第2話 レイニード、南へ出向
セラフィーナ南辺境伯領――温暖な気候と港町の賑わいが広がる地。
北の雪と獣にまみれた任地から、レイニードは馬を駆ってこの地へと降り立った。通常なら三週間以上かかる道のりを、無駄のない騎乗と冷徹な集中力で、彼は二週間足らずで走破した。
レイニードは首元の襟を緩め、「……暖かいな」と呟いた。今は12月であり、まだまだ冬真っ只中のはず。馬上でも感じていたが、地に足をつけた途端、南の空気の柔らかさが肌に染みた。気温は15度ほど。北の氷風に比べれば、春のような暖かさに感じるのだった。
この地に来るまでは、彼はグレイブ北辺境伯領へ出向し、王弟殿下率いる討伐隊の一員として、魔獣討伐の任に就いていた。雪深い山岳地帯を転戦し、寒さに耐えながら獣の群れと戦う日々。任務が節目を迎えようとしていたその時、新たな指令が届いた。
「南へ行け」
それだけだった。理由も期間も告げられず、殿下の命令はいつも簡潔で容赦がない。問い返すことも、異を唱えることもなく、レイニードは静かにそれを受け入れた。
(まあ、北よりはマシか。寒さで指が動かなくなることもないし、港町なら飯も旨いだろう)
そして今、彼は南辺境伯領主の城の前に立っていた。石造りの重厚な門、衛兵の鋭い視線。彼はまっすぐ門をくぐる。
「グレイフォード伯爵家のレイニードと申します。王弟殿下の命により、南辺境伯領へ応援任務に参りました。領主閣下にご挨拶を」
衛兵が目を見開いた。その名は、まだ偽聖女騒動の記憶とともに残っている。
「……少々お待ちください」衛兵が奥へと走る。
レイニードは、城門の前で静かに待った。
その背に、北の雪ではなく、南の陽光が降り注いでいた。
(さて、どんな過酷な任務か――楽しみだな)
やがて、南辺境伯の執務室に通される。
バルトは書類を手にしたまま、目を細めた。
「……早いな。到着は10日以上先の予定だったが」
「そんなに時間はかかりませんよ。指令があれば、動くだけです」
レイニードは淡々と答える。
バルトは小さく息を吐き、辞令を差し出した。
「南辺境伯令嬢の護衛任務、ですか?」
バルトは頷いた。
「そうだ。先日港町で騒動に巻き込まれて怪我をしてな。今までは護衛をつけてなかったが、今回からつけることにした。頼めるか?ミレイユが外出しないときは、辺境伯騎士団とともに治安を守ってくれ」
レイニードはわずかに眉を動かしたが、すぐに無表情に戻る。
「……承知しました」
そこに、ミレイユが勢いよく部屋に入ってくる。
「聞いてないわよ、護衛なんて! 必要ないわ、もう怪我も治ってるし!」
「決定事項だ。お前の意志は聞いていない」
「勝手に決めないでよ! 」
「わしは領主だ。わしの判断が絶対だ」
「私だって領主の娘よ、少しくらい意見を言わせて!」
(これが辺境伯のお嬢様か。気が強そうだ)
言い争いが続く中、レイニードは静かに言葉を挟んだ。
「怪我をされたと伺いました。護衛を付けるのは当然ではないでしょうか」
ミレイユは、眉をひそめてレイニードに向き直る。
「それはもう治ったって言ってるでしょう?いちいち護衛なんて、過保護すぎるのよ。私は子どもじゃないわ」
レイニードは表情を変えず、落ち着いた口調で返す。
「ええ、子どもではありません。だからこそ、周囲が配慮する必要があるのです。危険を未然に防ぐために」
「お分かりいただけましたか?」
ミレイユはその言い方に苛立ちを覚えた。
「あなた、いつもそんな調子なの?もうちょっと言い方があるでしょう」
「状況に応じて言葉を選びます。今は、必要性の説明が優先です」
「……つまり、私が冷静じゃないって言いたいのね?」
レイニードはわずかに首を傾ける。
「そう受け取られたなら、訂正はいたしません」
ミレイユの頬がぴくりと動いた。
「……ほんっとうに、腹が立つ人ね!」
バルトは腕を組みながら二人を見ていた。
彼は咳払いをひとつして、場を収めるように言った。
「まあまあ、仲良くしなさい。護衛と喧嘩していたら、周囲が困るぞ」
ミレイユがむっとした顔を向けるが、バルトは気にせず続ける。
「さて、今日は孤児院訪問の日だったな。レイニード、さっそくで悪いんだが、荷物を置いたらミレイユの護衛についてくれ」
レイニードは静かに一礼する。
