第2話 社交界の窓、創刊
断罪から七日が過ぎた。
安宿の小さな部屋で、私は机に向かっていた。窓から差し込む午後の光の下、羊皮紙の束とインク瓶が並んでいる。
この一週間、私は準備に費やした。
まず、王都の古書店を回った。没落令嬢の姿では入りにくい店もあったが、平民の服に着替えれば誰も気にしない。伯爵令嬢時代の私を知る者は、こんな場末の古書店には来ないのだ。
そこで見つけたのが、百年前に出版された詩集だった。
『月下の祈り』——無名の詩人が遺した、今では誰も読まない古い本。その中の一篇を読んだ時、私は思わず笑ってしまった。
聖女ルミエールが学園で披露した「感動のエピソード」。孤児院で過ごした幼少期に、月明かりの下で神に祈りを捧げたという美しい話。社交界の婦人たちを涙させ、殿下を虜にしたあの逸話が——この詩集の内容と、驚くほど似ていた。
言い回し。情景描写。祈りの言葉。
偶然の一致にしては、あまりにも完璧すぎる。
「さて」
私は羊皮紙を手に取った。
ここからが本番だ。
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『社交界の窓』——それが、私の作る情報紙の名前だった。
内容は三部構成にした。一面は今週の話題。二面は社交界のゴシップ。三面はファッション批評。そして四面に「気になる噂」というコーナーを設ける。
重要なのは、直接的な告発をしないこと。
前世で学んだ教訓だ。炎上を起こしたい時、最悪の手は「正面から批判すること」。人は押し付けられた結論を嫌う。自分で「発見」した真実にこそ、強く反応する。
だから私は、こう書いた。
『——先日の夜会で話題になった聖女様の幼少期の逸話。月明かりの下での祈りという美しいお話に、多くの方が心を打たれたことでしょう。ところで、読書好きの方ならご存知かもしれませんが、百年前の詩集『月下の祈り』にも、よく似た情景が描かれております。古典に親しまれる聖女様のこと、きっとこの詩集がお好きなのでしょうね——』
嘘は一つも書いていない。
聖女が詩集を盗作したとは言っていない。ただ「似ている」と指摘し、「きっとお好きなのでしょう」と好意的に解釈しただけ。
でも、これを読んだ人は考える。
本当に「好き」なだけ? それとも——?
疑問の種を蒔く。それが最初の一手だ。
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夕暮れ時、私は別の羊皮紙に向かっていた。
宛先は、リディア・メイフィールド。私の元侍女だ。
断罪の後、フローレンス家を辞めさせられたと聞いている。私のせいで職を失ったのだ。恨まれていても仕方がない。
でも、試す価値はあった。
『リディアへ。突然の手紙を許してください。私は今、王都郊外で暮らしています。あなたに迷惑をかけたくはありませんが、もし——もし、まだ私を信じてくれるなら、返事をください。同封した住所に届けてくれれば、届きます』
これ以上は書けなかった。
彼女が応じてくれる保証はない。でも、配布ネットワークを作るには協力者が必要だ。一人では、社交界に紙面を届けることすらできない。
封をして、窓辺に置いた。明日、街の郵便屋に預けよう。
返事が来るかどうかは、賭けだ。
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深夜。
蝋燭の灯りの下で、私は創刊号の最終確認をしていた。
消失インクで書いた部分は、四十八時間で消える。証拠を残さないための保険だ。高価だったが、伯爵令嬢時代のへそくりを使えば何とかなった。
あとは、これを刷って配布するだけ——
こんこん、と扉が鳴った。
私は手を止めた。
こんな時間に、この安宿を訪ねる者がいるはずがない。誰も私の居場所を知らないのだから。
「……誰?」
返事はない。
私は机の上のペーパーナイフを握り、そっと扉に近づいた。
「開けてもらえるかな。話がある」
低い男の声。聞き覚えは——ない。
「何の用ですか」
「君が書いているものについて」
心臓が跳ねた。
まだ一枚も配布していない。なのに、この男は知っている?
