第17話 軍靴の音
王宮生活三週間目の朝、私は見慣れない光景を目にした。
廊下の向こうから、重々しい足音が近づいてくる。軍服を纏った男が数人の従者を引き連れて歩いていた。先頭に立つのは、厳つい体格の壮年の男。短く刈り込んだ髪に、頬を走る古い傷跡。
すれ違いざま、男の目が私を捉えた。値踏みするような、冷たい視線。私が頭を下げる間もなく、彼は通り過ぎていった。
「お嬢様、あの方は」
傍らのリディアが小声で言う。
「ハワード侯爵です。軍務卿を務めていらっしゃいます」
軍務卿。王国軍の実質的な最高責任者。なぜそんな人物が、こんな朝早くから王宮にいるのだろう。
「最近、頻繁にお見かけするようになりました。以前はそれほどでもなかったのですが」
リディアの言葉に、私は眉を寄せた。
昼前、編集部屋でリディアからの報告を受けた。
「エドワード殿下のことですが」
失脚した元王太子。名誉回復の裁判で私に謝罪し、継承順位を降格された男。今は王宮の離れで謹慎に近い生活を送っているはずだった。
「最近、ハワード侯爵と頻繁にお会いになっているようです」
「ハワード侯爵と?」
「はい。侯爵はかつてエドワード殿下の教育係を務めていらっしゃったとか。師弟関係にあたるそうです」
教育係。それなら、気にかけて会いに行くのは不自然ではない。けれど——頻繁に、というのが引っかかる。
「他には何か」
「エドワード殿下の従者が、最近入れ替わったそうです。新しく配属された者たちは、ハワード侯爵の推薦だとか」
私は窓の外を見た。雲が厚い。冬が近づいている証だ。
午後、セバスチャンの執務室を訪ねた。
約束があったわけではない。けれど最近、彼は公務の合間に私の部屋に立ち寄るようになっていた。だから私も、同じようにしてみようと思った。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入れ」
執務室に入ると、セバスチャンは書類の山に埋もれていた。顔を上げた彼の目に、一瞬だけ柔らかいものが浮かぶ。すぐに消えたが、私は見逃さなかった。
「どうした」
「少しお話があって」
私は向かいの椅子に座り、リディアから聞いた情報を伝えた。ハワード侯爵のこと。エドワードとの接触のこと。従者の入れ替えのこと。
セバスチャンは黙って聞いていた。表情は変わらないが、目の奥が険しくなっていく。
「……知っていたのですか」
「ある程度は。ハワードは昔から兄に執心だった。兄を王にすることが、自分の夢だと思っている節がある」
彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「それだけなら、まだいい。問題は——」
「問題は?」
「軍の異動だ。最近、不自然な人事が増えている。ハワードの息がかかった将校が、要所に配置されつつある」
私は息を呑んだ。
「それは……」
「まだ確証はない。だが、警戒はしている」
セバスチャンは視線を私に戻した。
「君も気をつけろ。ハワードは、俺の婚約者を快く思っていないはずだ」
夕方、気分転換に庭園を歩いていると、見覚えのある姿を見つけた。
「レオナルド様」
金髪の青年が振り返った。レオナルド・ヴァイス侯爵令息。名誉回復の裁判の頃、私に協力を申し出てくれた人物だ。
「ヴィオレッタ嬢。お久しぶりです」
彼は穏やかに微笑んだ。派手さはないが、誠実そうな印象は変わらない。
「王宮でお会いするとは思いませんでした」
「父の代理で来ています。貴族議会の準備で」
私たちは並んで歩き始めた。他愛のない会話を交わしながら、彼が何か言いたげなのに気づいた。
「……何かありますか」
「お気づきですか」
レオナルドは苦笑した。
「実は、少しお耳に入れておきたいことがありまして。ヴァイス家は中立を保っていますが、それゆえに様々な情報が入ってきます」
彼は声を落とした。
「ハワード侯爵が、最近動きを活発化させています。軍内部だけでなく、貴族たちにも働きかけているようです」
「何のために」
「分かりません。ただ——」
レオナルドは言葉を選ぶように間を置いた。
「エドワード殿下の復権を望む声が、一部の貴族の間で囁かれ始めています。ハワード侯爵が、その中心にいるらしい」
復権。失脚した王太子を、再び継承者に戻す動き。
「なぜ、私にこれを」
「貴女は第二王子殿下のご婚約者です。殿下のお立場に影響があることですから」
レオナルドは真剣な目で私を見た。
「それに——以前、貴女は私に言いましたね。正しいことのために戦うと。私は、その姿勢を尊敬しています」
私は礼を言い、彼と別れた。
部屋に戻る道すがら、頭の中で情報を整理した。
ハワード侯爵。エドワード復権派。軍の異動。オズワルドとの関係は不明だが、同じ方向を向いている可能性がある。
イザベラは小さな駒だった。その背後には、もっと大きな力が蠢いている。
窓の外で、風が木の葉を散らしていた。冬の足音が近づいている。
何かが起きる。近いうちに。
その予感が、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。




