十月の記憶
毎年十月になると、あの夜の匂いが帰ってくる。線香の匂い、鉄板の油が温まりはじめる匂い、ベビーカステラの甘い匂い、風で流れてくる海の匂い、そして金木犀の匂い。
うちの地元では、十月に「お十夜」と呼ばれるお祭りがある。正式には「十夜法要」といって、夜の法要が主役の祭りだ。
小学生だった当時のぼくにとっては、歴史や由来なんてどうでもいい。ただ、夏が終わったあとにある、このお祭りがとても特別に感じた。
小学五年の年、そのお十夜は特に特別だった。いや、すこし異質だった。
寺の周辺の道路は歩行者天国となり、人で溢れていた。
秋の風に提灯が揺れ、焼きそばのソースが湯気になり、くじ引きの鐘がときどき鳴る。型抜きの台では、紙屑の山の中に息を潜めたような集中があった。
境内の下は道路を挟んですぐ海で、普段は波の音が聞こえるが、今日は海の存在すら消えるほど喧噪に満ちていた。
「行くぞ春斗! 今年こそ型抜き成功させるから!」
健太が威勢よく叫び、涼が「去年もそれ言って、四枚連続で粉にしただろ」と笑う。ぼくは二人の後ろで、たこ焼きの舟皿を受け取って、熱さにふーふー吹きかけながら一歩遅れてついていった。口の中を火傷しそうになって、微妙な声が出る。
「おまえ今の何語? タコ語?」
涼にからかわれ、ハフハフとしながら、ぼくは無言で肩を拳で小突いた。笑い声が屋台の軒に弾む。
型抜きへ向かいかけて、ふと足を止めた。十字路の角に、見たことのないお面屋が出ていた。並んだ面は人気のアニメキャラじゃない。
その昔のアニメのキャラクターばかりが並ぶそのお面屋さん脇に、浴衣の女の子が立っていた。
藍地に白い朝顔の柄。襟はきちんと合わさっていて、帯の結び目がきれいだった。髪は耳の後ろでひとつに結び、額に短い産毛が光っている。
年はぼくたちより一つか二つ上に見えたけれど、背筋の伸び方や、立っている場所の選び方が、なんとなく大人っぽかった。
「いっしょに、回らない?」
こちらを見て、彼女はそう言った。唐突で、でも、変に馴れ馴れしくはない。胸の奥が、ぎゅっと縮んで広がった。
「……うん」
自分の声が少し裏返って、彼女は小さく笑った。目じりに、提灯の光がすっと溜まる。
金魚すくいの水面は屋台の裸電球を揺らして、小さな星みたいに光った。彼女はポイを受け取ると、ためらいなく水に浸してから持ち上げた。
「濡らしてからの方がやぶれにくいんだって」
そう言って、輪の中に朱い尾をすべらせ、そっと器に流し込む。二匹。
ぼくはというと、紙が水に触れた途端にふやけ、金魚の影を追って紙を裂き、残ったのは周りの輪だけになった。
「ほら、貸して」
彼女は笑い、ぼくの指についた水を、浴衣の袖でそっと拭ってから、もう一度ポイを構えた。今度は小さめの黒い斑のあるやつを一匹。
「はい」
袋を渡されると、中の金魚が尾をゆっくり振り、赤と光が混じった。
「名前、つけようよ」
「え、魚に?」
「うん。ね、あなたは?」
「春斗」
「春に一斗缶の斗って書くの?」
「うん。なんでわかったの」
「いい名前。わたしは……澪、でいいよ」
でいいよってなんだろう。そう思いながら、澪と声に出して呼んでいた。
綿菓子を半分こしながら、彼女の歩幅に合わせて参道を進む。
彼女は時々立ち止まり、紙風船を眺めたり、おもちゃのくじの露店の前で懐かしさを楽しむように微笑んでいた。
水鉄砲に目を留め、「水鉄砲って今はこんな風になってるんだ」と口にする。
「水鉄砲好きなの?」
「好き、というより……私が持ってたのはもっと簡易的なものだったから」
「へえ」
ぼくが適当な相づちを打つと、彼女は少し照れたように笑った。
笑うときの仕草——目が先に笑って、口元がそれに追いつく感じ——が、どうしてか懐かしかった。
「おーい春斗!」
背後から声が飛んできて振り向くと、健太と涼が口角を上げて近づいてくる。
「おまえ、マジで女の子連れてるじゃん。え、手ぇ近い、手ぇ近い!」
「ち、ちがっ……」
「わー青春。型抜きから逃げた罪は重いぞ?罰として彼女紹介だな」
二人はわざとらしく目をこすったり、肘で脇腹をつついたりする。顔が熱くなり、言い返そうとして詰まった。
「私は澪」
彼女が先に言った。涼が「澪ちゃん、よろしく。春斗が変なこと言ったら全部嘘だから。こいつすぐ嘘つくんだ!」と手を振る。
健太は名前を聞いて、笑いが少しだけ固まった。
「……澪?どこかで聞いたことあるなぁ…」
健太は眉間に皺を寄せて考え込む。
「そんな珍しい名前じゃないから」
「そうかぁー?」
参道の端、境内の隅にかけて、法要の声が強くなる。お坊さんの声に合わせて鐘がひとつ鳴り、灯籠がゆっくり揺れた。
「夜はやさしいね」
澪が言った。
「やさしい?」
「うん。夜は、見えなくていいものを見えないままにしてくれるから」
「おーい、先に行くぞー!」
健太の声に促され、たこせんを頬張って、口の中の薄いソースの味に笑って、それから、ぼくらは二手に分かれた。健太と涼は射的へ。
ぼくは澪と、道路の向かいの海へ降りる石段へ。
