【番外編】ギルド長ハーゲンの一日
「――っ、ふあぁ……」
ぐっすり眠れたハズであるのに、疲れそのものが全然取れない。そして無駄に早く目が覚めるのは歳のせい――、いや、一向に減らない書類の山のストレスのせいなのであろうか。日の光が差し込むことすら叶わない時間に、いつも目が覚めてしまう。
大きく伸びをし、ゆっくりと布団から起き上がると、床に足を下ろした。
ギシギシと木の軋む音と共に、窓辺まで進む。そして薄いカーテンをシャッと開ける。
眩しい光などは無く、相も変わらず漆黒の闇が広がっていた。
「また、この時間か……クソが……」
時刻は現在、午前3時である。
二度寝すら許されぬほど無駄に冴えてしまったハーゲンは、日課の育毛ブラシと手拭い、“壱零壱”と記された瓶を取り出し、その液体を頭皮に塗り付け、指の腹で念入りにマッサージをしていく。そして育毛ブラシを使い頭皮を軽く叩く。
柄に小さな傷のある愛用のブラシだ。遠征で石畳に落としてついた傷、辛いときに叩き付けた時もあった。そうした小さな傷がいくつもある、歴戦のブラシである。
〈トントントントン……〉
小気味よくリズミカルかつ丁寧に頭皮のケアをしていくのが日課である。
「頼むぞ、毛乳頭、頼むぞ!」
だが、頭皮は既に焼け野原であった。それでも藁をもすがる思いで、頭皮に刺激を与えていく。
そうして2時間ほどのケアが終わると、ようやく外が白んでくる。
洗面台の蛇口をひねり、冷たい水が指先に伝わる。水を掬い顔を洗い、もう一歩踏み込む。額から頭頂へ、再び指の腹で円を描くように頭皮を丁寧にマッサージをしていく。
歯を磨き終え、鏡の前に立つ。そして、手拭いを使い頭皮を乾布摩擦していく。
じんわり温かくなってきたところで、ハーゲンは鏡に向かって小さくうなずいた。
「頭皮良好、頼むぞみんな!!」
だが、決して良好などではなく、答えるものは既に存在していなかった。
こうして準備を整え、制服の襟を正し着衣に着いた埃を軽く払うと、ようやく出立となる。
宿舎を出ると、外は日が昇り始め街の色を変え始めていた。石畳の通りには焼きたてのパンの香りと、焙じた豆の香りが鼻腔をくすぐり流れていく。途中〈Null越デパート〉に寄り本日の昼食を仕入れる。門番に軽く会釈を返し、ギルド本部へ向かった。
灰色の大きな建物――中央ギルド本部である。建物正面の手すりには露が僅かに残り、ひんやりしている。
扉をくぐれば、人の気配で温まった空気を感じ、受付の若い女性が笑顔で会釈する。
「おはようございます、ギルド長!」
「おはよう! 今日もいい天気だな」
軽く挨拶をかわし執務室へと急ぐ。
そして、執務室。
書類の山が、今日も無言で出迎えてくれる。机や壁面、窓辺。あらゆる面に積み上がる報告書の背には「封印班」「規制線」「会計」「鑑定屋関連」とストレスの根源を活性化させそうな単語が列挙している。
鼻歌交じりにコーヒーを淹れ、椅子に腰を落とす。そしてコーヒーをひと口含む。程よい苦みが喉を潤し、体を温める。
ペラりと捲る書類の一枚目――南区で規制線の解除遅延。二枚目――封印箱の蝶番ゆるみ。三枚目――鑑定屋でまたしても小規模爆発。四枚目――、五枚目……。捲ってもそのほとんどが例の鑑定屋の爆発報告である。
眉間に手を当て肩を落とす。そして流れるように育毛ブラシを取り出すと、頭皮のケアを行っていく。
〈トントントン……〉
窓から差す朝の光が頭皮に熱を伝え、うっすらと汗を滲ませる。ブラシのテンポと報告書をめくるリズムに合わせながら、言葉がこぼれる。
「血色良好。よし、やれる」
「ギルド長ー、突撃リポートでーす!! 一体、何がやれるんですかー!!!」
〈パリン!〉
思わず手に持っていた歴戦の相棒を、窓に向かって全力で投げ付けた。
扉が勢いよく開くと、リーネの声が響く。次には音声さんとカメラが入ってくると、最後にリーネが滑り込んできた。今日の彼女はスーツ姿だが、袖口からのぞく手はいつも通り、落ち着きがない。
「ノックしろやあぁぁぁ!」
