罪されて、社会から追放されて、家族にも見捨てられて。誰も味方がいないと思っていた。一人で戦うしかないと覚悟していた。
でも——
「リディア……」
目の奥が熱くなる。
泣くな。泣いている場合じゃない。
でも、止められなかった。
一筋、涙が頬を伝った。
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しばらくして、私は顔を上げた。
涙を拭い、深呼吸をする。手紙を丁寧に折り畳み、机の引き出しにしまった。
孤独じゃなかった。
味方が、いた。
「……よし」
私は机に向かい、新しい羊皮紙を取り出した。
リディアへの返信を書かなければ。そして、彼女に協力を頼むのだ。情報紙の配布ネットワークを作るために。
窓の外では、王都の街並みが朝日に輝いていた。
断罪から十日。私はまだ、何も取り戻していない。でも——
「一人じゃない」
その事実だけで、胸の奥に火が灯る気がした。
椅子の背にかけられた灰色の外套が、朝の光を受けて静かに揺れている。
あの男にも、今夜礼を言おう。そして、これを返して——
「……いや」
少しだけ、もう少しだけ。
借りておいても、いいかもしれない。
理由は、自分でもよくわからなかった。




