第4話 ミレイユの趣味
南辺境伯領に赴任してから、レイニードの生活は慌ただしく過ぎていった。騎士団では若手の指導役を任され、剣の技を惜しみなく教えた。その働きぶりは徐々に周囲の信頼を得て、騎士団内でも一目置かれるようになっていく。
ミレイユの護衛として動くうちに、視察への同行も増え、領民との接点も自然と広がっていった。
ある日、村の集会で年配の農民に話しかけられ、古い用水路の修繕について相談を受けた。
「騎士の仕事じゃないでしょ」と呆れるミレイユに、
「剣を振るだけが騎士の仕事ではない」と返すレイニードのやり取りは、今ではすっかり日常の一部になっていた。そうした日々が続く中で、気づけば2か月が過ぎていた。
南辺境伯領では、毎年3月1日、春の訪れを祝う祭りが開かれる。
祭りまで一月を切り、街は準備でざわめき始めていた。レイニードはカイルとともに、港の巡回任務にあたっていた。「祭り前は騒がしくなるぞ。油断するなよ」
カイルの言葉にうなずきながら歩いていたそのとき、路地の奥から小さな悲鳴が上がった。
レイニードは即座に反応し、カイルに合図を送って駆け出す。路地裏で、若い男が少女の腕を掴み、何かを囁いていた。
「手を離せ」
レイニードの低く鋭い声に、男は驚いて逃げていった。
少女はしばらく震えていたが、レイニードがそっと肩に手を置くと、ようやく顔を上げた。
「……ありがとうございます、騎士様」
礼儀正しく頭を下げる少女の姿は、薄いピンク色の髪を編み込み、ベージュ色のドレスに包まれていた。港の喧騒の中でもひときわ目を引く、可憐な姿だった。
「リリア・エルゼンと申します。男爵家の者です」
少女は静かに名乗った。
「知ってるよ。“港の花”だろ?」
隣のカイルが口を挟む。
リリアはぱっと顔を赤らめた。
「そ、それは……ただの噂です」
「噂でもよく聞く。君の舞を見に祭りに来る連中もいる。“今年も見られるかな”ってな」
港の祭りでは、毎年リリアが舞を披露していた。その優雅さと華やかさから、“港の花”と呼ばれるようになったのだ。怯えはすでに消え、代わりに照れた笑顔が浮かんでいた。
「さて、俺は報告がある。レイ、お前が送ってやれ」
カイルは肩を叩いて歩き出す。
「え……でも、騎士様にそんな……」
リリアが戸惑うと、レイニードは静かに言った。
「家は?」
「南通りの、青い屋根の館です」
「行くぞ」
そう言って歩き出す彼の背を、リリアは少し遅れて追った。
次の日、レイニードは久しぶりの休暇を得て、ひとり港へと向かった。任務でも視察でもない、ただのオフ。何もせず、ぶらぶらと歩くのが案外好きだった。潮風に吹かれながら、エールでも飲みつつ、屋台で何か摘まむのも悪くない――そんなことを考えていた。
その背後を、ひとりの女性がこっそりとつけている。
ミレイユである。
前日、ミレイユは偶然騎士団の詰所に通りかかり、カイル達の話を耳にしていた。
「もうすぐ祭りだな。今年も港の花の舞、見られるかな」
誰かのそんなひとことに、カイルがに声を上げた。
「今日、港の花に会ったよ。トラブルになりそうなところをレイが速攻片づけたんだ」
「そんなことあったんだ?」
「でね、彼女、レイが気になる感じだったから、送らせたんだよ。進展したかな?」
「祭り前だし、いい雰囲気になるかもな~」
「今日ってレイ非番だよな?もしかしてデートしてたりして?」
「おいおい、その役俺に譲ってくれよー」
男たちは笑いながら話題を広げていった。
軽口のはずなのに、妙に胸に引っかかった。
別に、レイニードが誰に好かれようと関係ない。そう思っているはずなのに、なぜか心がざわついた。
目の前の彼は、何も知らずに歩いている。
潮風に髪をなびかせ、屋台の前で立ち止まり、エールの香りに目を細める。その姿が、なぜか遠く感じもやもやした。
レイニードは、屋台で串焼きとエールを買い、港の石畳をのんびり歩いていた。しばらくすると、レイニードがふと立ち止まり、通りの端にいた男に声をかけられた。
冒険者風の男が何かを相談しているようだった。
(見かけない男だわ。レイニードの知り合いかしら?)
