第5話 港の祭り
訓練場の夕暮れは、汗と土の匂いが混ざっていた。レイニードは剣を納め、肩にかけたタオルで額の汗を拭っていた。若手騎士たちが次々と挨拶をして引き上げていく中、彼はひとり残って整理運動を続けていた。
その背後から、軽い足音が近づいてくる。
「お疲れさま」
ミレイユの声だった。
レイニードは振り返り、少しだけ眉を上げる。
「何かご用ですか?」
「別に。ちょっと通りかかっただけよ」
ミレイユはそう言いながら、視線を泳がせた。
(……通りかかった、は嘘ね。本当は会いに来たのに…)
「たしか、明日は非番よね?」
「…はい」
「明日は港の祭りがあるのよ。初めてでしょ? 案内してあげてもいいわよ。港の祭りは、見どころも多いし。……この前は、いろいろ迷惑かけたしね」
「足は、もう大丈夫なんですか?」
「ええ、全然平気。明日予定があるなら、別にいいけど」
ミレイユは何気ない口調で言った。
レイニードは少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「予定はありません。……案内、お願いします」
その言葉に、ミレイユはほっと息をついた。
けれど、丁寧な口調に、やっぱり仕事モードなのだと感じてしまう。
ほんの少しだけ残念だった。
港町リュドの祭りは、春の陽気とともに幕を開けた。
通りには色とりどりの布が張られ、風に揺れるたびに陽光を反射してきらめく。
屋台の香ばしい匂いが潮風に混ざり、焼き魚、果物酒、甘い菓子の香りが人々の足を止める。
太鼓の音が遠くから響き、子どもたちが笑いながら走り回る。商人たちは声を張り上げ、旅人は珍しい品に目を輝かせる。港の石畳は、いつもより華やかに、そして騒がしく彩られていた。
レイニードは、ミレイユと並んで歩きながら、ふと立ち止まった。
「あれはなんだ?」
彼が指差したのは、串に刺された平たい生地を炙ったもの。香ばしい匂いと、スパイスの刺激が鼻をくすぐる。
ミレイユは屋台で2本買い、そのうちの1本をレイニードに手渡した。
「東方の屋台料理よ。豆の粉を練って焼いたもの。外はパリッとしてるけど、中はもちっとしてるの」
レイニードは黙って受け取り、一口かじった。
「……不思議な食感だ。香りも強い」
その言葉に、ミレイユは満足げに頷いた。
次は果物酒の屋台。
「これも、他国のお酒でお祭り限定。でも飲みすぎ注意よ。甘いけど、油断するとあとから回るわよ」
ミレイユが瓶を指差して言う。
レイニードは一歩近づいて、香りだけを確かめる。
「……いい香りだな」
「飲んでみる?」
ミレイユは、少しだけ挑戦的な笑みを浮かべる。
レイニードは一瞬だけ考え、そして静かに答えた。
「……一杯だけなら、いいか」
ミレイユは少し驚いたように目を見開いた。
「えっ、飲むの? てっきり断ると思ってた」
「任務中なら断っている。いつも通りじゃ、祭りに失礼だろ」
その言葉に、ミレイユはふと胸が温かくなるのを感じた。
レイニードの口調は、いつもより柔らかかった。馬車の中で見せた、あのときと同じ空気が漂っている。任務を離れた彼の言葉は、人間らしくて、どこか親しみがあった。それが、ミレイユには嬉しかった。
自分の前でだけ見せてくれる気がして――その思いが、胸の奥にそっと灯った。
ふたりは並んで果実酒を口に運ぶ。甘くて、少し酸っぱくて、喉の奥にじんわりと広がる温かさ。
「……悪くない」
レイニードがぽつりとつぶやく。
「でしょ?」
ミレイユは笑いながら、カップを傾けた。
ふたりは笑いながら、屋台をいくつも巡った。焼き菓子、干し果物、香草入りの肉団子――どれも南辺境ならではの風味豊かな味だった。
そして、広場に差しかかったとき。
太鼓の音が高まり、ステージの上に踊り子たちが現れた。その中に、ひときわ目を引く桃色の衣装。軽やかに舞うその姿に、レイニードがふと足を止める。
「……あれは、リリア・エルゼンか」
彼の声は、少しだけ柔らかかった。
ミレイユも目を向ける。
ステージの上で踊るリリアは、港の風を纏うように、しなやかに舞っていた。観客の歓声が上がり、花びらが舞う。
「リリアのこと、知ってるの?」
ミレイユが問いかける。
「以前、港で助けたことがある」
レイニードは視線を逸らさずに答えた。
ミレイユは、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
「……きれいね」
レイニードは少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「そうだな」
その声は、淡々としていた。
けれど、どこか遠くを見ているような響きがあった。ミレイユは、彼の横顔をそっと盗み見る。
(そうだなって、どういう意味? 踊りが? 彼女が?)
ミレイユはまだ胸の奥に、名前のつかないざわつきを抱えていた。
そのとき、レイニードがふと立ち止まり、通りの端に目を向けた。
「……あれは、なんだ?」
ミレイユが視線を追うと、そこには見慣れない屋台があった。異国から来た商人が並べた、色鮮やかな布と香辛料、そして不思議な形の菓子。
「あのお店は私も初めてみるわ」
ミレイユが言うと、レイニードは口元を緩めた。
「見てみよう。……せっかくだし」
その言葉に、ミレイユの胸のざわつきがふっとほどけた。
(……そうよ。今は、彼と一緒にいる時間を楽しめばいい)
ふたりは並んで屋台を覗き込み、異国の菓子を手に取る。甘くて、少しスパイシーで、口の中に広がる初めての味に、ミレイユは思わず笑った。
「変な味だけど、なんか癖になる」
「もう一つ食べるか?」
「……やめとく。ああ、もうたくさん食べすぎたわ」
ミレイユはお腹を軽く押さえながら、苦笑いを浮かべた。
「でも、満足。港の祭りって、やっぱりいいわね」
広場では、太鼓の音が高まり、人々が輪になって踊り始めていた。子どもたちが手をつなぎ、年配の夫婦が笑いながらステップを踏む。誰もが、それぞれのリズムで祭りを楽しんでいた。
ミレイユはふと立ち止まり、レイニードの袖を軽く引いた。「……私たちも、踊りましょう」
レイニードは首を動かし、広場を見渡した。「……踊り方がわからない」
ミレイユはくすっと笑って、彼の手をそっと握った。
「なんでもいいのよ。みんな好きに踊ってるの。形なんて関係ないわ」
そのまま、彼の手を引いて輪の中へと歩み出す。レイニードは一瞬戸惑ったが、抵抗はしなかった。太鼓の音がふたりの足元を包み、港の風が衣を揺らす。ミレイユは軽くステップを踏みながら、レイニードの手を握ったまま笑った。
「ほら、右、左、回って――って、適当でいいのよ」レイニードはぎこちなく動きながらも、少しずつリズムを掴んでいく。
彼の表情は照れくさそうだったが、踊っているうちにほぐれていった。ミレイユはその横顔を見て、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。港のざわめきの中で、ふたりの笑い声が、静かに夜へ溶けていった。




