94 ぬいぐるみ
スティーブはニックと一緒に工場の裁縫部門を工程巡回していた。
足踏み式ミシンについて、国による使用の規制が解除されたことにより、アーチボルト領の工場にも導入されることとなったのである。
ミシンの生産は王都にある工房で行われているが、その部品についてはスティーブが生産しているものも多かった。加工精度の問題で、スティーブの魔法で作るのが一番品質が良いのである。
ミシンの普及は繊維業の発展を促した。各地で衣服の生産がおこなわれるようになり、そのため競争が激化していた。
なので、スティーブは他社との競合を避けてぬいぐるみづくりに乗り出すことにしたのである。度重なる戦勝により、スティーブが心配していた不況はまだ来ておらず、生活にゆとりが出た平民たちも知育玩具を買う者が増えた。
そこで目を付けたのがお人形遊びによる教育である。お人形遊びは言葉と心の発達に役立つ。その研究をジョージが発表することで、人形の需要が喚起されたのだった。実にマッチポンプではあるが、こうして商売の糸口をつかんだのである。
さらには、大人も可愛らしさから欲しくなるようなぬいぐるみを作ろうとしたり、動物園のお土産としての人形も商品開発をしていた。
先日エリーと一緒にスティーブが恩賜動物園を訪れていたのは、動物のスケッチが目的であったが、それは恩賜動物園にいる動物を見る必要があったからである。
ニックは工程を見ながらスティーブに愚痴を言う。
「いっぺんに20台も購入したもんですから、売りと仕入れが逆転して今月は赤字ですよ。それに、ミシンをうちの工場で作る方がよかったんじゃねえですか」
「今、ミシンを作っている工房が忙しくて、追加の注文を入れてもかなり待つことになるんだよ。だからまとめて注文したの。事業が軌道に乗ってからだと遅いんだよ。東部の復興キャンペーンでためた利益をつかったんだからいいじゃない」
「その復興キャンペーンも終わりましたがね」
東部の復興キャンペーンでアーチボルト領の製品を特別扱いしていたのは終了した。国王もいつまでも優遇措置を続けるわけにはいかなかったので、スティーブもそれは承知している。
そして、復興キャンペーンは需要の先食いをしてしまい、既存品の売り上げは落ちてしまったのだった。なので、今月はミシンの仕入れをしたことで大幅な赤字となっている。
ただし、単月ではということで、事業年度で見ればまだ黒字であった。
そして、ミシンは人気商品となっており、納入は長い順番待ちとなっている。そのため、まとめて注文しておかないと、もっと欲しいとなった時に中々手に入らないのだ。
部品を供給しているスティーブは、その売上でウハウハだった。
「復興キャンペーンが終わったからこそ、新規事業を育てないといけないんだよ。それに、一台は工作部門で改良するための研究用だから、ニックが好きに使っていいよ。王都の工房だと使っている加工油は海獣からとれた油しかない。こっちはニックのために僕が何種類か加工油を用意するから、それを試してみるといいよ。今のよりも良いものができるんじゃないかな」
「そりゃありがたいですね。だから若様のことが好きなんですよ」
ニックはミシンという機械が好きだった。工作機械全般が好きなのだが。ただ、旋盤は既に散々いじってきたので、今度はミシンをいじってみたいという欲求に駆られていた。
そんなニックのことを理解しているスティーブが、研究用ということで一台確保したのである。
なお、残りは裁縫部門においてあるが稼働率はまだ低く、作業者がおらずに稼働していないミシンが9台あった。
さらには、20台以外にもスティーブの家にミシンが置いてある。こちらはナンシーが生まれてくるこどものためにおくるみを作っていた。ナンシーと一緒にクリスティーナも妊娠したので、二人分を作っているのだ。マッキントッシュ侯爵家からは、出産を担当する医師団が送られてきており、いつでも対応できる体制をとっていた。
ちなみに、成人してからはスティーブは実家を出て、新居に住んでいる。医師団もそこに常駐している。
新居は本村の隣に作るアーチボルトラントという領都の中心部にあった。次の領主であるスティーブがその中心に居を構えるという都市計画である。
