第1話 なぜミレイユに婚約者が決まらないのか?
「……また、うまくいかなかったか」
バルトは、重たい息を吐いた。
「三人目の婚約者候補も、結局だめだった。
慎重に選んできたつもりだったが……わしの見る目がないのかもしれん。
婿を迎えねばならん立場だというのに……」
「三人目の彼はだめよ。ミレイユに怪我までさせたんですから」
イザベラが眉を吊り上げる。
「あなた、もっとしっかり選んでくださいな」
ミレイユが母の言葉に続けて言った。
「お父さま、お母さま。家柄や肩書きでは、この地は守れません」
その声には、揺るぎない意志が宿っていた。
「この南辺境を任せられる方でなければ、私はお受けすることはできませんわ」
南辺境伯領は、王国の南端に位置する温暖な土地である。海に面した港町リュドは交易の拠点として栄え、異国の商人や旅人が行き交う。背後には山々が連なり、春には花が咲き乱れる豊かな風土。
交易が盛んである一方で、海からは密輸船や海賊が、陸からは山賊や流れ者が現れることもある。王都の兵が常駐することはなく、この地の守りは辺境騎士団が担っている。
彼らは礼儀より実戦を重んじ、名誉よりも生き抜くことを選ぶ者たち。よそ者には厳しいが、仲間には深く義理堅く、信頼を置ける存在だ。
この土地の空気を肌で感じ、ここに生きる人々の営みを理解しようとする者でなければ、ミレイユが心を開くことはない。
ミレイユ・セラフィーナ――南辺境伯家の一人娘、18歳。
氷の結晶に光を宿したような白銀の髪、瑠璃の宝石のように澄んだ瞳。その容姿は、誰もが一度は「可憐な令嬢」と思う。だが、彼女の口から紡がれる言葉は、甘さとは無縁だった。
「嘘をつく人間は、信用に値しないわ。たとえそれが優しさでもね」
「民を見下す貴族なんて、領地にいらない。私の家に来るなら、鍬くらい持てる人がいい」
「感情に流される人は、戦場でも政でも足を引っ張る。冷静であること、それが最低限の資質よ」
「剣の腕? 私より弱い人に辺境伯家は任せられないわ」
彼女が婿に求める条件は、五つ。
一つ、嘘をつかないこと。
二つ、民を大切にすること。
三つ、常に冷静であること。
四つ、自分より強いこと。
そして…
五つ、趣味を理解してくれること。
だが、その最後の条件を口にしたことは、まだ一度もない。最初の四つを満たす者が、未だ現れていないからだ。
ミレイユは誰にも言えない五つ目を胸に秘めて、今日も、婿候補を断ったのだった。
バルトが選んだ三人の候補者――
一人目――中央の侯爵家三男、レオニス・キルフェ
面談の場に現れた彼は、完璧な身なりと礼儀を纏っていた。言葉遣いも丁寧で、所作に乱れはない。
「我侯爵家領地の民の生活は安定しています。税収も順調です」彼はそう言った。
面談の終盤、ミレイユは問いかけた。
「あなたなら、どのような領地経営をされますか?」
レオニスは微笑んで答えた。
「そうですね、まずは税制の見直しをします。徴収効率を高め、余剰分はインフラ整備に。
それから、商人の流入を促すために交易路の整備も進めます。教育については、識字率向上を目指して学校の支援を――」
ミレイユの胸には何も響かなかった。整った答えではあるけれど、そこに彼自身の温度が感じられない。まるで、誰かの書いた教本をなぞっているようだった。
「それは、どこの領でも通用する理想論ね」
彼女はそう返したが、レオニスはその言葉の意味を汲み取らなかった。
彼の視線は民ではなく、数字を見ていた。
冷静さはある。だが、心がない。語られる政策には、誰かの暮らしに寄り添う気配がなかった。
面談を終えた後、ミレイユは父に言った。
