96 乙女
セシリーはベッドで上体を起こしたままナンシーを睨む。
「姉が裏切ったからと、エース・オブ・チャリスであるにも関わらず、軍の仕事からは外されて王都に転勤させられ、同僚どころか帝国臣民から罵倒と冷たい視線を投げられる日々を送っていたというのに、ナンシーはその旦那様というのと子作りしていたと。死んだ仲間に申し訳ないとか思わないわけ?」
「私を批難する気持ちはわかるけど、まずは旦那様にお礼をいうべきだと思うの」
ナンシーがそう言うと、セシリーはさらに強い口調になる。
「その旦那様って誰よ」
「目の前にいるじゃない」
「どうも、ナンシーの夫、スティーブ・アーチボルトです」
スティーブはバツの悪そうな顔で挨拶をした。
自分のことは帝国ではよく思われていないのはわかっていたからである。
「竜頭!」
セシリーが興奮して立ち上がろうとするのをルイスが止めた。
「セシリー、まだ安静にしていた方がいい。それに、アーチボルト閣下は命の恩人だ。味方も路銀もない我らが敵対したところで得はない」
「申し訳ございません、殿下。それにアーチボルト閣下」
「まあ、停戦したとはいえ、僕は帝国から恨まれているだろうしね」
セシリーの謝罪にスティーブは苦笑した。戦争が終わったからといって、ノーサイドとはならない。そうしたことは織り込み済みなので、怒ることはしなかった。
セシリーが落ち着いたところでナンシーが話を続ける。
「セシリーが納得するかどうかわからないけど、私がどうしてこうなったかを話すわ。任務で旦那様の領地に潜入したんだけど、正体を見破られて魅了の魔法で魅了されたの」
「閣下は魅了の魔法も使えるの?」
「そうよ。口外はしないでもらいたいけどね。それで、魔法の効果で好きになっていたんだけど、旦那様はそんな私を大切にしてくれたの。この国の国王が私を殺すように言ったのに、他の報酬を蹴ってまで私の助命を願い出てくれたりしてね。それからもクリスティーナ様っていう婚約者と変わらない待遇で、とても大切にされていた。だから、エース・オブ・ソードとキング・オブ・ソードとの戦いの前に、魅了の魔法を解除された時に一緒に戦うことを私から願い出たの」
「国を裏切ってまですること?」
セシリーの目つきが再び険しくなる。ナンシーはそれを受け止めて頷いた。
「そうよ。だって、国王が私を殺せっていう命令を取り下げなかったら、旦那様はおそらく国王と対立していたと思うの」
「そんなの勘違いかもしれないじゃない」
「そんなことないわ。旦那様のお姉様が敵国の王子に恋をした時だって、そうしようとしていたから。この前の戦争だって、私を自由にするためにわざわざ停戦協定の中に全ての関係者の罪を許すって入れてもらったのよ。その結果、帝国に勝利したというのに領地が増えることもなかった。私にそこまでの価値を見てくれる人がどこにいるというの?」
「まだ魅了の魔法にかかっているってことはないの?」
「これ以上旦那様のことを悪く言うなら怒るわよ」
今度はナンシーの目つきが険しくなった。慌ててルイスがフォローする。
「それは無い。クィーン・オブ・ソードは精神魔法の影響下にはないのは確認済みだ。僕もにわかには信じられない話だが、おそらくは本当のことだろう」
ルイスに言われてセシリーはそれ以上何かを訊くことはしなかった。空気が重たいと感じたスティーブが食事の提案をする。
「さて、お腹もすきましたし、食事にしましょうか。ソーウェル卿の居城で僕が料理を出すのも申し訳ないですが、ラーメンがいくつかありますので、それを提供しましょう」
ラーメンという聞きなれない料理にルイスは説明を求めた。
「聞いたことがないですが、どんな料理でしょうか」
「パスタをスープに入れたものっていうのが一番わかりやすいでしょうかね。味が数種類あるので好きなものをといっても、初めてだとわかりにくいか。今ちょっと準備しますね」