「しました! 今さっき、心の中で! ――というか、ギルド長! 朝のコンディションはどうですか! 窓ガラスが割れた音がしましたけど、大丈夫なんですか!!」
「我が相棒がああぁぁぁ……」
その育毛ブラシは直線的にガラスを突き破り、遥か彼方の青空へと旅立って行ったのである。
「窓ガラスが割れていますが、襲撃でもあったんですか!?」
「今現在、“この場”でリポーターの襲撃に遭ったところだよ! あぁぁ……高かったのに……。というか、こんな早朝から一体何なんだよ……」
崩れ落ちるハーゲンに、再びリーネの追撃が入る。
「突撃取材です!」
「見りゃあ分かるんだよ。中身を言え、中身を」
「視聴者に“普段の業務”を知ってもらおうと思い、私の独断で取材をさっき思いつきました! 書類の山とか、朝食、書類の山、カブトムシ、書類の山、カブトムシ……育毛剤……」
「さっきかよ!! つーか、まてまてまて、余計なのが混じってるから!! とりあえずちゃんとアポ※を取ってから来い!!!」
※アポイントメント:面会や会合の約束・同意を指す
そのまま五分ほど押し問答を続け。リーネは不服そうに頬を膨らますと、一旦撤退した。
そして静けさが戻った執務室。しかしハーゲンの胃に与えた適度なダメージは戻らない。
ため息を一つつくと、椅子に座り執務に戻る。消耗した封印石、夜勤明けの兵士の疲労、足りない回収箱に対する走り書きの謝罪。危険手当など。
ハーゲンは承認印を押しながらも、赤字で「補助優先」「休息確保」「危険手当の加算」を書き添えた。
「はぁ……人が足りんな……」
こうしてすべての書類を見られる時間もなく、昼を告げるの鐘が鳴った。その低い音によって壁がわずかに震える。
「もう昼か……」
引き出しのさらに奥から、黒塗りの重箱をそっと出す。
金の箔押しのラベルには――《Null越デパート 地下限定》とある。早朝列へと並び、手に入れた限定の一折だ。
包み紙をめくり、蓋を外すと香りがふわりと立つ。
炙り牛のロースト、艶やかな海老天、根菜の含め煮、旨味の染みた出汁巻き。彩りを添える小鉢には、胡麻和えときんぴら。隅には小ぶりの鱒寿司までが入っていた。
小さな祝宴が、掌にのる箱の中に整列していた。
「……奮発した。ここ最近の労務に対するご褒美。度重なる残業代は、ここに消えた。だが、今日はこれで午後を乗り切る!!!」
箸を構え、まずは端の出汁巻きを――。
「ギルド長ー! お昼の時間、失礼しまーす!」
〈バァン!!〉
なぜ寄りにもよって昼の鐘と同時に来るのか、そんな疑問と落胆と共に扉が開く。
肩にカメラを載せたリーネと、その後ろには慌ただしい助手が居た。
「さて、人気コーナー“人のメシがうまい”の時間です! 本日はギルド長の――あっ! それはもしや、居今話題のNull越デパ地下の限定弁当ですね!! どうですか税金で食べるご飯は? それとも横流しか賄賂ですか!?」
「ちちち……ち、違う! 断じて違う、これは私費だ! 早朝、長蛇の列に並んで買っ――」
言いながらも、言葉が詰まり、良く考えろと脳が訴える。
“自分で作った”と言えば角は立たない……、いや良い歳の男性が朝からこんな大そうなものを作れるはずがない。とは言え、作ったことにするとなれば、後日自宅に調理風景の取材に来るかもしれない……。適当に誤魔化しても言葉はすぐ切り取られる。ならば――。
「こ、これは……、お前のために用意した弁当だ! 再び取材に訪れると思って用意しておいたのだ!」
双方共に沈黙する。コツコツと時計の針を刻む音だけが、妙に大きく聞こえる。
ハーゲンの額に汗がにじみ、頬を伝う。「どうか、これで通ってくれ……」と生唾を飲み込むと、リーネの目が次第に丸くなっていった。
「えっ、わたしのですか? これって、賄賂なんじゃないですか!」
「ち、違う違う違う、断じて違う!!」
「それでは視聴者に問います! “ギルド長の弁当は賄賂か否かを”!」
「まてまてまて冗談だ、冗談!! これはただの食品のサンプルだ。会議で使うためのな……」
