序章
あの山には水神様が祀ってあるんだ。
だから、悪さをしちゃいけないよ。
悪さをしたら____
「ほんとうに、行かないといけないの?」
「んだよ、ビビってんのか?」
日が傾いて烏が鳴き始めた山の麓に、学生服を着た少年たちが5人立っていた。
如何にも悪餓鬼地味た集団の中に一人だけ気弱そうな少年が混じっている。
「で、でも……」
「何だよ。ただ神社に行って札を剥がして持って帰ってくるだけだろ」
「そんなのしたら……」
「五月蝿いな、とっとと行ってこいよ」
ドンッ、と少年は集団の中のリーダーらしき男に押されて躓いた。
よく見れば少年は至る所が傷だらけだった。少年は渋々「わ、わかった」と返事をして一人、山の中へと足を踏み入れたのだった____
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山の中は時間帯にしては薄暗く、至る所から鳥の鳴き声がした。
そして夏だからなのか、木々からは五月蝿い程にセミの鳴き声も響いてきた。
一応舗装された道ではあるが、道は急勾配で、神社は山の上にある。
少年は息を切らしながら山へと向かった。
「はぁ……はぁ……着いた………?」
寂れた神社だ。鳥居は紅く、社はこじんまりとしていた。誰が手入れしているのか、鹿おどしが何処かでカコン……カコン……と鳴っている。
社の上には烏が止まっていて、此方をジッと見ていた。
「とっとと御札を剥がして、帰ろう」
罰当たりだと言うことは知っている。しかしながら、存在するかも分からない祟りより、御札を持って帰らなかった事による彼らの報復の方が怖かった。
「これ、だよね……?」
社の扉に貼られた古い御札。
ボロボロで、力加減を誤れば破れてしまいそうだった。
少年は心の中で「すみません」と謝りながら御札に手を掛けようとした。
その時だ。
「あーあ、祟られちゃうね」
そんな声が真後ろから聞こえてきた。
驚いて振り向くとそこには浅縹色の着物を着た白髪の男が立っていた。
片目は隠れており、髪はハーフアップにお団子をしている。そのお団子部分には簪が刺してあり、耳にはタッセルの耳飾りをしていた。
隠れていない方の瞳は海のように蒼く、少年の心の内を見透かしているようだった。
「祟られたいのかな?」
「す、すみません!」
恐らく此処の管理人だろう。御札を剥がそうとしたのを偶々見つけて咎めたに違いない。
「謝ることは無いさ、勿論、神社に来たついでにお賽銭してくれると嬉しいんだけどね」
管理人はそうふふふっと笑って言った。そして続けざまにこう言うのだ。
「もしかしたら君の悩みも叶えてくれるかもよ?」
「………ッッ!?」
この人は何処まで見透かしているのだろうか。
少年は少し恐ろしくなった。そしてふと気づいたのだ、何時から後ろに居たんだろうか、と。
管理人は下駄を履いていた。つまり歩けば下駄の音がするはずなのに、少年はそんな音を一切耳にしていなかったのだ。
「不思議そうな顔をするね」
「あ、いや………」
「バレてしまったなら仕方がない。口封じに……」
そう言って近づいてくる男に腰を抜かせば彼はまたもやふふふっと笑った。
「冗談だよ。怖がらせて悪かったね」
「いえ、…………すみません」
「お詫びと言っては何だけれど、何か悩みがあるなら力になるよ。これでも私は神様に仕えているんだ」
「神様に仕えている……?」
それは、神主さん、という事だろうか。それとも本当に神様の使い?……いやいや、そんな事あるわけが無い。
しかしながら、見知らぬ人だからこそ打ち明けられる悩みもあるだろう。そう思って彼は口を開くのだった。
「あの……もし良ければ聞いてくれませんか」
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「ふむふむ、それはそれは酷い輩だね」
「僕が悪いんです。僕が弱いから……」
管理人さんは少年の話に相槌を打ちながら真摯に聞いていた。
そして少年はそんな彼にすっかり心を開いて悩みを打ち明けていた。
「殴られたり蹴られたり……ペットを川に落とされたり……か」
そう、少年は虐められていた。教師に打ち明ける勇気もなく、教師が気づくこともなく。
そしてエスカレートしたそれは、彼が家族のように想っていた野良猫にまで及んだ。
「僕が、僕がトラスケに餌なんか与えたから……僕が、僕が関わらなければ……」
野良猫__トラスケ__は彼が学校から帰っている途中に見つけた野良猫だった。
耳に切込みが入っているのはサクラ猫の証。
彼はその猫を家では飼えないからと密かに近くの路地裏で飼っていた。
ダンボールハウスに餌用のお皿と水用のお皿。
彼の傷だらけの心が癒されるひと時だった。
しかし、そんな日々は長く続かなかった。
ある日、帰り道にある川辺に何時もの虐めっ子がいるのを見かけて避けようとした。しかしその虐めっ子が手に何かを持っている。
それは生き物のようでジタバタと抵抗をしていた。
「此奴、生意気だな」
「猫って水嫌いなんだよな」
そんな声が微かに聞こえて、真逆、と少年は川辺の方へ走った。
その猫はトラスケだった。やめろ、と必死に手を伸ばしたのも虚しくトラスケは雨上がりで流れの早い川に投げられた。
少年は川に入ろうとしたが、急な流れの川に躊躇してしまった。
川の中からは「みゃー、みゃー」と助けを呼ぶ声が聞こえる。しかしどうすることも出来ない。
次第にその声は小さくなっていき、途絶えた。
しかし少年の耳には今もその声がこびりついている。夜になるとみゃー……みゃー……と鳴き声が聞こえるのだ。
「きっと、恨まれてますよね」
「真逆、君が悪いんじゃないさ。恨まれるなら虐めっ子達だろう?」
「でも、僕が飛び込んでいたら」
「それこそ君が死んでいたよ」
男はそう言って少年を諭した。そして彼に言う。
「復讐、したいのかな?」
「え、いや……いやいや………」
「このままじゃ次は君の番かもしれない」
「でも……復讐なんて……いや、でも、彼らが居なくなったら……僕は喜ぶのかな……でも……」
「大丈夫だよ。神様にお祈りすればいい。そうすればきっと、水神様はお優しいから助けてくれるはず」
「あ、そういう……そっか、そうですよね」
明らかに落胆した様子の少年に男は更に言う。
「ほら、騙されたと思ってさ」
少年は信じていなかった。まぁ、そうだよな、と思うことにした。しかし何かに縋ったところで損は無いのだから、と少年は財布に入っていた小銭__五百円玉__を賽銭箱に投げ入れて手を合わせた。(五円玉じゃなかったのは御札を剥がそうとした贖罪もあった)
どうか、彼らが僕をもう虐めませんように__
「きっと、水神様も聴いてるよ」
その後、男は少年に水の入った瓶と御札を渡した。
「ほら、これは聖水……って言っても中身はラムネなんだけどさ。人数分あるから皆で分けてね。後はダミーの御札。これ渡せば虐められないでしょ?」
「あ、有難う御座います……ここまでしてくれて……」
「さぁ、帰った帰った。親御さんが心配するよ」
そう言ってシッシッと追い払うように男は少年を神社から追い出そうとした。
ぬるい風が吹いて、チラリと見えた隠れた方の瞳は、まるでこの世のものではないような気がした。__中で、魚が泳いでいるように見えたのだ。
そんなはずは無い。けれども一瞬のその中に瞳の中で泳ぐ魚を見たのだった___