ラーメンとパスタは別物であるが、この世界に標準的にあってルイスたちが理解できるならそういう説明となる。これは子どもの教育も一緒で、例えば猫しかしらない子どもにライオンを教えるならば、猫とライオンの共通点から徐々に理解させていくというやり方となる。
授業科目の社会が町内、学区、市町村、都道府県、日本、世界という順番で学んでいくのもそのためだ。
大人であればもっている引き出しが多いので、もう少し順番を飛び越して教えることも可能であるが、基本的には教え方は同じである。
それでも、現物があった方がわかりやすい。スティーブは亜空間からスープの入った木製のコップを取り出すと、室内にあるテーブルに置いた。どれもみな湯気がたっている。
「醤油・塩・味噌とそれぞれの豚骨、それに鶏がらスープの七種類。試飲してみてください。好きな味のものを出します」
スティーブの出したラーメンのスープを、ルイスは恐る恐る口に含む。セシリーも同様に口にした。
「味噌がいいな」
「わかりました。殿下は味噌ですね」
ルイスは味噌を選んだ。セシリーは醬油豚骨を口にしたときに、あからさまに顔をしかめる。
「この、とんこつというのは人の食すものなのか?」
「セシリーはこの豚骨の素晴らしさがわからないの?」
「ナンシーこそ、こんなものを喜ぶなんてどうかしている」
「いいわ。セシリーが食べないなら、私の分が減らなくて済むから。旦那様私とお腹の子供の分で、醬油豚骨を2杯いただけますか」
ここでまた姉妹の口喧嘩が始まった。
オーロラはそれを無視して自分の注文を出す。
「私は塩ラーメンね。うちの料理人にも再現させるように指示してかなり経つけど、まだ、ここまでは到達出来ていないのよね。毎日納品してくれないかしら」
「毎日はさすがにどうかと思います」
蕎麦の時のように、スティーブはラーメンのスープをソーウェル家の料理人に教えており、その見返りとしてこの世界で調達できる素材で作った具材の調理方法を教えてもらっているのだ。その教えを受けた料理人が再現に挑戦しているが、スティーブが魔法で作り出すラーメンスープまでは到達できていなかった。
「音を立てて麺をすするのは無作法と思うでしょうが、ラーメンや蕎麦に関してはこれが正しい作法です」
そういって、スティーブは全員の注文したラーメンを取り出す。テーブルにはラーメンのどんぶりが並んだ。そして、自分がお手本をみせるとばかりに箸も取り出してラーメンを食べ始めた。
流石に箸はオーロラもナンシーもまだ上手く使えないので、二人はフォークを使う。
「さあ、熱いうちにどうぞ」
スティーブに勧められてルイスとセシリーは、生まれて初めてラーメンを食べることになった。
「これは確かに毎日食べたくなる」
「スープは水魔法で作っていますが、膨大な魔力を消費するので、一日10食が限界ですね。毎日提供しようとしたら、配達に使う転移の魔法もあるから、5食くらいかな」
それを聞いたオーロラがクスクスと笑う。
「国王陛下も所望されてますが、それだけのために貴重な魔法使いの魔力を消費するわけにもいかないから、特別な時だけ出させておりますのよ」
「そのような貴重なものを我らに提供していただいてよろしかったのですか?」
「まあ、ソーウェル卿だけが食べているのを見せられるのも辛いでしょうから、いいんじゃないでしょうか」
国王ですら望んでも食べられないと聞いて、ルイスとセシリーは恐縮した。
国王の抱える料理人も再現を試みているが、やはり完全に再現するのは難しかった。なので、ここ一番ではスティーブにスープの提供を依頼していた。
そういう背景があるにもかかわらず、どうせ余っている魔力で作っているだけだからと、スティーブはさほど気にしてはいなかった。
食事が終わるとスティーブはナンシーと一緒に帰ることにした。
「それでは僕たちはこれで失礼します」
「ありがとうございました」
ルイスとセシリーはスティーブに深々と頭を下げた。ナンシーは特に何も言わず、スティーブとともに帰る。