蓋を閉じ。重箱を引き出しの奥へと追いやった。
その瞬間、腹の音がぐぅと鳴った。
「それにしては、良い匂いがしましたが……」
「せ、精巧にするサンプルのテストだ……、サンプルといえど、匂いも発せられれば食欲をかき立て、売れ上げにも繋がろう……」
「なるほど! 新商品の開発のテストという事ですね、それは失礼しました!」
(ふ、ふう……なんとか誤魔化したぞ……)
「え、いま誤魔化したと?」
「ご、胡麻があったと言っただけだ……」
「そうですか、おかしいなぁ……。それじゃあ、受付でアポ取ってくるんでよろしくお願いしますね」
「順番が逆なんだよぉぉぉぉぉ!!!」
取材班は去った。助手が去り際に小声で「すみません」と言い頭を下げるのが聞こえた。謝るのは良いけど、少しはリーネを制御しろと言いたい。
そして再び静けさが戻る。
閉まってゆく扉と共に、昼休みの終わりを告げる鐘の音が寂しそうに響く。
日の光は最高潮。中庭は白く光り、遠くでは、子どもたちが楽しそうにケラケラと笑っている。
椅子に戻るついでに窓辺に寄り、割れた窓ガラスから顔を覗かせると、ブラシの所在を探した。だが、握っていたブラシはもうない。昼に食べれるはずだった弁当は、口へと運ぶ時間を与えてはくれなかった。机の奥でひっそりと、そして時間は無情にも刻一刻と消費期限へと迫って行くのだ。
「……午後の書類、片付けるか……」
未決の束を抱え直し、文字を入れ、印を付けていく。そのたびに強調線で囲われた“鑑定屋”の語が視界に入る。
そしてため息を吐き、再びペン先を走らせる。
〈コツ、コツ、コツ〉
廊下から、小走りの靴の音が聞こえる。執務室の前で止まると、扉が控えめに叩かれた。
〈コンコン……〉
「よし、入れ」
「し、失礼します! ギルド長!」
若い兵士が顔をのぞかせた。頬には汗が滲み、目は焦っている様子であった。
「言ってみろ」
「はっ! 例の鑑定屋が、先ほど爆散しました! 加えて、呪物が近隣へ飛散したとの報告が上がっています!!」
「またか……」
「またであります!!」
ハーゲンは再び眉間に手を置き、肩を落とす。胃がキリキリと痛み、胸を締め付けるようだ。
引き出しの中の重箱を、一度だけ横目で見る。閉じたままの金の箔押しシールが、まるで遺影のように静かに光っていた。
「……回収班を要請しろ。封印班にも通達。くれぐれもリーネにだけは気付――」
言い終わる前に、廊下の向こうから元気な声が響いた。
「ギルド長ー! わたしも現場へご一緒します!」
ハーゲンの胃が再び悲鳴を上げた。
――
馬車に揺られながら現場へ向かう。
外の街並みは慌ただしい。行商人が商品を片付け、母親が子どもを抱えて家に駆け込む。遠くで鐘が鳴り、辺りは騒然としていた。
「こちらはリーネです! ただいま移動中のギルド長に突撃中継を始めようと思います!」
「まてまてまて! なんでこっちの馬車に乗ってるんだよ! お前らの馬車はあっちだろうが!!」
リーネは少し首をかしげ「大丈夫です。お気になさらずに」と言うと、そのまま取材を続けた。狭い車内でリーネがカメラを向ける。ハーゲンは必死に手で顔を隠そうとするが、助手が器用にアングルを変える。
揺れる馬車の中。カメラを避けようとするハーゲンのであったが、向けられたカメラの丁度その上に、蜘蛛が乗っていた。
「……ヒッ……!?」
次の瞬間、ギルド長の巨体が後ろに仰け反る。
部下二人が慌てて支えに回る。リーネは実況をやめず、声を弾ませた。
「ご覧ください! 勇猛果敢なギルド長が何やら表情をゆがませ、抵抗しております!!」
「ちょ……、ちか……近づ……、カメラを近づけるなぁぁぁ!!」
「どうしました、ギルド長!! 何か映りましたか!?」
カメラ前に後ろに揺れ、そのたびに蜘蛛が顔に近づき、距離を詰めてくる。
「――ッ……」
何かがふっと切れるような感覚に襲われ、ハーゲンはそのまま意識を失うように目を閉じていった。
――――
――
現場に着くと、街路は規制線で囲まれていた。