ミレイユは物陰から見守りながら、二人の会話が20分ほど続くのを見ていた。レイニードは真剣な顔で耳を傾け、ときおり短く答えていた。最後に男が手をあげると、二人は別れて歩き出した。
だが、そこからの彼は違った。
屋台を見ても立ち止まらず、角を曲がるたびに速度を上げていく。潮風を切るように、まるで目的地が定まったかのように、ズンズンと進んでいく。
その背中を、ミレイユは必死で追っていた。
「……なんであんなに早いのよ」
息を切らしながら、彼女は小声で文句を漏らす。
少しだけベンチに腰を下ろして息を整える。
だが、ほんの数秒でレイの姿は見えなくなっていた。
「うそ、もういない……!」
慌てて立ち上がり、人混みの中を駆け出す。
その瞬間、肩が誰かにぶつかった。
「すみません!」と反射的に頭を下げると、目の前にいたのは――
「……ミレイユ?」
アレクだった。
騎士爵アレク・ノルヴァン――ミレイユの三人目の元婚約者候補。
かつて彼の軽率な行動でミレイユに怪我を負わせ、縁談は白紙となった相手である。
「こんなところで何してんのさ。もしかして一人?」
「あなたには関係ないでしょ?」
ミレイユはそっけなく答える。早くしないとレイニードを見失ってしまう。
「ちょうどよかった。ミレイユに話があったんだよ」
「何度も手紙を送ったんだけど、届いてない?」
「領主館に会いにも行ったんだけど、会えなくてさ……」
アレクの声は、どんどん早口になり、どこか焦りを帯びていた。
かつては清潔で落ち着いた印象だった彼が、今は髪も乱れ、シャツの裾はくたびれていた。
靴も泥がこびりついたままで、どこか生活の荒れがにじんでいる。
ミレイユは言葉を返せず後ずさる。
「俺さ、あれから反省したんだ。……今度はちゃんと冷静に対応して見せるから、もう一度チャンスをくれないか?」
その言葉と同時に、彼はがしっと腕を掴んだ。アレクの目は、異様に血走っていた。
触れられた瞬間、ミレイユの背筋に虫唾が走った。
本能的に拒絶の感情が湧き上がり、彼女は力いっぱい腕を振り払った。
「やめて」
短く吐き捨てるように言い、踵を返してその場を離れようとした。
角を曲がった瞬間、足元に階段があることに気づかなかった。
勢いのまま踏み出した足が空を切り、体が前のめりに傾く。
――落ちる。
そう思った瞬間、背後から鋭い声が飛んだ。
「危ない!」
腕が伸び、体が引き戻される。
しっかりとした手が、彼女の腕を掴んでいた。
レイニードだった。
彼は無言でミレイユを支え、安定した場所まで引き寄せた。
その動きは迷いなく、冷静で、そしてどこか緊張を含んでいた。
「大丈夫か」
低く静かな声だったが、わずかに息が乱れていた。
ミレイユはうつむいて、「ありがとう」と小さくつぶやく。
そこへ、追いついたアレクが、苛立ちを隠せずに一歩前に出た。
「誰だよ、お前。関係ないやつはひっこんでろよ」
レイニードはミレイユを背中にかばうようにして、ゆっくりとアレクに向き直った。その動きには威圧感はないのに、空気がぴたりと張り詰める。
「俺は南辺境伯令嬢の護衛騎士だ。……部外者は、どちらだ?」
「護衛かよ。護衛は後ろで大人しく控えてろ」
アレクの声は、苛立ちと焦りを含んでいた。
「俺は、ミレイユの婚約者候補だ。お前みたいな部外者が口を挟むな」
レイニードは一歩も引かず、言葉を返す。
「婚約者候補なら、なおさら彼女の意思を尊重すべきじゃないか?」
その一言は、鋭く、アレクの胸に突き刺さった。
「黙れっ!」
顔がみるみる赤くなり、怒りに任せてレイニードにとびかかる。
しかし、レイニードは避けることなく、その腕を素早く掴み、ひねり、地面にねじ伏せた。
「ぐっ……! ふっ……!」
アレクは地面に押さえつけられながらも、もがき、レイニードを睨みつけた。
「離せ……! 俺は、ただ……!」
言葉にならない叫びが、喉の奥で詰まる。
アレクがさらにもがこうとした瞬間、レイニードは関節を締め、動きを封じた。その動きは冷静で、無駄がなく、容赦もなかった。
「短気な男だな?」皮肉めいた声が、静かに響いた。
アレクは地面に押さえつけられたまま、悔しげに歯を食いしばる。レイニードはアレクを拘束しながら、ミレイユに視線を向けた。
「……婚約者候補、なのか?」
ミレイユは少しだけ口元を歪めて答えた。
「違うわ。元婚約者候補。今は、全くの部外者ね」
その言葉に、アレクはうなだれる。
そこへ巡回中の騎士団員が現れ、アレクを回収していった。
ミレイユは小さく息を吐き、歩き出そうとしたところで、突然顔をしかめた。
「……いたっ」
レイニードがすぐに振り返る。
「どうした」
「たぶん……さっき、階段で足首をひねったみたい」
彼は無言でしゃがみ込み、ミレイユの足元を確認した。腫れはないが、軽く触れるだけで痛みが走るようだった。
「動かすな。応急処置をする」