二人がいなくなった直後、オーロラはルイスに報酬について切り出した。
「さて、これでこちらは約束通りそちらのエース・オブ・チャリスの治療をしたわけだし、報酬を払ってもらおうかしら」
報酬という言葉にセシリーはルイスを見た。
「殿下、報酬とは?」
「セシリーの治療をしてもらうために、自分が差し出せるものはなんでも差し出すとソーウェル閣下と約束をした」
「そんな、私のために殿下がそこまでされる必要はありませんでした」
セシリーは自分のことでルイスがさらに追い込まれたことに困惑する。しかし、ルイスは気にした様子はない。
「そう申すな。いまや私に残った唯一の家臣。セシリーを失えば私は一人だ」
「それはそうですが……」
「それで、閣下は私に何をお望みか?」
ルイスがオーロラに訊ねる。
オーロラはフフッと笑ってから答えた。
「何も難しいことじゃないわ。殿下が帝国に帰るのであれば、そこのエース・オブ・チャリスと結婚してもらいたいの」
「セシリーと結婚を?」
オーロラの要求にルイスは驚いた。それはセシリーも同じである。驚く二人に対してオーロラは言葉をつづけた。
「別に正室だろうが側室だろうが構わないけど、結婚してその事実を公表してもらいたいの。子供は生まれたほうがいいけど、これについてはどうにもならないこともあるから、そこまでは望まないわ」
「確かにそれならば、私が支払うことが出来るが、閣下にどんなメリットが?」
「答える義務は無いわ。これは契約ですもの、どんな理由であれ履行してもらわないと困るわよ」
オーロラはルイスの要求をぴしゃりと断った。
その会話を聞いていたセシリーは下を向いていたが、やがて顔を上げて、意を決してオーロラに二人だけでの会話を願い出た。
「閣下、二人でお話しをさせていただけませんでしょうか」
「結婚についての乙女同士の会話であればいいわ。殿方には話せないことも多いでしょうから。でも、結婚を誓った相手がいるからと言われても、それは聞けないわよ」
「そういうのではありません!」
オーロラにからかわれてセシリーは顔を真っ赤にして否定した。それをみてオーロラはクスクスと笑う。
「さて、それが本当かどうか殿下には退室いただいて二人きりで話しましょうか。ただし、ハリーは残るわよ。護衛だけど口はかたいから安心して」
「承知いたしました」
こうしてルイスが部屋から出ていき、オーロラとセシリー、それにハリーが残った。
三人になると、セシリーはオーロラに質問をする。
「どうして私が殿下と結婚するのを望むのでしょうか?閣下の身内の者と結婚させる方が、大きな利益となるのではないでしょうか?」
「それに答える義務はないわね」
同じ内容の質問にオーロラは呆れる。
が、次にセシリーの口から出た言葉にオーロラは興味をひかれた。
「これは私の想像ですが、おそらくは私が姉の妹であるということが重要なのでしょう。閣下は私を通じてアーチボルト閣下に帝国との関係を結んでほしいと。だから、結婚の前提条件が帝国に帰るならということですよね。それはつまり、殿下の仇討ちにアーチボルト閣下が協力してくれるということでしょうか。その協力があれば帝位を殿下が手に入れて、妻の親戚という立場を得られると」
「よく頭がまわるのは好感がもてるわね。閣下が協力するかどうかはわからないけど、協力したならその後を考えてよ。そこまでわかっているなら話すけど、坊やはどうせ妻に貴女を助けてほしいって言われたら助けるわよ。殿下には興味ないでしょうけど。っていうのを殿下には言えないから、内緒にしておいてね」
「はい。しかし、姉が私のことを助けるようにお願いするでしょうか?」
セシリーはオーロラの言葉が信じられなかった。殿下と二人で帝国に帰って、レナードの首を狙うと言っても、止めることはしないだろうし、成功しても失敗してもそんなに心が動かないと思っていた。