ただし、領都といってもまだ多くが建設中であり、住人もいない。建築関係の作業者などが本村の宿から仕事に来ているだけで、夜になるとスティーブの家以外には誰もいないゴーストタウンのようになる。
ここに住む予定なのは、アーチボルト領で農業に就かない新成人が中心となる。農業生産が向上したために、新規に農地を開発するくらいなら、三次産業を発展させようという計画ではじまったことだ。
土地はあまっているので、中心部に堀と城壁で囲まれた城を作っている途中だ。今の新居はその一角の仮住まいである。後々は来客者の宿泊施設として使う予定になっている。
その一室にミシンを置いて、ナンシーが使っているのだ。
今はナンシーも動きが鈍くなっているので、護衛としてベラがついている。なので、スティーブは本日はニックが一緒にいるだけだった。
「教育用のぬいぐるみに、そのキャラクターをつかった演劇用の着ぐるみ。それに、キャラクターを主人公にした絵本の出版ですか。随分と色々考えつくものですねえ」
「マルチ展開ってやつだね。キャラクターに人気が出たら、知育玩具にも使うつもりだよ。エリーには単に可愛いデザインを考えるだけではなく、工業製品として成り立つようにしてもらわないといけないから、加工現場を見てもらいたいんだよね」
「それなら現場にぶちこめばいいんじゃ?」
「それも一つの手だけど、デザイナーがひとりしかいないから、それをやっているとデザインが遅れちゃうんだよね。もっと人が増えれば教育する時間が取れるんだけどねえ」
町工場ではあまりやらないが、ある程度の規模の会社になると、新入社員の工場研修というのがある。製造業の根幹である製造を知らなければ、良い仕事は出来ないという考えから、そうした研修が設定されているのだ。
金型の設計や設備の設計などは、製造ラインの知識が無ければ成り立たない。そうした研修をおろそかにすることで、ひどい仕事をする設計者が生まれるのだ。
なので、ニックのいうことも正しい。
大企業ならばという前提がつくが。
アーチボルト領の工場ではそれをやっている余裕がないため、デザインをしながら学んでいくことになっている。金型はないが、ぬいぐるみの型紙だったり、積み木の形状などは加工方法を知っていないと加工不能なものや、時間がかかってしまうものとなってしまうのだ。
今まではスティーブのアイデアだったり、ニックや商品開発担当が考えたものを作ってきたが、専門のデザイナーを用意し、その仕事を担当させてみようという試みなのだ。
そして、マルチメディア展開も新しい試みである。
テレビやインターネットという媒体は無いが、演劇と絵本を作ってぬいぐるみのキャラクターを売り出す予定だ。劇場は王都の劇団と契約しておさえてある。そこに脚本を提供して着ぐるみを着て上演してもらう予定だ。 スーツアクターという概念がないので、大手の劇団には着ぐるみを着て子供向けに上演というのはやりたくないと断られてしまったが、小さな劇団が仕事を請けてくれた。
そして、これも王立研究所が研究予算を出してくれている。そのため、報酬は破格のものとなっており、報酬の話になった時に驚かれたのである。
スティーブがここで大盤振る舞いをしたのは、この売り出しに勝負をかけていたからである。中途半端な気持ちで演じられて、場がしらけるのは避けたかったのだ。
チケット販売は始まっており、教育関係者を中心に売れ行きは好調である。子供向けの演劇というのは今までなく、演劇が芸術であるという一部の層からは白い目で見られていた。スティーブなので、そうした評価は気にもしなかったが。
そうしたわけで、上演日程が決まっているから着ぐるみも納期を遅らせるわけにはいかなかった。
なおも工程を見ていると、ニックが困った顔をする。
「しかし、裁縫なんて俺はやったことねえんで、指導もなにも出来ねえですよ」
「早いうちにリーダーを育てることだね。ミシンの故障なんかも工機部門が対応するようにすれば、ニックの仕事も減るでしょ」
「工機も動きがもたもたしてるんで、俺が手を出すんですがね」
「だから育たないんだよ」
ニックの心配事は、裁縫という未経験の仕事を管理することだった。鍛冶師が木工をみるのも大変だったが、裁縫となればさらに仕事の内容は違う。
そのことはスティーブも理解していたので、厳しく言うつもりはなかった。しかし、早いところニックの代わりに管理できる責任者を育てるのは工場長としての仕事であるので、そこはやってもらいたかった。