「……どうやってここを?」
「それを説明するには、扉を開けてもらう必要がある」
沈黙が流れた。
罠かもしれない。聖女の手の者か、あるいは侯爵夫人の刺客か。でも——殺すつもりなら、わざわざ声をかけない。
私は意を決して、扉を細く開けた。
廊下に立っていたのは、銀髪の青年だった。
深い碧の瞳。整いすぎた顔立ち。灰色のローブを羽織っているが、その下の服は明らかに上質な仕立てだ。
見覚えがある。一週間前——断罪の夜、会場の隅で私を見ていた男。
「君か」
彼は薄く笑った。
「覚えていてくれたとは光栄だ」
「忘れるわけがないでしょう。人の断罪を『面白い』と言った顔なんて」
「読唇術ができるのか。ますます興味深い」
彼は一歩、近づいた。私は後退しない。退いたら負けだと、本能が告げていた。
「中に入れてもらえるかな。立ち話は目立つ」
「……信用できると思いますか?」
「思わないだろうね。でも、俺は君に利益をもたらせる」
「利益?」
「情報だ」
彼の碧眼が、蝋燭の光を受けて輝いた。
「王太子の判断に疑問を持っている者は、君だけじゃない。俺もその一人だ」
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結局、私は彼を部屋に入れた。
狭い安宿の一室。彼は窓際の椅子に座り、私は机の前に立ったまま対峙した。
「まず名乗ったらどうですか」
「名乗れない事情がある。今は——そうだな、『協力者』とでも呼んでくれ」
「怪しすぎます」
「だろうね」
彼は悪びれもせずに笑った。
「でも、君も本名で活動するつもりはないだろう? その情報紙、匿名で出すんじゃないのか」
図星だった。
彼は机の上の羊皮紙をちらりと見た。私が書いた『社交界の窓』の原稿。まだ誰にも見せていないはずなのに。
「どこまで知っているんですか」
「君がこの一週間、古書店を回っていたこと。消失インクを買ったこと。そして——聖女の『感動エピソード』が、古い詩集の盗作である可能性に気づいたこと」
背筋が冷えた。
この男の情報網は、異常だ。没落令嬢の動向を、ここまで正確に把握している。普通の貴族にできることではない。
「……あなた、何者なんですか」
「さっき言っただろう。王太子の判断に疑問を持っている者だ」
彼は足を組み、私を見上げた。
「取引をしないか」
「取引?」
「俺は君に情報を渡す。宮廷の内部事情、貴族間の力関係、聖女の周辺で何が起きているか。君はそれを使って、君の望むことをすればいい」
「見返りは?」
「君が成功すること、それ自体が俺の利益になる」
意味がわからなかった。私が成功して、この男に何の得がある?
「……信用できません」
「だろうね」
彼は立ち上がった。
「でも、考えてみてくれ。君には情報が必要だ。俺にはそれがある。利害は一致している」
扉に向かいながら、彼は振り返った。
「ああ、一つだけ」
「何ですか」
「君の書いたもの、読ませてもらった。なかなかいい出来だ」
私は眉をひそめた。いつの間に読んだのか。
「嘘は書かない。真実を切り取るだけ。その姿勢、俺は好きだよ」
「褒めても何も出ませんけど」
「褒めてるんじゃない。評価しているんだ」
彼は扉を開けた。
「また来る。——君、面白いな」
その言葉を残して、銀髪の青年は夜の闘へ消えていった。
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一人残された部屋で、私は深く息を吐いた。
何だったのだ、今のは。
怪しすぎる。情報網が広すぎる。そして——あの立ち居振る舞い、あの目。普通の貴族ではありえない。
でも、認めざるを得なかった。
彼の言う通り、私には情報が必要だ。宮廷の内部事情を知らなければ、効果的な一手は打てない。
「利用されているのか、利用しているのか……」
呟いて、私は机に向き直った。
創刊号は完成している。あとは配布するだけ。リディアから返事が来れば、ネットワークの第一歩になる。
窓の外では、夜明けが近づいていた。
あの銀髪の男が何者であれ、私のやることは変わらない。
「社交界の窓」を世に出す。聖女の虚像に、最初の罅を入れる。
羊皮紙を手に取り、私は小さく笑った。
「さて、第一手」
ゲームは、始まったばかりだ。




