第11話 選択
銀色の髪が、視界を埋めた。
セバスチャンが——私の前に立っていた。
鈍い音がした。肉を切る、嫌な音。
「殿下っ!」
誰かが叫んだ。護衛たちが駆け寄り、襲撃者を取り押さえる。
でも、私はそれを見ていなかった。
目の前で、セバスチャンがゆっくりと振り返る。その左腕から、赤いものが滴っていた。
「——大丈夫か」
彼の声は、いつもと変わらなかった。
「あなたが……あなたが、怪我を……」
「かすり傷だ。騒ぐな」
そう言いながら、彼の顔色は蒼白だった。
私は震える手で、彼の腕に触れた。深くはない。でも、血が——血が止まらない。
「馬鹿……っ」
声が震えた。
「なんで、なんで庇ったりしたの……っ」
「さあな」
彼は薄く笑った。
「体が勝手に動いた」
法廷は、騒然としていた。
護衛たちが襲撃者を拘束し、法官たちが避難を呼びかけている。傍聴席の貴族たちは混乱し、悲鳴と怒号が入り混じっていた。
その中で——新たな人物が、法廷に入ってきた。
金髪に緑の目。王太子エドワード。
「何事だ」
彼の声が響いた。護衛たちが道を開け、王太子が中央に進み出る。
私と目が合った。
六週間前、あの断罪の夜と同じ目。でも——今日は、何かが違っていた。彼の目には、困惑と、そして——後悔のようなものが浮かんでいた。
「兄上」
セバスチャンが、腕を押さえながら声を上げた。
「何をしに来た」
「父上の命だ。——謝罪をせよ、と」
傍聴席が、静まり返った。
王太子が——謝罪?
エドワードは私の前に歩み寄った。そして——頭を下げた。
「ヴィオレッタ・フローレンス」
「……殿下」
「私の判断は、誤っていた」
低い声。絞り出すような響き。
「証拠も確認せず、聖女の言葉だけを信じて、君を断罪した。弁明の機会を奪い、君の人生を壊した。——全ては、私の過ちだ」
彼は顔を上げた。その目には——屈辱と、苦悩が入り混じっていた。
「心より、謝罪する」
法廷が、どよめいた。
王太子が、公衆の面前で頭を下げている。この国の次期国王が、没落令嬢に謝罪している。
前代未聞の光景だった。
私は——何を言うべきか、わからなかった。
恨んでいた。憎んでいた。あの夜、弁明すら聞かずに私を断罪した男を。
でも今、目の前で頭を下げている彼は——ただの、弱い人間に見えた。
「……謝罪を、受け入れます」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「でも、忘れはしません」
エドワードは頷いた。
「当然だ」
彼は背を向け、法廷を去っていった。その背中は、六週間前より小さく見えた。
後で聞いた話によると、王太子エドワードは王位継承順位を二位に降格されたという。「正義の王子」の名声は地に落ち、彼を支持していた派閥は散り散りになった。
「ざまぁ」という言葉が、頭をよぎった。
でも、不思議と——勝利の高揚感は薄かった。
今はただ、隣で腕を押さえているセバスチャンのことが気になっていた。
裁判所の控室。
医師がセバスチャンの傷を手当てしている。幸い、傷は浅かった。骨にも腱にも達していない。数週間で完治するだろうと言われた。
医師が退出した後、私たちは二人きりになった。
「……馬鹿」
私は、窓辺に立ったまま呟いた。
「さっきも言われた」
「何度でも言います。馬鹿です」
振り返ると、セバスチャンは長椅子に座り、包帯を巻かれた腕を見つめていた。
「『行かない』って言ったじゃないですか」
「ああ、言った」
「『勝手にしろ』って」
「言った」
「なのに、なんで——」
「勝手にしろと言ったのに」
彼は顔を上げた。
その目が——まっすぐに、私を捉えた。
「勝手にできなかった」
心臓が、大きく跳ねた。
「昨夜、一睡もできなかった。君のことが頭から離れなかった。朝になって、気づいたら裁判所に向かっていた」
「セバスチャン……」
「『行かない』と言った自分が、嘘つきだとわかっていた。でも、行かずにはいられなかった」
彼は立ち上がり、私の方へ歩いてきた。
「君が刺されそうになった時、体が勝手に動いた。考える前に、飛び出していた」
「なぜ」
「わからない。——いや」
彼は目を伏せた。
