66 安眠
この日、スティーブはオーロラに呼ばれていた。今の格としてはオーロラがスティーブを訪ねるべきなのだが、実務的に考えたら転移できるスティーブが移動した方が早いのである。
そして、その呼び出しに使われるのは鏡と光を使った通信であった。以前のように使者を送ってよこすようなことはなく、実に素早く連絡がついている。
「ご機嫌麗しゅうございます、ソーウェル卿。卿の美しさの前には咲き誇るバラも恥じることでしょう」
「相変わらず閣下は口が上手いわね。あんまり他の女性に色目を使うと婚約者が逃げるわよ」
「ご心配痛み入ります。それで、どんなご用件でしょうか」
「帝国からの間者と思われる商人が増えてきたから注意してほしいの。エマニュエル商会やオクレール商会に接触して、アーチボルト領への渡航を目指している商人が増えているのよね。その中に帝国の諜報部門が関わっている商会があったのよ」
帝国もカスケード王国の発展の原因を調べており、アーチボルト領にたどり着いたのだった。だが、その先まではたどり着いておらず、何とかしてアーチボルト領に潜り込みたいと考えていたのだ。
飛ぶ鳥を落とす勢いのアーチボルト領には、新規取引を望む商人が沢山いるが、ブライアンは新規の取引商会を増やすつもりがなく、商人が直接交渉することはできなかった。なので、エマニュエル商会やオクレール商会に頼み込んで、一枚かませてほしいというお願いになるのである。
フォレスト王国の商人たちは、西部地域に接していることもあり、新規の取引を求めてソーウェルラントにまで来ていた。そこで、そうした動きを見せていたのだが、これに帝国の商人も加わってきたのである。
この動きに対して、エマニュエルとオクレールは帝国商人の来訪をオーロラに報告した。そして、オーロラが背景を調べると、帝国の諜報部門がつながっていたのである。オーロラはそのことを把握しながらも、あえて何も手を出さずに、取引をしないように命じるだけであった。
ただ、これはスティーブの耳に入れておくべきことであろうと、こうして連絡を取ったのである。
「情報ありがとうございます。しかし、ソーウェル卿のことですから、この情報も無償というわけにはいきませんね」
「あら、いつも悪いわねえ。催促したことなんてないのに」
そうは言うものの、オーロラが無償で情報を提供するわけはなかった。そこには必ず計算がある。
今回も別に情報が無かったとしても、スティーブが間者を見抜くだろうとは思っていた。しかし、先に情報を伝えることで、借りを嫌うスティーブが何らかの見返りをくれるであろうと考えていたのである。
オーロラが一番欲しかったのは蒸気機関車と新たなレールであるが、それはこの情報の見返りとしては不釣り合いであった。
次に欲しいのは高級グラスであったが、こちらもオーロラがその権威を示すために、活躍のあった派閥の貴族に与える分についてはスティーブから入手済み。今すぐに追加が無くてもよいものである。
なので、あえて要求はせずに、スティーブが何を出してくるかで、感謝の度合いを測ることにしたのだった。
スティーブはオーロラに何を返礼すべきか悩んだ。そして、悩んでいる自分を見て楽しんでいるオーロラの顔を見る。すると、疲労が蓄積しているのがわかった。そこで思いついたものがあった。
「ソーウェル卿、夜はよく眠れていますか?」
「仕事が溜まっているし、悩み事も多くてよく眠れない日もわるわね」
「それではスプリングマットレスなどいかがでしょうか」
聞きなれぬ単語にオーロラはスティーブに説明を求める。
「初めて聞くわね。どういったものなのかしら?」
「まあ、マットレスにばねを使ったものなんてないですからね」
スティーブは前世ではベッドを使っていなかったので今まで思いつかなかった。しかし、ベッドで寝るのならばスプリングマットレスがあれば寝心地が改善されるだろうと今やっと思いついたのである。自分用としても欲しいが、オーロラにも情報の返礼として、スプリングマットレスをプレゼントしようと思ったのである。
早速魔法で一本のばね鋼線を作り出して、それをマットレスの形に変えていく。そして、ばねの硬さを少しずつ変えながら、同じ形状のものを複数作った。
作り上げたマットレスの骨組みを手で触りながら、オーロラに商品説明をする。
「これだとむき出しですが、これにクッションを付ければ立派なマットレスになります。体にフィットして寝心地が向上しますが、ばねの硬さについては好みがあると思いますので、硬さを変えたものを用意しました。お好みでお使いください」
「あら、それじゃあ早速試してみようかしら」
「僕も初めて作ってデータが無いので、好みの硬さが決まったら教えてください」
「商品化するの?」
「規格化ですかね」
ベッドについてはJIS規格で規定がある。マットレスという名称も実はJIS規格で規定された呼び名なのだ。大きさもシングル、セミダブル、ダブルと全て決められている。
因みに、シングルは980mmx1950mmでダブルが1400mmx1950mmであり、倍の幅ではないのだ。
この時スティーブはベッドの大きさが規格化されたら、大量生産して商売になるかなくらいの考えで、今後自身に降りかかる影響というものを想像していなかった。
オーロラは直ぐにベッドにこのマットレスを使う。ばねむき出しでは使えないため、寝具職人が呼ばれて大急ぎでクッションとなる綿などを入れて外を布で覆った。