レイニードは腰のポーチから包帯を取り出し、手際よく足首を固定した。
「……ありがとう」
ミレイユは少し照れたように言った。
「帰るぞ。馬車を呼ぶ」
「……うん」
馬車の中は、港の喧騒とは打って変わって静かだった。窓の外を流れる景色を眺めながら、ミレイユはぽつりと口を開いた。
「……せっかくの休みだったのに、ごめんなさい」
レイニードは少しだけ首を傾けた。
「別に。港は逃げやしないさ。いつでも行ける」
「でも、私が勝手に……」
「勝手に、って言うほどでもない」
レイニードはバツが悪そうに言葉を続けた。
「実は、あんたがつけてきてるの、わかってたんだよ」
「……えっ? 気づいてたの?」
「そりゃわかるだろ。あんなに息切らして、屋台の陰から顔出してたらな」
彼は少しだけ口元を緩めた。
「最初は気づかないフリしてたんだけど、ちょっと面白くなって、つい歩調を速めた。……悪かったな。あれで怪我させるとは思ってなかった」
ミレイユは顔を赤くしながら、そっと足元を見た。
「……ほんとよ。責任、取ってもらうんだから」
「了解。次からは、もう少し優しく振り回す」
「振り回す前提なのね」
ふたりはふっと笑い合った。
さっきまでの気まずさは、もうどこにもなかった。
「……で、なんで後をつけてたんだ?」
レイニードの問いに、ミレイユは一瞬言葉に詰まり、窓の外に視線を逃がした。
「べ、別に……港の様子を見ておきたかっただけよ。祭りも近いし、治安の確認っていうか……」
「ふーん。じゃあ、俺の動きに合わせて屋台の陰に隠れてたのも、治安確認か?」
「……それは、ほら、偶然よ。たまたま、同じルートだっただけ」
「同じルートを、三回も?」
「……うるさいわね」
レイニードは口元を緩め、堪えきれずに吹き出した。くだけた口調も、任務中ではありえない言い回しも、今日は自然にこぼれてくる。それが、ミレイユには嬉しかった。
(……ずっとこの調子で話してくれたらいいのに)
もちろん、口には出さなかった。
屋敷に着くと、レイニードは何も言わずに馬車からミレイユを抱きかかえた。
「ちょっと、歩けるから。おろして」
ミレイユは抗議するように言ったが、彼は頑として耳を貸さなかった。
「足をひねったんだ。無理するな」
「でも……」
「護衛の判断だ」
その言葉に、ミレイユはそれ以上何も言えなかった。彼の腕の中は、思ったよりも安定していて、あたたかかった。
屋敷の廊下を静かに進み、寝室の扉を開ける。
レイニードはベッドの脇まで来ると、そっと彼女を降ろした。
「……ありがとう」
ミレイユは小さくつぶやいた。
レイニードがふと視線を横に向けると、テーブルの上に何かが置かれていた。小さな家具、小さな窓、小さな食器――それは、精緻なドールハウスだった。けれど、よく見ると、テーブルと椅子の脚には細いテープが巻かれていた。壊れた部分を補強した跡だった。
ミレイユはその視線に気づき、はっと息を呑んだ。
(……見られた)
彼女は慌てて立とうとしたが、足の痛みがそれを許さない。レイニードは何も言わず、ただ静かにその小さな世界を見つめていた。
ミレイユは焦った。
「これは、えっと……ちがうの。あの、飾りじゃなくて……いや、飾りでもあるけど……!」
言葉が空回る。説明しようとするほど、何を言っていいのかわからなくなる。
「その……趣味っていうか、いや、違う。ちがうのよ、これは……」
レイニードは黙って聞いていた。
その沈黙が、余計にミレイユを追い詰める。
「……ふぅ」
ミレイユは深く息を吐いた。
そして、視線をそっとレイニードに向ける。
「……正直に言うわ。これ、私の趣味なの」
そう言って、ミレイユは視線を下に向けて続けた。
「誰にも言ってないけど、小さいころからずっと好きだったの。よく遊んだわ。ながめているだけでも楽しいのよ」
「この年で、こんなのって……おかしいわよね?」
「……なにがおかしいんだ?」
レイニードのその声は、驚くほどまっすぐだった。
ミレイユは顔を上げた。
レイニードの目は、ドールハウスではなく、彼女を見ていた。
「だって、いい年した大人が子供みたいで……」
「好きなものを好きと言って、何が悪い?」
レイニードの声は低く、まっすぐだった。
「むしろ、誇れ」
ミレイユは目を見開いた。
「……え、なんで?」
「小さなころから変わらず好きでいられるのは簡単なことじゃない」
「ブレない自分を、ほめてやれよ」
その言葉は、飾り気も慰めもないのに、まっすぐ胸に届いた。
「ほめるって」
ミレイユはくすっと笑い、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
レイニードは肩をすくめ、
「その足、医者に診てもらえよ」
それだけ言うと、彼は部屋をあとにした。
その背中を見送りながら、ミレイユはそっとドールハウスに目を向けた。さっきまでより、誇らしく見えた。