そして、人を育てるといえば、設備の修理保全を担当する工機部門も、経験の浅い人間に担当させており、ニックが我慢できずに自分で手を出してしまっている。そのせいで、いつまで経っても育たないのだった。
「機械の故障なんて、見ればわかるでしょうが」
「それは経験だよ。見てもわからないところから、ベテランが修理方法を教えていくんだよ。鍛冶師だって師匠について覚えていくでしょ」
「げんこつが許されていたから、ひどかったですがね。ここは若様がそれを禁止しているので我慢していますが」
「別に子弟だってげんこつを許可しているわけじゃないから」
スティーブは苦笑する。
ニックには暴力を我慢するように命令していた。これは指示ではなく命令だ。違反したときには重い罰を与えると伝えてある。
どうしても殴りたくなった場合には、スティーブに事前に相談するようになっており、今のところはその相談も来ていない。愚痴どまりで、どうしても我慢できないほどではないということだ。
師匠に殴られるのが当たり前のこの世界にしてはよく我慢してくれているなと、スティーブはニックに感謝していた。口には出していないが。
「なんにせよ、これなら上演までに間に合いそうですね。劇場でお土産として売るぬいぐるみもわんさかできますぜ。エマニュエル商会じゃなくて若様が運んでくれるから、ギリギリまで時間が取れたのがいいですね」
「今回の初上演はジョージの研究でもあるしね。ジョージ夫妻を送っていく都合があるから、ついでだね」
「夫妻ってことはララも連れて行くんですか」
「そうだよ。彼女も幼児教育の研究をしてもらっているからね」
ララはジョージと結婚した。ジョージも貴族であるので、ララはシリルの養子になり、その後結婚となった。 ララの本当の両親であるライリーとマイラは、最初に結婚の報告を受けた時には腰を抜かした。娘がジョージのことを好きだとも気づかなかったし、その恋が成就するなどとは思ってもいなかったのである。
ただ、アーチボルト領にはアイラという前例があるため、これが嘘だとも思わなかった。しかも、そのアイラがララを養子に迎えてくれているのだ。
しかし、娘の結婚式に出ることは無かった。ウィルキンソン子爵家の結婚式であるため、各地の貴族が招かれており、平民の自分たちが出るのは恐れ多いと辞退したのだった。結婚式の前にジョージとララが一緒に挨拶に来た時に、お祝いをしただけである。
そして、現在のララは貴族の夫人なので働く必要もないのだが、工場の託児所で働いていた。そして、そこで幼児に対しての教育を研究している。
今回の演劇についてはジョージと一緒に研究対象となっており、夫妻で観劇することとなっていた。二人は仕事をかかえているため、スティーブの転移で上演直前に王都に移動する予定となっている。
その時ついでにお土産として販売するぬいぐるみを持っていく予定なのだ。
「それまでに数を揃えますから、特別手当をよろしくお願いいたしますね」
「最初に言ったじゃないか。今月は赤字だって」
「若様、それじゃあ労働意欲もわかないってもんですぜ」
「ボーナスの査定には加えるよ。それとも、お土産を売る横で着ぐるみを着て、愛想を振りまくバイトでもする?バイト代は弾むよ」
「それなら無給でミシンをいじってますって」
二人のおしゃべりはここで終わる。
その後はミシンの使い方について、標準作業をどうするかとか、設備の始業点検をどうするか、メンテナンスのスケジュールはどうするかなどを議論した。
こうして上演初日を迎える。可愛らしい動物たちが、歌と踊りをみせる舞台に子どもたちは大喜び。内容は楽しいものだが、途中途中で生活についてのルールが入ってくる。落ちたものを食べないとか、人のものを盗まないとか、演劇を通じて教育をしていくのだ。
動物たちが子どもたちに注意するたびに、観客席から「はーい」という返事が返ってくる。それをジョージやララが観察して、手元のメモ帳に記録している。
スティーブは教育はさておき、子どもたちが楽しんでいる様子に手ごたえを感じていた。今日の客層は裕福な家庭の子供たちだ。帰りにお土産としてぬいぐるみを買ってくれることだろうと期待していた。
そしてその予想通り、ぬいぐるみは飛ぶように売れたのだった。
いつも誤字報告ありがとうございます。