そして、完成したマットレスを使ったオーロラはその寝心地にたいそう感激する。その日の体調によって少し硬さを変えることもあったが、概ね使用する硬さは決まり、王都のタウンハウスにも同じものを置きたいとスティーブに頼んで同じものを作ってもらった。こちらについては、莫大な報酬が支払われることになった。
スティーブはこのマットレスを自分と家族のためにも作る。そして、シリルにもプレゼントし、王立研究所にもサンプルを提出して、ベッドやマットレスの規格があったらいいなというくらいの気持ちを伝える。
王立研究所はこれを受け取ったとき、研究所の順位は低そうなので後回しにしようと決めたのだが、これが大きな間違いであった。
ただし、これは研究所を責められない。帝国の侵攻に備えることを優先せよとの指示がでていたのだ。
ところが、オーロラがマットレスの寝心地を自慢してまわっており、それが国王の耳にも入ったことが不幸だった。
国王は自分もスプリングマットレスが欲しくなり、すぐにスティーブは呼び出しとなる。そして、この段階では王立研究所はマットレスの研究に着手していなかった。
スティーブは謁見の間で国王に挨拶をする。
「陛下、スティーブ・アーチボルト参上仕りました」
「ごくろうである。で、今日呼んだのは他でもない。ソーウェル卿に提供したというばね式のマットレスだが、朕のところにも同じものを献上できるか?」
ここでスティーブはオーロラがマットレスを自慢して歩いていたことを知る。そして、国王が貴族の持っているマットレスを持っていないことを悔しがることを失念していたと気付いた。
「作るのは簡単でございますが、硬さは個人の好みがありますので、何種類か硬さを変えたものをご用意いたします。その中から陛下に合うものをお選びください。しかし、困りましたね」
「何か困ることがあるか?」
「他の貴族からも問い合わせが増えるかと思いましてね。ステンレス製のドラゴンのフィギュアや高級グラスに加えてマットレスもそこに加わるとなると、注文が集中するなと思いまして。こちらはサンプルを王立研究所に提出して、規格化をお願いしているのですが、それが出来れば私以外でも同じものを作れるようになります。おそらくマットレスも10年くらいで劣化しますので、その時同じものを作れないと困りますよね」
「ふむ、これを放置していたとなれば、王立研究所の責任者を罰せねばな。宰相、すぐに確認を」
「承知いたしました」
この時、宰相もマットレスが欲しかったが、流石に自分にもと言い出すことはできず、王立研究所の尻を叩いてスプリングマットレスを作らせようと考えていた。
すぐに王立研究所の所長が呼び出され、宰相から質問ぜめにあう。
所長の名前はアイザック・ホリデイ。初老の研究者で髪の毛は白く薄かった。全体的に細身で、頬の肉は削げ落ちているせいで、しわが目立って実年齢よりも老けてみえた。
宰相は所長に強い口調で話す。
「所長、陛下はベッドの規格化が遅れていることをいたく憂慮されておるが」
「ベッドの規格化でございますか」
「知らぬわけではあるまい。竜頭勲章アーチボルト卿からのサンプル品提出があったこと、こちらは調べがついておるが」
所長もそのことは知っていた。研究予算を要求するために、そうした案件は全て耳に入ってくるし、シリルの報告書にも目を通していた。それどころか、寝心地の良さからサンプル品をこっそり家に持ち帰っていたのである。
そんなスプリングマットレスだったが、帝国の侵攻に備えることを優先せよという王命に従い、所長は人的資源の不足から、寝具の規格化については後回しにしたのであった。
「宰相閣下、研究の優先順位は帝国の侵攻に備えるものからということではなかったでしょうか」
「兵士の睡眠の質も重要なことだと思わんかね?」
宰相にそう返されて、所長は言い訳は無理だなと悟った。
「おっしゃる通りでございます。しかし、現実問題として研究対象が多く、新規の予算も組まなければならないため」
「所長、きついことばかりを言うわけではない。実はな、このマットレスについては竜頭勲章アーチボルト卿は事業化するつもりはないとのこと。わかるよな」
「承知いたしました」
宰相の言葉で所長はやる気が出た。スティーブが事業化しないということは、アーチボルト家の利権が発生せず、先行者利益を得やすいということである。
所長がその気になれば、マットレスを作る工房と組んで、自分たちのやりやすいような規格をつくり、市場を独占することも可能だということだ。これは宰相が与える飴であった。
宰相にしても軍事目的の研究を優先するように指示を出していたという後ろめたさがあったため、所長にも美味しい思いが出来るようにと、こうした飴を用意していたのだった。
この結果、マットレスの規格化と開発は所長が自ら行うことになった。マットレスの商品化はばね鋼線の入手が困難なため、所長の息のかかった工房のみに供給され、そこだけが生産可能という状況でかなりの利益を出していた。当然その一部は所長に還元される。
そのせいで、所長は研究員に恨まれることになったのだった。
さらに、カスケード王国でスプリングマットレスが作られており、貴族の間で流行しているという話が帝国に伝わり、帝国の産業大臣は皇帝から帝国内でもスプリングマットレスを開発せよという命令を受けた。
しかし、マットレスの現物の入手が出来ずに開発が進まず、大臣の立場はさらに悪いものとなったのである。