「立派な方でした。でも、あの人の領地に生まれたいとは思わないわ。…見た目は、ちょっと好みだったけどね」
父は苦笑した。
ミレイユは肩をすくめる。
「顔だけじゃ、領地は守れないもの」
二人目――隣領地の伯爵家次男、カリム・エストレア
民のことを語るとき、彼の瞳は本当に優しかった。
村の子どもたちに読み書きを教えているという話も、嘘ではなかった。その語り口には、実際に子どもたちと過ごした時間の温度があった。
誠実で、民想い。
ミレイユは、初対面のときから好感を抱いていた。
だが、三度目に会ったとき――
「軽く運動しませんか?」と誘い、庭で剣を握って向かい合った。構えは浅く、腕も甘い。彼の剣は、誰かを傷つけることを恐れているようだった。
ミレイユは、決して剣の腕に秀でているわけではない。それどころか、兵士たちと共に鍛錬に励んではいるものの、新人にさえすぐに追い越されてしまう。それでも、民を守りたいという思いだけは、誰にも負けない。だからこそ、彼女は汗を流し、傷を負いながら、兵士たちの邪魔にならぬよう一歩引いて鍛錬を続けている。守るべきものを守るために、力を身につけようとしているのだ。
辺境伯という立場は、国境を守る責務を背負う。いつ争いが起こってもおかしくない土地で、強さは民を守る盾となる。
彼の優しさは、確かに本物だった。
けれど、ミレイユは気づいていた――それだけでは、足りない。
その日の夜、ミレイユは父に言った。
「民を思う気持ちは、ちゃんと伝わってきました。話し方も穏やかで、聞いていて安心できる方でした」
父は眉を上げた。
ミレイユは小さく笑って肩をすくめる。
「でも、あの人の背中を見て、民が安心できるかって言われたら……違うのよね」
三人目――騎士爵アレク・ノルヴァン
話の筋が通っていて、ミレイユの言葉にも耳を傾けてくれる青年だった。
領地を共に巡った際には、民との会話を楽しみ、子どもには膝をついて目線を合わせ、年配の農夫には敬意をもって接していた。その振る舞いは自然で、まなざしは誠実だった。
剣の腕も確かで、騎士団内の試合では多くの騎士に勝利を収めている。力任せではなく、技と読みで制するその動きには、日々の鍛錬がにじんでいた。
穏やかな時は申し分なかった。だが、怒りが湧くと短気な面が顔を出す。話を最後まで聞かず、自分なりに解釈してしまう癖があり――そして、事件が起こった。
ミレイユとともに港を訪れた日のこと。荷の積み下ろしを巡って、商人と船員が激しく言い争っていた。その様子に苛立ったアレクは、仲裁のつもりで口論の間に割って入った。だが、船員の一人が悪態をつきながらアレクの肩を小突くと、彼の表情が変わり、怒声を上げて船員を突き飛ばした。
果物棚が崩れ、木箱が倒れ、ミレイユの肩を直撃した。彼女は倒れこみ、周囲は騒然となった。警備隊が到着してようやく混乱は収まり、肩の打撲は軽傷で済んだものの――彼女の心には、別の痛みが残った。当然、アレクとの縁談は白紙となった。
「強くて、まっすぐで、民にも優しい人でした。……あの瞳、ちょっと惹かれちゃったけど」
ミレイユは父に言った。
「冷静さを欠いた行動は、いかなる正義よりも危うい」
彼女は、改めてそう思った。
あの瞳に惹かれた自分を、ほんの少しだけ責めながら。
「大した怪我をしなくてよかったよ……」
父母は深く、長いため息をひとつ吐いた。
それは諦めとも、理解ともつかない、重たい音だった。
(ミレイユに合う婿は、本当にいるのだろうか……)
椅子の背にもたれながら、バルトは遠くを見つめていた。その視線の先に、答えはまだ見えていなかった。