例の鑑定屋の跡地からは黒煙が立ちのぼり、石畳はひび割れ、瓦礫の間からは淡い緑光が漏れている。
そして、その裂け目から湧き出すのは――蜘蛛の群れ。
気絶しているハーゲンを実況し続けても意味が無いと悟ったリーネたちは、一刻も早く馬車から降り、揚々と実況している。
「ご覧ください、蜘蛛の群れッ!! 小さいのから大きいのまで沢山いるようです!!」
その様子に気付いたのか、ハーゲンは目を覚まし馬車の外を見る。
「ひっ……ひぃぃぃぃ!!!」
視界に入った瞬間、ハーゲンの足が震え、腰が抜けた。蜘蛛は瓦礫の上を這い、黒い塊となって渦巻いている。
封印班が必死に結界を張っている一方、防護服に包まれた兵たちが呪物を封じ込めようと叫ぶ声が響く。
「対象確認! 規制線を強化しろ! 回収班、急げ!」
「うわああぁぁぁぁぁ!!」
ハーゲンの絶叫は、誰の号令よりも大きく現場に轟いた。
巨体を揺らし逃げようとするが、部下に肩を押さえられる。
「ギルド長、しっかりしてください! ここで倒れたら示しがつきません!」
「おおおおおお、押すんじゃねえ! 押すんじゃねえよ! 俺は、俺は! 気を確かか!?」
「ギルド長、落ち着いてください! 言語が破綻しています!」
リーネが服やカメラマンに付く蜘蛛を手で払いながら、実況を続けている。その姿はまさに記者の鏡とも言うべきであろうか。常人であれば数秒で失神そうな状況である。
そんな中、カメラマンが店主・適見を見つけ焦点を当てた。
「おおっと、鑑定屋の店主適見さんを発見しました。怠そうに聴取を受けているようで、一刻も早く帰りたいという気持ちがこちらにもビシビシ伝わってきますね。とはいえ店舗が爆散しておりますので、帰る場所があるのか気になるところです。その背後には勇者さんでしょうか……あっ、担架で運ばれていますね、傍らには彼女さんでしょうか、ちょっとうらやましくも感じますね! これはスクープです!」
続いている実況の横では、黒い渦が群れを成し、ハーゲンのもとに差し迫ろうとしていた。その様子に一歩二歩、ジリジリとを後ろへ下がろうとするハーゲン。そのように気付いたのか、封印班はハーゲンとの間に結界を作り、寸でのところで抑え込む事に成功した。
だが、あらゆる事象を目の当たりにしたハーゲンは、その状況に耐えきれず、そのまま膝から崩れるように意識を失った。
――
「……報告します。呪物は回収完了、規制線解除。勇者は意識混濁ですが、命に別状しないようです」
封印班長が淡々と補佐官に報告していると、地面に寝かされたハーゲンは、うっすらと目を開けた。
反射的に身をよじり周囲を警戒する。視線を巡らし、蜘蛛の存在を確認する。だが、もう居なかった。きっと封印班がすべて処理したのだろうと思うと、胸をなでおろした。
「……すまん……助かった……」
「いえ、いつものことですから……。誰にだって苦手ってものはありますからね……」
部下の苦笑いに、乾いた笑いで答えるしかなかった。
――――
――
そして、夜。
ようやく自室に戻ったハーゲンは、机に夕飯を広げようとした。
事件現場から戻る際の“僅かな時間”で買えた“おにぎり”である。
そこへ、コツコツと高い靴の音が聞こえる。
「ギルド長ー! 突撃“晩ごはん”の時間です!!」
「帰れぇぇぇぇぇぇ!!!!」
怒声が本部に響き渡り、リーネは助手ごと廊下に押し出された。
扉を閉めると、ハーゲンは肩で息をした。
ゴミ箱には、昼に食べ損ねた《Null越デパ地下限定弁当》。金箔のシールは剥がれず、消費期限から数時間が経過していた。
「……結局、食えなかったな」
椅子に沈み、額を押さえる。窓の外では、遠くの酒場から笑い声が漏れていた。
胃も頭も重い。明日は静かに過ごせることを祈って、酒の封を開けた。
「……平和な一日を……。頼むぞ……」
ため息交じりに呟くと、外では〈リーン……リーン……〉と鈴の音を鳴らす虫が、秋の始まりを告げていた。
「……虫もリーネも、もう勘弁だ……」
ギルド長の一日は、こうして静かに終わった。
――――
――