「わかっている。わかっているけど、認めるのが——怖かった」
「何を……」
「俺は」
セバスチャンは、私の目を見た。
「君を失いたくなかった。それだけだ」
時が、止まったように感じた。
彼の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
「ずっと、利害だと言い聞かせていた。投資だと。計算だと」
彼の声は、低く、震えていた。
「でも、嘘だった。——最初から、嘘だった」
「セバスチャン」
「君が他の男と話しているのを見て、胸がざわついた。君が危険だと聞いて、居ても立ってもいられなかった。君が『対等でいたい』と言った時、嬉しかった。——俺を、地位ではなく俺として見てくれる人がいると思って」
彼は一歩、近づいた。
私たちの間には、もう腕一本の距離しかない。
「俺は——君のことが」
言葉が、途切れた。
彼の目が、揺れている。恐怖と、期待と、切なさが入り混じった目。
私は——口を開いた。
「聞いてもいいですか」
「……何を」
「私を守ることと、私を対等に扱うこと。両立できると思いますか」
長い沈黙。
セバスチャンは、視線を逸らさなかった。
「……正直、わからない」
「正直ですね」
「君の前では、嘘をつく気になれない」
彼の声は、静かだった。
「守りたいと思う。でも、君の戦いを奪いたくはない。——その二つを、どう両立させればいいのか、俺にはまだわからない」
私は——微笑んだ。
初めて、彼に向ける柔らかい笑顔だったと思う。
「わからないなら、一緒に考えましょう」
「……え」
「あなた一人で答えを出す必要はないでしょう。私も一緒に考えます。二人で、試行錯誤しながら」
セバスチャンは、目を見開いていた。
「それは——」
「対等な関係って、そういうことじゃないですか」
私は一歩、近づいた。
今度は、私から。
「あなたが私を守りたいと思うなら、私もあなたを守りたいと思う。どちらかが一方的に守るんじゃなく、お互いに」
「……」
「それじゃ、駄目ですか」
長い、長い沈黙。
セバスチャンの目に、光が戻っていくのがわかった。困惑が消え、代わりに——温かい何かが宿っていく。
「……駄目じゃない」
彼の声は、掠れていた。
「全然、駄目じゃない」
「なら——」
「ヴィオレッタ」
彼が、私の名前を呼んだ。
「裁判が終わったら話す、と言った」
「はい」
「今が、その時だ」
彼の手が、私の頬に触れた。温かい手のひら。包帯の巻かれた腕が、かすかに震えている。
「俺は——」
扉が、叩かれた。
「殿下、お嬢様。馬車の準備ができました」
リディアの声だった。
セバスチャンは——深いため息をついた。
「……タイミングが悪い」
「そうですね」
私は思わず、笑ってしまった。
「でも、急ぎませんから」
「何?」
「続きは——屋敷に戻ってからでも」
彼は一瞬、呆気に取られた顔をした。そして——笑った。
本当の、嬉しそうな笑顔。
「……ああ、そうだな」
私たちは並んで、控室を出た。
廊下には、リディアが待っていた。私たちの顔を見て、彼女は——にっこりと微笑んだ。
「お二人とも、いいお顔ですね」
「リディア」
「何も聞いておりません。さあ、参りましょう」
彼女は先に立って歩き出した。
私とセバスチャンは、顔を見合わせた。
「……バレてるな」
「バレてますね」
そして——二人で、笑った。
馬車が、王都の街を走っていく。
窓の外には、夕陽に染まる街並みが見えた。六週間前、断罪された時と同じ景色。でも、今は——全く違って見えた。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「屋敷に着いたら——話の続きをしよう」
「はい」
彼の手が、そっと私の手を取った。
温かい。大きい。この手が、私を守ってくれた。
私も、彼の手を握り返した。
「セバスチャン」
「何だ」
「ありがとう。——来てくれて」
彼は答えなかった。
ただ、私の手を強く握った。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。
長い一日が、終わろうとしていた。