「承知しました。準備出来次第、玄関でお嬢様をお待ちすればよろしいですか?」
ミレイユはレイニード向かって、声を張った。
「お嬢様なんて呼び方、やめて。ミレイユでいいわよ」
レイニードはミレイユを数秒みつめ、静かに答えた。
「……承知しました。それでは、ミレイユ様と呼ばせていただきます」
ミレイユは眉をひそめ、肩をすくめた。
「…なんか堅苦しいのよね、あなたって」
レイニードは表情を変えず、静かに一礼した。
「失礼いたしました。以後、言動には気をつけます」
ミレイユはその律儀さに、さらに口を尖らせた。
(……なんなのよ、融通きかないっていうか、真面目すぎるっていうか……)
兵舎の扉をくぐると、木の香りと鉄の匂いが混ざった空気がレイニードを迎えた。
案内役の背の高い、陽気そうな男が振り返る。
「こっちだ。お前の部屋は奥の角だよ。風通しはいいが、夏はかなり暑い」
レイニードは無言で頷き、荷物を肩から下ろす。
部屋は石造りの壁に木製の棚とテーブルに椅子が一脚、簡素な寝台。古びてはいるが、掃除が行き届いていて、使いやすそうだった。
「南辺境は初めてか?」と男が聞く。
「……ああ」
「なら、リュド港の赤海老の炙りと雲貝の酒蒸しがおすすめだ。見た目も味も華やかで、観光客にも人気がある。港も俺らの守備範囲だから時間があるときに、実際に歩いてみるといい。地図だけじゃわからないことも多い。道の癖とか、人の流れとか、肌で覚えておくと動きやすいぞ」
男は笑って手を差し出す。
「俺はカイル。よろしくな。まあ、仲良くやろうぜ」
(よくしゃべる男だ。気安いのは、俺のこと知らないのか?)
レイニードは少しだけ間を置いて、その手を握った。思ったよりも温かく、力強い握手だった。
「…よろしく。ところで、俺のこと、聞いてないのか?」
カイルが首を傾げる。
「ん? 何を?」
レイニードは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「問題起こして北に飛ばされたって、噂くらい回ってると思ったが」
カイルは一瞬黙ったあと、肩をすくめて笑った。
「聞いてるよ。けど、それがどうした? 過去の話だろ」
レイニードは目を細める。
「……そう簡単に割り切れるもんかね」
「簡単じゃないさ。でもな、ここじゃこれからのお前がすべてだ。態度次第で、仲間にもなるし、孤立もする。選ぶのはお前だ」
その言葉に、レイニードは驚く。
(最初からこんなふうに言われるのは、初めてだな)
レイニードは部屋に置かれた支給服に着替えた。
馬車で二時間ほどいった南辺境の町外れに、病院を中心に孤児院や修道院が並ぶ静かな一角がある。
ミレイユは病院と孤児院の管理を任されており、彼女が関わるようになってから、笑顔が増えたと評判だ。
孤児院の門をくぐると、子どもたちの歓声が風のように駆け抜けた。馬車から降り立ったミレイユが、レイニードに木箱を運ぶように指示していると、
「ミレイユおねえちゃんだ!」
「ミーねえちゃん!」「きょうは何して遊ぶの?」子供たちの声が後ろから聞こえた。
ミレイユは笑顔の子供たちに連れられながら、慣れた足取りで中庭へと進む。スタッフが挨拶を交わす声にも、親しみがこもっていた。
「いつもありがとうございます」
「この前の絵本、子どもたちに大人気でしたよ」
ミレイユは軽く頷きながら、子どもたちの輪の中へ自然に溶け込んでいく。小さな女の子の髪を結び直し、男の子の描いた絵に目を細める。
「この色使い、素敵ね。空が紫って、夢があるわ」
彼女の言葉に、子どもたちは誇らしげに笑う。
誰も領主の娘として扱っていない。
そこにいるのは、ただのミレイユだった。
レイニードは少し離れた場所からその様子を見ていた。
子供たちと一緒に裏庭に向かうミレイユ。数年前から、ミレイユの支援によって裏庭では様々な野菜が育てられるようになっていた。この冬はカボチャが最後の収穫を迎え、今日はその実を子供たちと一緒に摘み取る日だった。畑のまわりでは、白いデイジーが風に揺れながら、ぽつぽつと咲き始めている。
12月の空気は、気温こそ穏やかだったが、風に触れると冷たさが残っていた。
「今日は、つぶして混ぜるのよ」