「あなたたち姉妹が昔はどうだったか知らないけど、今は坊やに影響されてとても丸くなっているし、家族のことが心配なのよ。そうでなければ身重の体でここに来るわけないでしょ。何を言われるかだって想像がついているだろうし。貴女が気を失っている時の顔を見て確信したわ」
「それが事実だとしても、私を介して殿下を操れるなどと思わぬ方がよろしいのではないでしょうか」
「操ろうなんて思っていないわ。狙いはこちらの国内よ」
「国内?」
怪訝な顔をするセシリーに向けて、オーロラは妖艶な顔を見せた。
「今、カスケード王国は東西南北の四方全てが坊やの影響下にあるの。そして、四方の大貴族の力がどれか三つでも合わされば、王家を越えるようなところまできている。それって国王陛下からしたら問題だと思わない?」
「危険極まりない状況ですね」
「そうなのよ。そこで帝国の脅威まで取り除いてしまったら、一番危険なのは坊やでしょう。狡兎死して走狗烹らる。国王陛下が危険なものを取り除こうと判断するのはわかるわよね。そこで、皇帝陛下の妻との親戚関係が欲しいのよ。坊やに手を出したら帝国も敵に回るとね」
「それがソーウェル閣下の利益になると?」
「ならないでしょうね。強いて言えば、閣下が排除されたのちに我々貴族の権力を縮小させようとするかっていうのが未然に防げるっていうことだけど、そこまでなるのか今はわからないわ。これは単に坊やが心配だからそうしているの。望めばもっと良い暮らしも出来るし、経営の楽な領地に変えてもらうことだってできるのに、父親の領地で開拓の苦労を共にした領民が見捨てられないって言って、今でも領地経営でひいひい言っているのよ。公爵相当の座にありながらね。ま、だからこそ陛下も露骨にその力を削ごうとはしないのだけど。今日だって見てわかるでしょう。解呪したのに報酬の話もせず、貴重なラーメンをふるまっても対価を要求しない。貴族なんだから損得で動くべきなのに、そうした事をしないのよね。しないことが多いというべきかしら。時々恐ろしいくらい用意周到な時もあるから。でも、基本抜けているの。だから、いいように使われるんだけど、それで最後に捨てられるなんて可哀そうじゃない」
オーロラの言葉を聞いて、セシリーは笑う。
「聞いていると、ソーウェル閣下がアーチボルト閣下に恋をしているみたいですが。恋人を自慢する惚気に聞こえます」
オーロラはそれを否定しなかった。
「そうね。私がもっと若ければ絶対にものにしようとしていたわ。あんなに危なっかしくて、ときめかせてくれる人なんていないでしょうね。家を預かる当主としては失格かもしれないけど。毎回大きな事件が起きるたびに私の胸を苦しくしてくれるのよ。今でもすべてを投げ出して嫁ぎたくなるわ。あなたのお姉さんの気持ちがよくわかるの。でも、これはここだけの秘密よ」
「護衛が聞いているかと思いますが」
「ハリーはとっくに知っているからいいのよ。そんなわけで、私の恋人を陛下の好きにはさせたくないの。そのための楔が貴女と殿下の結婚。ルイス殿下のことを嫌悪しているなら申し訳なかったわ」
「いえ、決してそのようなことは無いのですが」
「それならなんの問題もないでしょう。復讐が成功すれば皇帝の夫人でしょう。失敗すれば死ぬのは何も変わらないんだから」
「仇討ちが既定路線のように聞こえますが」
「そうよ。少なくともあの殿下はそう考えているわ」
オーロラの指摘するように、ルイスは父親の仇を討とうとしていた。ただし、それを今出来るだけの態勢は無く、やみくもに帝国に戻ってどうこうしようというわけではなかった。
なので、セシリーがその考えに気づかなくとも仕方のないことだった。むしろ、オーロラがよく気づいたというべきである。
「事情は分かりましたが、これは私の胸の内にとどめておきましょう」
「そうね。乙女の秘密ですもの」
乙女の欠片も感じぬオーロラがそう言うと、ハリーが後ろで噴出してオーロラに怒られた。
いつも誤字報告ありがとうございます。