石段は秋の夜風に晒され、少しひんやりとしていた。
「寒くない?」
「だいじょうぶ」
彼女の手に触れると、石段よりもひんやりとしていた。
波が岩肌を何度も擦り、その度に波の音が周囲に響き渡り、祭りの喧噪とハーモニーを奏でていた。
「春斗」
「うん」
「こわい話、していい?」
「……うん」
「昔ね。お十夜の夜に、この海で子どもが落ちちゃって沖に流されたの。暗い夜は誰に目にも止まらなくて、
祭りの喧噪で助けを呼ぶ声も誰にも届かなかった。それが、二十年前の話」
「二十年……」
「ねえ、わたし、何歳に見える?」
「十二、三?」
「うん。そのくらい。もう二十年か。」
彼女は笑って、笑いながら、波の方を見ていた。
「二十年前のその子ね、金魚をすくったの。白いの。名前をつけようって思った。でも、つける前に——」
その先の言葉は、波がさらっていった。ぼくは金魚の袋をぎゅっと持ち直し、視線を落としたとき、ふいに奇妙なことに気づいた。
月が雲に入っていないのに、彼女の足もとに影が落ちていない。影が無い。胸の奥に、冷たい空気が流れ込んだ。
「春斗! ……おーい!」
石段の上から健太の声がした。懐中電灯が揺れ、涼と健太の顔が白く浮かぶ。
「夜の海は危ないぞー!」
健太が叫ぶ。ぼくらは石段の上の方へと戻った。健太が息を切らしながらぼくの肩をつかみ、「おまえ、マジで怖いって。海なめんな」と柄にもなく怒っていた。
「いや、俺の母ちゃんの妹がお十夜の日に海で溺れて亡くなったんだよ」
「もしかして二十年前?」
「え?そうだけど話したことあったっけ?」
「いや、澪が…」
「澪…澪…?あ!思い出した!!そうだ…その母ちゃんの妹が澪って名前だ!さっき墓参りしたのに忘れてた!」
「お前変なこと言い出すなよ…」
ぼくはちらっと澪を見て、小声で言った。
「……澪。ごめんな。健太って空気読めないんだ」
健太がおいとどつく。
「ううん」
澪はうつむき、帯の結び目をそっと撫でた。指先が細く震えたように見えた。
「戻ろうぜ。屋台、もう片付けはじめてる」
法要の最後の読経が終わり、回向の声が流れた。屋台の灯りが一つずつ落ちていく。
「春斗」
澪が呼ぶ。
「今年ね、うれしかった。ひとりじゃなかったから」
「……ぼくも楽しかった。」
「満足したからもう会えないかもしれないけど、またこのお祭りで会えたらいいね」
「え?それって」
言い終える前に、風がざっと吹いた。灯りが一瞬弱くなり、目に砂が入ったみたいに視界がざらつく。
瞬きをして、顔を上げると人混みの中に彼女は消えていった。
手のひらの感触だけが、冷たく残っていた。
「あいつ立ち去るの早」
「……帰るか」
健太がかすれた声で言い、涼が「うん」と頷いた。
家に帰ると、母が洗面所で金魚鉢を出してくれた。「また金魚? ちゃんと世話しなさいよ」
うなずいて、水を合わせ、袋を開ける。金魚は、朝になりかけの薄い光の中で、尾をふわりと揺らした。
「名前、つけたら?」
母に言われ、ぼくは口の中で何度も転がしてから、小さく言った。
「澪」
翌日、学校で健太が言った。
「昨日帰った後に母ちゃんの妹の写真見せて貰ったんだけどさ。やっぱ昨日のあいつにそっくりなんだよなぁ」
「もうその話はいいよ…」
「え?でも怖くね?この学校で見たことない子だし。あれ絶対幽霊だぜ」
「もういいって言ってるだろ!」
「なんだよ…そんな怒るなよ…」
澪に違和感を覚えていたのは、ぼくも同じだった。
でも、昨日の思い出を踏みにじられたくなかった。
この感情がなんなのかは当時のぼくにはわからなかった。
金魚は、思ったより長く生きた。冬を越え、春に餌をよく食べ、夏に一度病気になり、秋のはじまりに静かに沈んだ。
小さな紙箱に綿を敷き、庭の土を掘って、朝顔の種を上に埋めた。翌年、藍に白い筋の入った花が咲いた。澪の浴衣の柄に似ていた。
年月が流れた。ぼくは中学になり、高校になり、進学で町を離れて、仕事で戻ってきた。十月になると、身体が先に境内の匂いを思い出した。
大人になってからのある年、ひとりでお十夜へ行った。屋台は少し現代的になり、値段はずっと高くなっていたけれど、風の匂いはたいして変わらない。読経はスピーカーを通して少し丸い音になり、灯籠はLEDになった。それでも、夜はやさしかった。
ぼくはお祭りを回りながら、彼女をどこかで探していた。
彼女はもう現れないとわかっていながら。
祭りの喧噪から離れ、海の方へ向かった。
石段に降りると、波は変わらず静かに音を立てていた。
「澪」
呼んでみる。返事は、もちろんない。風が少し向きを変え、袖の中を抜けていく。
参道に戻ると、子どもたちが大声で笑っていた。
「うわ、おまえ、手ぇつないでるー!」
誰かが誰かをからかい、誰かが顔を真っ赤にして否定する。ぼくはつられて笑って、ふと、空いた左手をそっと差し出した。
空気が指のあいだを静かに抜ける。
灯籠の光が頬に触れ、金木犀の匂いがふっと濃くなった。
来年の十月も、きっと思い出す。
あれがぼくの初恋だったから。