そう言って、みんなで収穫したカボチャを置き、レイニードが運んだ箱の中から牛乳と砂糖を取り出す。それを見た子どもたちが目を丸くした。
「えっ、それ使っていいの?」「お祭りでもないのに…」
「今日は特別よ。最後の収穫だもの」ミレイユは笑って答える。
蒸したカボチャを潰し、牛乳を少しずつ加えて、砂糖を混ぜていくうちに、
「なんか、クリームみたいになってきた!」と歓声があがる。
器によそったカボチャクリームに、すり減った木のスプーンを添える。器の角は欠けていて、色もくすんでいた。けれど、子どもたちは目を輝かせていた。甘い香りが、冬の空気にふわりと広がっていく。
「ミレイユおねえちゃん、これ、絵本に出てくるレストランのデザートみたい!」
そう言ってスプーンを口に運ぶその顔は、どこか誇らしげだった。特別なものを食べているという実感が、心を満たしていた。
「おにいちゃんも、どうぞ!」
小さな女の子が、両手で器を差し出す。
その笑顔は、どこか自信に満ちていた。
レイニードは一瞬ためらったが、ぼろぼろのスプーンを手に取る。器の中のクリームは、見た目こそ素朴だが、ほんのり甘い香りが漂っていた。
ひと口、口に運ぶ。
「……うまいな」
その言葉に、女の子はぱっと顔を輝かせた。
「ほんと? よかった!」
ミレイユは少し離れた場所で、そのやりとりを見守っていた。彼女の表情は、どこか誇らしげで、どこか安心したようだった。
おやつのあとは、いつもの絵本タイム。
ミレイユがふとレイニードの方を振り返る。
「レイニードも、こっち来て。今日の読み聞かせ、あなたがやってくれない?」
「は? ご勘弁を。私は護衛なので」
レイニードの声は低く、きっぱりしていた。
「すこしくらい、いいじゃない!」
「ねえ、にいちゃんも一緒に!」
子どもたちは口々に叫び、まるで合唱のようにいいじゃないを繰り返す。
レイニードは腕を組んだまま、頑なに首を振る。その姿に、ミレイユは肩をすくめて笑った。
「ほんと、融通きかないわね」
すると、ひとりの男の子が前に出てきて、目を輝かせながら言った。
「じゃあさ、剣を教えてよ! おれ、強くなりたいんだ!」
その言葉に、レイニードの眉がわずかに動く。ミレイユがすかさず、彼の顔を覗き込むようにして聞いた。
「それだったら、いい? ちょっと教えるだけよ」
レイニードはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いて言った。
「……少しだけなら」
子どもたちが歓声を上げる。
ミレイユも笑顔で庭に出て、少し離れたベンチに腰を下ろした。
レイニードは木の枝を剣に見立て、構えの基本を教え始める。他の子たちも興味津々で見守る。
ミレイユはその様子を静かに眺めていた。
レイニードの動きには無駄がなく、教え方も驚くほど丁寧だった。
真剣に構えを真似する男の子に目を向けたとき、彼の瞳がふと、わずかに和らいだ。
それは、今日一日ずっと張りついていた無表情の奥に、初めて見えた人間らしい温度だった。
(……こういう顔も、するのね。案外、不器用なだけなのかも)
風が庭を通り抜け、子どもたちの笑い声が空に溶けていく。ミレイユはその音を聞きながら、少しだけ目を細めた。
帰りの馬車の中、ミレイユとレイニードは向かい合って座っていた。
レイニードはしばらく黙ったまま、窓の外に目を向けていたが、やがて視線を戻し、静かに問いかけた。
「……いつも、このような支援を?」
ミレイユは目を細めて、彼を見つめた。
「支援って、何だと思う?」
レイニードは答えず、ただ彼女の言葉を待った。
「お金だけなら、簡単よ。物を渡して終わり。でもそれじゃ、何も変わらないわ。私はね、生きていくことを一緒に学ぶこと――それが本当の支援だと思っているの」
「一緒に学ぶ……?」
「そう。どうやって食べていくか、どうやって人と関わるか、どうやって自分を守るか。それを一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に笑う。その時間が、彼らの生きる力になるの」
レイニードは、あのぼろぼろのスプーンを思い出していた。差し出された手。無邪気な笑顔。
そして、あの一口の温かさ。
俺にも何かできるだろうか……




